エリアス
「そこにいるのは、どなたですか?」
エリアスの声が、奥の祈祷室から届いた。
私は祭具保管室の棚の陰へ身を引き、外套の裾を押さえた。息を殺す。蝋燭の明かりが、棚の端から少しずつ近づいてくる。
『動かないで』
カサンドラの声に、私はうなずいた。返事は口に出さなければ彼女に伝わらない。今は一言も話せなかった。
エリアスが祈祷室から出てくる。祭具保管室の入口で立ち止まり、暗い室内を見渡した。蝋燭を持つ手が、棚の手前まで伸びてくる。
近い。
私は肩を縮め、口元を手で覆った。外套の裾が床につかないよう、片手で握りしめる。
エリアスが一歩、部屋へ入った。
「誰かいるのですか?」
返事はない。
蝋燭の火が揺れる。棚に並ぶ銀の器が、わずかな光を反射した。エリアスはそのあたりに目を向けたが、棚の奥までは確かめない。
そのとき、回廊の向こうから神官の声がした。
「大司教様。アニエス様がお目覚めになりました。お呼びです」
「分かった。すぐに行く」
エリアスは一度だけ部屋を見渡し、祈祷室へ戻った。やがて外扉のかんぬきが外れる音がする。扉が開き、彼が回廊へ出ていく。続いて鍵が回り、扉が閉じた。
足音が遠ざかる。
それでも、私たちは動かなかった。アニエスの容体を確かめたら、エリアスが戻ってくるかもしれない。
壁の向こうの物音に耳を澄ませる。人の声も足音も聞こえない。しばらく待ってから、私はそっと棚の陰を出た。
「行ったみたい」
『まだ油断してはいけません』
「分かってるよ」
外扉へ近づき、鍵束から一本ずつ試す。先ほどエリアスが使った鍵に合うものを見つけ、静かに錠を回した。扉を細く開け、回廊の左右を確かめる。誰もいない。
急いで扉を閉める。今度はかんぬきをかけなかった。すぐに逃げられるようにだ。
祭具保管室の奥には、礼拝室へ続く小さな扉がある。祭具を運び入れるための出入口らしい。正面扉に張られた縄と封蝋は、こちらにはなかった。
「ここから入れるんだね」
『正面の封印を破らずに済みます。鍵を試しなさい』
私は鍵束から一本選んで錠へ差し込んだ。回らない。次の鍵も違う。背後の回廊へ何度も目を向けながら、三本目を試す。
かちり、と小さな音がした。
扉を押すと、甘い香りが薄く残っていた。花のような甘さの奥に、鼻の奥を刺激する匂いが混じっている。儀式の最中、喉を焼いたあの香りだ。
私は息を浅くして、入口から中をのぞいた。
そこが、悪魔祓いの行われた礼拝室だった。
中央には、儀式のとき私が座らされた椅子が残っている。円の中心から少しずれていた。私が立ち上がったときに動かしたのだろう。椅子の脚の跡が、床に薄く残っている。
床には金色の糸が大きな円を描いて張られていた。その周囲には、七つの聖壺の破片が散らばっている。壺の底や口の部分は大きく割れ、細かな欠片は円の内側まで飛んでいた。いくつかの破片には、聖水がまだ乾ききらずに残っている。
聖水は石床の継ぎ目に沿って広がり、椅子の近くには浅い水たまりがあった。蝋燭の光が水面に揺れ、砕けた壺の破片をぼんやり映している。
祭壇の前には銀の香炉が置かれていた。蓋は外れ、中には灰と短くなった香の棒が残っている。香炉のまわりにも細かな灰がこぼれていた。
壁際の燭台には、燃え尽きて固まった蝋が垂れていた。火はすべて消え、月明かりだけが高い窓から差し込んでいる。
人の姿はない。それなのに、あの夜の叫び声と、壺が次々に割れる音が耳の奥によみがえった。
「ここで、あんなことが起きたんだ……」
『感傷に浸るのは後です。誰かが戻る前に、現場を確かめなければ』
私は入口で足を止めた。
七つの聖壺の破片。聖水の跡。香炉に残る灰。
悪魔祓いの夜に何が起きたのかを解き明かす手がかりが、目の前に残されている。
私は金色の糸を踏まないよう、慎重に礼拝室へ足を踏み入れた。




