悪魔にされた令嬢
「お父様……」
身体を動かしているカサンドラから、怒りが消えていく。その代わりに、深い動揺が伝わってきた。
「疑いたいわけではない。だが、今のお前は……」
父は最後まで言えず、口を閉ざした。
無理もない。
儀式が始まる前と今では、声も表情も口調も違う。苦しみながら別人のように立ち上がり、祈りを拒絶した直後、七つの聖壺がすべて砕けた。
悪魔の仕業だと思うなというほうが難しい。
「大司教様!」
腕を負傷したアニエスを支えながら、ベアトリスが叫んだ。
「早く、その方を円の中へ戻してください! 儀式を最後まで行わなければ!」
「お待ちなさい」
エリアスが低い声で制した。
しかし、その目はカサンドラを警戒していた。
「まず、負傷者を礼拝室から出します。ほかの者はカサンドラ嬢へ近づかないでください」
「わたくしが、何をしたとおっしゃるの?」
カサンドラが一歩踏み出す。
修道女たちが一斉に後ずさった。
「来ないで!」
「近づかないでください!」
怯えた声が重なり、カサンドラの足が止まる。
『カサンドラ、今は動かないほうがいい』
私の声は彼女の頭の中にしか届かない。
カサンドラは返事をしなかった。今ここで独り言を口にすれば、さらに疑われると理解しているのだろう。
「窓を開け、香炉の火を消してください」
エリアスの命令で、クララが窓を開けた。テレサは香炉へ蓋をかぶせる。
白い煙が外へ流れていく。
それでも喉の痛みは消えず、心臓は激しく打ち続けていた。
カサンドラは平静を装っていたが、膝が震えている。
「大司教様」
最年長の修道女テレサが、厳しい顔で進み出る。
「これほど明確な反応を、私は見たことがございません」
「どのような意味です?」
「聖別の祈りが始まった途端に苦しみ、人格が変わり、聖なる器がすべて砕けました。悪しきものが宿っているとしか考えられません」
「人格など変わっておりません!」
カサンドラが声を荒らげた。
「わたくしは、最初からカサンドラ・ヴァレンティアです!」
「では、儀式の前まで話していた方は、どなたなのですか?」
マリアンヌの問いかけに、カサンドラが言葉を失う。
その場にいる全員の視線が集まった。
「先ほどのカサンドラ様は、もっと弱々しい話し方をなさっていました。今とはまるで別人です」
「それは……苦しさのあまり、取り乱しただけですわ」
「先ほど、ご自分から『最初からこの身体にいる』とおっしゃいました。それではまるで、それまで身体を動かしていたのが別の何者かだったように聞こえます」
逃げ道を塞ぐような指摘だった。
父が青ざめている。
「カサンドラ。お前の中には、本当に誰かいるのか?」
「おりません!」
カサンドラの答えを聞き、胸の奥が強く痛んだ。
嘘をつかなければ、私たちは守れない。
けれどカサンドラにとっては、自分の中にいる私の存在を否定する言葉でもある。
『気にしなくていいよ。今は否定して』
私が呼びかけると、カサンドラの指先がわずかに震えた。
「大司教様。娘は悪魔に取り憑かれているのですか?」
父が尋ねた。
エリアスはすぐには答えなかった。
砕けた七つの聖壺。
床へ広がった聖水。
負傷した修道女。
そして、その中心に立つカサンドラを順番に見る。
「現時点では、その可能性が極めて高いと考えています」
胸の奥が冷たくなった。
「そんな……」
「聖別の祈りに対して激しい苦痛を示し、人格に明らかな変化が現れ、七つの聖壺が破壊された。神殿に残る悪魔憑きの記録と、複数の点で一致しています」
「記録と一致しているから、悪魔だと決めつけるのですか!」
「決めつけてはいません。だからこそ、今すぐ処分を下していないのです」
エリアスの口調は冷静だった。
しかし、私たちを信じているわけではない。
悪魔である可能性を前提に、慎重に扱おうとしているだけだ。
「もう一度、儀式を行ってください」
カサンドラが訴える。
「今度は取り乱したりいたしません。聖壺が割れたことも、わたくしとは無関係ですわ」
「認められません」
「なぜです?」
「次の儀式でも同じことが起きれば、今度は人命が失われるかもしれない。すでに修道女が一人、負傷しています」
「では、どうすれば信じてくださるのです!」
「これから二日間、神殿で経過を観察します」
エリアスは父へ向き直った。
「オズワルド公爵。カサンドラ嬢の身柄を、神殿でお預かりします」
「娘を拘束するというのですか?」
「悪魔憑きの疑いがある者を、屋敷へ帰すことはできません」
「カサンドラは誰も傷つけていない!」
「七つの聖壺が砕け、アニエスが負傷しました」
「あれは娘がしたことではない!」
「そう証明できますか?」
父が黙り込む。
証明できるはずがない。私たち自身、何が起きたのか分かっていないのだから。
「お父様。わたくしをここへ置いていくおつもりですか?」
カサンドラの声が震えていた。
「違う。私は……」
父は何か言おうとしたが、エリアスに遮られた。
「二日後、もう一度カサンドラ嬢の状態を確認します。それまでに悪魔の存在を否定できる事情が見つからなければ、正式な処置へ移ります」
「正式な処置とは?」
「聖セレナ修道院への移送です」
その名前を聞いた瞬間、血の気が引いた。
知っている。
王都から遠く離れ、高い塀に囲まれた修道院。
大司教ルートで、カサンドラが二度と外へ出られなくなる場所だ。
処刑はされない。
けれど家族にも、アレクシスにも会えないまま、閉ざされた部屋で一生を終える。
『カサンドラ。そこへ行ったら、もう戻れない』
震える私の声を聞き、カサンドラの身体が大きくこわばった。
「嫌です……」
初めて、彼女の口から弱い声が漏れた。
「わたくしは悪魔ではありません。修道院へ行く理由などありませんわ」
「それを判断するのは、あなたではありません」
エリアスの言葉に、カサンドラは唇をかんだ。




