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鍵

鉄格子の向こうでは、大柄な男性神官が聖典を読んでいた。牢から十五歩ほど離れた階段の前に腰を下ろし、腰には鍵束を下げている。


 明朝になれば、聖壺の破片も香炉の灰も処分されてしまうかもしれない。


 逃げるなら、今夜しかない。


 私は寝台へ腰を下ろし、毛布を頭からかぶった。布の中で、声をひそめる。


「どうやって逃げる?」


『鉄格子を壊します』


「道具がない。無理」


『錠を開けます』


「鍵開けなんてできない」


『見張りを買収します』


「お金も宝石も没収されたよ。ほかの案は?」


『色仕掛けです』


「絶対に嫌」


『まだ何も説明しておりませんが?』


「聞かなくても分かる。この顔も身体もカサンドラのだからね」


『……その案は却下します』


 しばらく沈黙したあと、カサンドラが言った。


『あの男をおびき寄せて、倒します』


「そんなの無理! ほかの方法を考えようよ!」


『ほかの案をすべて却下したのは、あなたでしょう!』


「見てよ、あの腕! 私たち二人分くらいあるよ!」


『魂が二人いるのですから、人数なら互角です』


「身体は一つ!」


『でしたら、その一つの身体で倒しなさい!』


 毛布の中で言い争っていると、男性神官が聖典から顔を上げた。


「何かおっしゃいましたか?」


「いいえ。独り言ですわ」


「随分と激しい独り言ですね」


 怪しむような視線を向けられ、私は毛布から顔を出した。神官はしばらくこちらを見ていたが、やがて聖典へ目を戻した。


『まずは、苦しんで倒れたふりをなさい。あの男が様子を見に来たら、背後から飛びつくのです』


「演技なんてしたことないよ」


『それくらい、できるでしょう』


「その自信はどこから来るの?」


 私は胸元を押さえ、よろめきながら格子へ近づいた。


「うっ……く、苦しい……!」


 男性神官がすぐに顔を上げた。


『下手くそですわね』


「えっ」


『声が大げさです。舞台の上ではありませんのよ』


「だって、苦しいって伝えないと――」


「カサンドラ様。先ほどから何をなさっているのです? 大丈夫ですか?」


 男性神官が立ち上がり、こちらを見ていた。


 彼は格子のそばまでは来ず、少し離れた場所から私を観察している。完全に怪しまれていた。


『一度目は失敗ですわね』


「誰のせいだと思ってるの?」


『次は、あの儀式を思い出しなさい。あなたは本当に苦しかったのでしょう』


 私は返事をせず、寝台へ戻った。神官の視線がこちらを追う。時間を置き、彼が聖典へ目を落としたのを確かめてから、もう一度格子のそばへ向かった。


 今度は、胸を押さえて大きく息を吸う。喉が焼けた感覚を思い出し、息を吸うたびに咳き込んだ。


「……っ、は……」


 膝から力が抜ける。格子へ手を伸ばすが、指先が届く前に床へ崩れた。


 すぐには目を閉じない。浅く、途切れそうな呼吸を繰り返す。あの儀式の最中、身体が思うように動かなかった感覚を思い返し、腕をかすかに震わせた。


「カサンドラ様?」


 男性神官が立ち上がる。


 私は答えない。呼吸を続けるのもつらい、というように喉を鳴らした。


「また、あのときのような発作か……?」


 足音が近づき、格子の前で止まる。


「聞こえますか、カサンドラ様」


 私は返事をしなかった。


 神官が鍵束を取り出す。金属の触れ合う音が、牢の中に響いた。


「今度は大司教様をお呼びしなければ……」


 鍵が回り、格子扉が開いた。


 神官は慎重に中へ入り、私のそばに膝をついた。


「カサンドラ様、目を開けてください」


 彼が手首を確かめようと身をかがめる。


 その瞬間、私は目を開けた。


「ごめんなさい!」


 床を蹴り、神官の背中へ飛びついた。腕を回して口を押さえる。驚いた神官が立ち上がり、私を振り落とそうと大きく身体を揺さぶった。


「んっ……!」


 腕に力が入らない。神官の手が私の手首をつかみ、引きはがそうとする。私は背中にしがみついたまま、必死に耐えた。


 神官が壁へ背中をぶつける。衝撃で息が詰まり、腕が緩んだ。


「誰か――!」


 叫びかけた神官に、私はもう一度しがみつく。しかし、彼の力は強い。身体を引きずり下ろされ、床へ押さえつけられそうになった。


『美咲!』


 カサンドラの声が響いた。


 身体の感覚が、ふっと遠のく。


「いい加減になさい!」


 私の口から、カサンドラの声が飛び出した。


 神官に引かれていた腕を無理に引き戻さず、カサンドラは相手の動きに身を任せるように身体を傾けた。壁へ叩きつけられる寸前、足を踏ん張って衝撃を逃がす。そのまま背中に密着し、腕を首元へ回した。


「なっ……!」


 神官が彼女を振り落とそうと、身体を左右に揺らす。カサンドラは脚を踏み替え、体勢を崩されないように耐えた。神官の手が腕をつかみ、ほどこうとする。


「離れなさい!」


「お断りしますわ!」


 神官が壁へ肩をぶつけた。カサンドラの顔が苦痛にゆがむ。それでも腕を緩めず、相手の力が抜けるのを待った。


 やがて、神官の動きが鈍る。膝が崩れかけたところで、カサンドラはすぐに腕をほどいた。倒れる身体を支え、頭を石床へ打ちつけないよう横たえる。


 神官の呼吸を確かめてから、腰の鍵束を外した。


 その直後、身体の感覚が私に戻ってきた。


「えっ……なんでカサンドラ、こんなことできるの?」


『公爵令嬢が、自分の身を守れないとお思いですの? 幼い頃から護身術を習っております』


「護身術って、こんな技まで習うの?」


『説明はあとです。早く鍵を使いなさい』


 私は震える手で鍵束を握りしめた。神官の聖典が、少し離れた床に落ちている。


 牢の扉の向こうには、まだ誰もいない。


 今のうちに、出なければ。

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