悪魔ではなく、人間
「それを判断するのは、あなたではありません」
エリアスの言葉に、カサンドラは唇をかんだ。
その後、私たちは神殿の地下へ連れていかれた。
父が同行することは許されなかった。
「カサンドラ!」
階段を下りようとしたところで、背後から父の声が聞こえた。
カサンドラが振り返ると、二人の神官に行く手を塞がれた父が見えた。
「必ず迎えに来る。だから、今は言うことを聞いてくれ」
「お父様は、わたくしを信じてくださるのですか?」
父はすぐに答えなかった。
ほんの一瞬だった。
それでも、カサンドラには十分だった。
「……もう結構ですわ」
父から顔をそらし、地下へ続く階段を下りていく。
壁に並ぶ燭台の明かりが、石造りの狭い通路を照らしていた。下へ進むほど空気が冷たくなり、湿った石の匂いが濃くなる。
地下には、鉄格子で区切られた小部屋が並んでいた。
そのうちの一つへ入るよう命じられる。
石壁に囲まれた部屋の正面には、天井から床まで太い鉄格子が並んでいる。中央には鍵のついた格子扉があり、中に置かれているのは粗末な寝台と小さな机だけだった。
窓はない。
客室などではない。
誰が見ても、牢だった。
「髪飾りと装身具を、すべてお渡しください」
付き添ってきたテレサの指示で、カサンドラはブローチと首飾りを外した。
「わたくしが誰かを傷つけると?」
「ご自身や、ほかの方を傷つける道具になり得ますので」
「このような場所へ閉じ込めておきながら、わたくしの身を案じていると?」
「必要な措置です」
テレサは受け取った装身具を箱へ収めた。
私たちが中へ入ると、格子扉が閉められる。
大きな鍵が錠へ差し込まれ、重い音を立てて回った。
廊下には見張りの男性神官が一人残り、テレサは階段を上っていった。
その姿が見えなくなった途端、カサンドラの身体から力が抜けた。
寝台へ腰を下ろすと、視界が大きく揺れる。遠ざかっていた手足の感覚が、私のもとへ戻ってきた。
「代わった……」
今度は私が、カサンドラの身体を動かしていた。
『よりにもよって、この状況で代わるなんて……』
「誰も見ていないときでよかったよ」
『何がよいのです! 二日後には修道院へ送られるかもしれないのですよ!』
「声を抑えて。見張りに聞こえる」
『声を出しているのはあなたでしょう!』
慌てて口を閉じた。
鉄格子の向こうを見る。
見張りの神官は、少し離れた椅子に座っていた。こちらの声までは聞こえなかったらしく、手元の聖典を読んでいる。
私は寝台へ仰向けに倒れ、悪魔祓いで起きたことを順番に思い返した。
聖水へ指を浸したときには、何も起こらなかった。
祈りが始まり、香炉の煙が濃くなるにつれて、喉が痛み、心臓の鼓動が速くなった。
けれど、身体の異変は儀式より前からあった。
「屋敷を出る前から、少し胸が苦しかった」
『慣れないコルセットのせいだと考えていたのでしょう?』
「でも、今も同じコルセットを着けてるのに、だいぶ楽になってる」
香炉の火が消され、煙のない場所へ移ってから、喉の痛みも動悸も少しずつ治まっている。
次に、七つの聖壺を思い出した。
一つ目が割れた。
少し遅れて二つ目。
そのあとも壺は一つずつ砕け、最後の壺は砂時計の砂が落ちきった直後に割れた。
「やっぱり変だよ」
『何がです?』
「私たちの中に悪魔がいて、そいつが壺を壊したなら、どうして一個ずつ割れたの?」
『悪魔にも、何か考えがあったのではなくて?』
「わざわざ順番に壊して、最後だけ砂時計に合わせたの? ずいぶん演出にこだわる悪魔だね」
『……確かに、不自然ですわ』
「私たちが苦しんでいるところを見せてから、壺を割る。みんなが悪魔だと信じるように、わざと見せつけたみたい」
偶然にしては出来すぎている。
誰かが、あの場にいた全員へ見せるために仕組んだのだとすれば、すべてに説明がつく。
「もしかしたら、私たちははめられたのかもしれない」
『誰にです?』
「それを調べるんでしょ」
『わたくしを恨んでいる者なら、大勢おりますわ』
「どうして少し誇らしそうなの?」
『恨まれるのは、それだけわたくしが相手にとって無視できない存在だということです』
「普通、それは誇るところじゃないよ」
『誰の記憶にも残らない人間より、よほどましですわ』
大勢に恨まれているという部分は、否定しないらしい。
「でも、調べようにもここから出られない」
『でしたら、出していただけばよいのです』
「エリアスが許すわけないでしょ」
『頼み方の問題ですわ。神殿の威信をお使いなさい』
「神殿の威信?」
『もし人間が儀式へ細工できたのなら、これはカサンドラ一人の問題ではありません。聖なる儀式そのものが、誰かを陥れる道具にされたのです』
私は寝台から起き上がった。
「このまま悪魔の仕業で終わらせたら、同じ方法で誰かを悪魔にできる」
『少しは頭が働きましたわね』
「考えたのはカサンドラだけどね」
私は格子扉へ近づいた。
「大司教様を呼んでください」
見張りの神官が聖典から顔を上げる。
「カサンドラ様をここから出すことはできません」
「承知しています。大司教様に、こちらへ来ていただきたいのです」
「どのようなご用件ですか?」
「神殿の儀式に、人間が細工をした可能性があります」
神官の表情が変わった。
◇
エリアスが地下へ来たのは、それから半刻ほど後だった。
格子扉を挟んで向かい合う。
「人間が儀式へ細工したと考えているそうですね」
「はい。わたくしに調査をさせてください」
「認められません」
迷いのない拒絶だった。
「あなたは悪魔憑きの疑いをかけられている当事者です。神殿内を自由に歩かせることはできません。聖壺や香炉に触れさせれば、証拠を壊す可能性もあります」
「自由にしてほしいとは申し上げておりません。大司教様が調べ、わたくしは監視された状態で立ち会います」
「同じことです」
「なぜです?」
「あなたの言葉や行動が、悪魔に操られたものではないという保証がありません」
エリアスの金色の瞳は、冷たく私を見ていた。
「苦しみがいつ始まり、何をしたときに強くなったのかを知っているのは、わたくしだけです」
「その証言が正しいという保証もありません」
「だからこそ、物を調べる必要があります」
私は鉄格子を握った。
左右に立つ神官たちが警戒するように身構える。
「聖水へ触れたとき、身体には何も起きませんでした。苦しくなったのは、香炉の煙が広がってからです。七つの壺も同時ではなく、順番に割れました。最後の壺が砕けたのは、砂時計の砂が落ちきった直後です」
「悪魔が儀式の進行に反応したとも考えられます」
「人間が仕掛けた可能性もあります」
「可能性だけで、あなたを現場へ戻すことはできません」
『神殿が見落としている危険を、お教えなさい』
カサンドラの声に従い、私は一度息を整えた。
「もし今回の現象を人間の手で起こせるのなら、今後は誰でも悪魔に仕立てられます」
エリアスの眉がわずかに動いた。
「政敵の身体を弱らせ、儀式の道具へ細工をする。神殿が人為的な可能性を確認せず、目の前で起きたことだけを信じるなら、悪魔祓いは人を陥れる武器になります」
「神殿の判断が悪用されたと?」
「その可能性があると申し上げています」
「ならば、神殿が調べます」
「わたくしも立ち会わせてください」
「認められません」
「質問は大司教様を通します。物には触れません。何人でも監視をつけてください」
「それでも認められません」
エリアスは一歩も譲らなかった。
「あなたの主張には、検討する価値があります。聖壺と香炉については神殿が確認します。しかし、疑いをかけられている本人を、調査へ加えることはできない」
「わたくしの命が懸かっているのです!」
「だからこそ、公平な調査が必要です」
「二日で何が分かるのです? 神殿に都合の悪いものが見つかっても、きちんと報告される保証はありますの?」
エリアスの表情が硬くなった。
「神殿が証拠を隠すと言っているのですか?」
「わたくしを悪魔だと決めつけた方々を、何の疑いもなく信じろと?」
鉄格子を挟み、視線がぶつかる。
「調査は行います。しかし、あなたの立ち会いは許可しません」
エリアスはそれだけ告げ、背を向けた。
「待ってください!」
「明朝、神殿の者が聖壺の破片と香炉を確認します。結果はお伝えします」
「明朝では遅いかもしれません!」
エリアスの足が止まる。
「どうして、そう考えるのです?」
答えられなかった。
証拠を消されるかもしれないというのは、私の想像にすぎない。
「……根拠はないのですね」
エリアスは再び歩き出した。
「今夜はお休みください。明日、改めてお話をうかがいます」
神官たちも彼に続き、階段の向こうへ消えていった。
説得は失敗した。
◇
それからしばらくして、二人の修道女が牢の前を通った。
「礼拝室の片づけは終わりましたか?」
「まだです。割れた聖壺は明朝、聖水と一緒に処分します。香炉の灰も、古いものとまとめて捨てるようにと」
足音と話し声が遠ざかっていく。
私は寝台から立ち上がった。
『今の話、聞きましたわね?』
「明日の朝には、全部なくなる」
神殿が調べると言っても、その前に片づけられてしまうかもしれない。
壺の破片も、香炉の灰も、私たちが苦しんだ原因を知るための手がかりだ。
「今夜しかない」
『まさか、この牢から抜け出すつもりですの?』
「カサンドラだって、そのつもりでしょ?」
『もちろんですわ』
「さっきは正面から許可を取れって言ったくせに」
『正面が駄目なら、強引に参ります』
「悪役令嬢らしいね」
『褒め言葉として受け取っておきますわ』
鉄格子の向こうでは、見張りの男性神官が再び聖典を読んでいた。
腰には、牢の鍵が下がっている。
明日の朝になれば、証拠は消える。
そして日没までに何も見つけられなければ、私たちは聖セレナ修道院へ送られる。
残された時間は、一晩だけだった。




