月夜の大司教
牢の外へ出た私は、床に倒れた男性神官のそばへ膝をついた。
胸が上下している。呼吸はある。カサンドラが言ったとおり、気を失っているだけらしい。
「本当に大丈夫かな……」
『何度確認するつもりですの?』
「目を覚まさなかったら困るからだよ」
『でしたら、起きるまで待ちますか?』
「それじゃ脱獄した意味がないでしょ」
私は神官の身体を牢へ引き戻し、寝台の脇に横たえた。大柄な身体は重く、数歩動かしただけで息が切れる。頭を打たないよう、畳んだ外套を枕代わりに敷いた。
扉を閉め、鍵をかける。彼が目を覚ましても、すぐに追ってはこられない。ただ、声を上げられれば誰かに気づかれる。時間はなかった。
腰から外した鍵束には、大小さまざまな鍵がついている。
「どれがどこの鍵か分かる?」
『分かるはずがありません。片端から試すしかないでしょう』
私は神官の濃紺の外套を頭からかぶった。金髪とドレスを隠せば、遠目には少し目立ちにくくなる。
『わたくしの髪に、床へ落ちた外套をかぶせるのですか』
「もー!ほんとうるさい!」
階段を上がり、鉄扉の前で鍵を試す。三つ目が錠に合った。
扉の先は、白い石造りの回廊だった。礼拝室へ向かおうとしたとき、前方から複数の足音が聞こえた。
「誰か来る」
『扉があります。早く』
回廊の脇にある木の扉へ駆け寄る。鍵束を手のひらで包み、一つ目を差す。違う。二つ目も回らない。
足音が近づく。
三つ目の鍵を差し込む。錠は動かなかった。
「や、やばい、」
『声を出さないで!』
四つ目を試す。鍵が途中まで入り、少し回った。
そのとき、足音が角を曲がった。
私は鍵をもう一度回す。かちり、と小さな音がした。扉を開け、身体を滑り込ませる。すぐに閉め、内側のかんぬきを落とした。
外を二人の神官が通り過ぎる。私は扉に背をつけたまま、息を殺した。
「地下牢の見張りは交代させなくていいのか?」
「夜明けまではハロルドが担当する。例の令嬢に異変があれば、すぐ大司教様へ知らせるようにとのことだ」
「分かった」
二人は扉の前で足を止めた。
取っ手が押される。
内側のかんぬきが、かすかに震えた。
「鍵がかかっているな」
「祭具保管室だろう。用がないなら行くぞ」
足音が再び遠ざかる。
私はようやく肩の力を抜いた。
「危なかった……」
『あなたが鍵を選ぶのに時間をかけすぎたのです』
「どれも同じに見えたんだよ」
部屋は祭具保管室だった。布に包まれた銀器や、香炉の替え芯が棚に並んでいる。奥には、もう一つ扉があった。少しだけ開いていて、隙間から蝋燭の明かりが漏れている。
そこから、祈りの声が聞こえた。
私は棚の陰から、奥の部屋をのぞく。
エリアスが祭壇の前に跪いていた。開いた祈祷書に手を添え、静かに祈りを捧げている。銀の器も香炉もない。彼はただ、昼間の儀式について神に問いかけていた。
「主よ。私の判断が誤っているのなら、正しき道をお示しください。彼女が悪しきものに侵されているのなら、神殿を守る力を。そうでないのなら、それを見極める目をお与えください」
昼間のエリアスは、私たちを悪魔だと疑い、修道院へ送ると告げた。
その彼が、一人で迷いを口にしている。蝋燭の明かりに照らされた横顔は、ゲームで見た姿よりずっと近く、現実のものに思えた。
嫌な男だと思っている。カサンドラなんて彼を嫌悪している。
それなのに、目が離せなかった。
『何を見ていますの』
カサンドラの声が頭の中に響く。
私は返事をしようとして、口を開きかけた。すぐに、エリアスが近くにいると思い出し、唇を閉じる。
『まさか、見惚れているのではありませんわよね』
私は首を横に振る。カサンドラにだけ分かるよう、小さく。
『その反応は肯定ですわね』
彼女の声に、いつもの勢いが戻っていた。
思わず、息が漏れる。
そのわずかな音に、祈りの声が止まった。
エリアスが、ゆっくりと顔を上げる。視線が、奥の扉へ向いた。
「誰かいるのですか?」
私は外套の裾を押さえ、棚の陰へ身を引いた。




