七つの聖壺
「お待ちしておりました、カサンドラ・ヴァレンティア嬢」
若き大司教エリアス・クローヴェルは、穏やかな金色の瞳で私を見つめた。
白銀の髪に、金糸で刺繍された白い法衣。
ゲームで何度も見た攻略対象の一人が、手を伸ばせば届くところにいる。
けれど、ときめいている余裕はなかった。
「どうぞ、お掛けください」
私と父は、勧められた椅子へ腰を下ろした。
エリアスは机を挟んだ向かい側へ座り、一枚の紙へ目を落とす。
「オズワルド公爵から、最近のご様子についてうかがっています。誰もいない場所で話す。突然、口調や表情が変わる。手足が、ご自分の意思に反して動くこともあるそうですね」
父が悲しそうに目を伏せた。
「すまない、カサンドラ。だが、私はお前を助けたかったんだ」
『三週間も、わたくしたちを観察していたということですの?』
カサンドラの不満そうな声が、頭の中に響く。
返事をしたくなったが、唇を結んで耐えた。
私たちが人前でも言い争っていたから、こんな事態になったのだ。大司教の前で独り言を口にすれば、自分から悪魔の存在を証明するようなものだった。
「公爵から聞いた話に、間違いはありますか?」
「最近、少し疲れていたのだと思います」
「自分をカサンドラではないかのように呼ぶこともあったそうですが」
「それは……言い間違いです」
『あまり上手な嘘ではありませんわね』
分かってる。
心の中で答える。当然、カサンドラには伝わらない。
エリアスは疑っているようだったが、それ以上追及しようとはしなかった。
「お話だけで、悪魔の仕業と判断することはできません。心身の疲労や、先日の事件に巻き込まれた衝撃が原因である可能性もあります」
「では、娘は悪魔に取り憑かれていないのですか?」
「それを確かめるため、聖別の儀式を行います」
エリアスが私へ向き直る。
「受けていただけますか?」
『気に入りませんが、ここで拒めば余計に疑われます』
私も同じ考えだった。
「受けます」
エリアスが扉の外へ合図を送った。
ほどなくして、白い修道服をまとった五人の女性が入ってくる。
「本日の儀式を補佐する修道女たちです」
焦げ茶色の髪を白い布で覆ったマリアンヌ。
背の低いアニエス。
灰色の髪を後ろでまとめたベアトリス。
まだ若いクララ。
五人の中で最も年長のテレサ。
「よろしくお願いいたします、カサンドラ様」
五人がそろって頭を下げる。
顔を上げた彼女たちの視線が、一斉に私へ集まった。
好奇心。不安。そして恐怖。
『どなたか、見覚えがあるような……』
カサンドラがつぶやく。
しかし、五人のうち誰を指しているのかは分からなかった。
詳しく尋ねたかったが、今は返事ができない。
五人に案内され、隣の礼拝室へ入った。
床には金色の糸で大きな円が描かれ、その中央に一脚の椅子が置かれている。
周囲に並んでいるのは、七つの白い壺だった。
「この壺も儀式に使うのですか?」
「七聖人を表す聖壺です」
エリアスが答える。
「聖水を満たした壺で囲み、その中心で祈りを受けていただきます」
「もし悪魔がいたら、どうなります?」
「聖水に触れた者が苦しむ。祈りを拒絶する。意識を失う。記録によって反応は異なります」
『何が起きても、悪魔のせいにできそうですわね』
私も同じことを思った。
口には出さず、金色の円の中央に置かれた椅子へ座る。
五人の修道女が準備を始めた。
ベアトリスが一つの壺を持ち上げ、円の上へ置き直す。
ごとり、と鈍い音が響いた。
アニエスが銀の水差しから、七つの壺へ聖水を注いでいく。
テレサは古い聖典を開き、エリアスと儀式の手順を確認していた。
マリアンヌは壺の間隔を一つずつ調べると、銀色の香炉を円の内側へ置いた。
最後にクララが祭壇の蝋燭へ火をともし、壁際の砂時計を裏返す。
続けて香炉へ火を入れた。
白い煙が細く立ち上り、礼拝室へ広がっていく。
「準備が整いました」
五人の修道女が壁際へ下がった。
花のような甘い香りに混じって、鼻の奥を刺すような刺激を感じる。
エリアスが一度だけ咳をした。
壁際へ下がったクララも、目元を指でぬぐっている。
父は気づいていないのか、心配そうに私だけを見つめていた。
「最初に、聖水へ触れていただきます」
エリアスが差し出した銀の器へ、両手の指先を浸した。
冷たい。
それだけだった。
皮膚が焼けることも、痛みが走ることもない。
父が安堵したように息を吐く。
「次に、聖別の祈りを捧げます。何が起きても、できるだけ椅子から動かないでください」
「分かりました」
エリアスが聖典を開いた。
低く静かな祈りが、礼拝室へ響き始める。
最初のうちは、何も起こらなかった。
これなら大丈夫だ。
そう思った直後、喉の奥に痛みが走った。
「うっ……」
小さく咳き込む。喉が焼けるように熱くなった。
それだけではない。
心臓が大きく跳ね、鼓動が急に速くなっていく。
息を吸っても空気が足りない。指先まで小刻みに震え始めた。
『美咲……苦しいですわ』
カサンドラの声も震えている。
一つの身体で起きている異常を、私たち二人が同時に感じていた。
ここで騒いではいけない。
苦しんだり、祈りを拒絶したりすれば、悪魔が宿っている証拠にされる。
カサンドラも、それを分かっていた。
『耐えなさい。ここで取り乱せば、余計に疑われます』
私は膝の上で両手を握り、歯を食いしばった。
エリアスが聖典の次の頁を開く。
「聖なる光よ。この身に宿る災いを照らしたまえ」
祈りの声が強くなる。
香炉の煙は絶えず私の方へ流れていた。
動悸も、息苦しさも激しくなっていく。
視界が揺れ、椅子から転げ落ちそうになる。
「カサンドラ!」
父が立ち上がろうとした。
「公爵、まだ儀式の途中です」
エリアスが制止する。
「しかし、娘が苦しんでいる!」
「もう少しだけ、お待ちください」
『もう少しですって……?』
カサンドラの声に、怒りが混じる。
それでも彼女は、身体の主導権を奪おうとはしなかった。
今ここで入れ替われば、口調も表情も変わる。私たちが隠してきたことを、全員の前で見せることになる。
エリアスは祈りを続けた。
「もしこの身に邪悪なものが宿っているのなら、神の御前に姿を現しなさい」
『邪悪なもの……』
「この者の魂を縛る悪しき存在よ。その身から立ち去りなさい」
『誰が悪しき存在ですって? わたくしは、この身体の持ち主です!』
怒りと苦痛が、一気に膨れ上がった。
身体の奥から強い力がせり上がってくる。
駄目だ。
今、入れ替わってはいけない。
そう思ったときには、指先の感覚が失われていた。
目の前が大きく揺れる。
「やめなさい!」
カサンドラが、私の口から叫んだ。
苦痛に耐えていた身体が、勢いよく立ち上がる。
「わたくしが悪魔だとでもおっしゃるのですか!」
声も、口調も、表情も変わっていた。
父が息をのみ、五人の修道女が一斉に後ずさる。
エリアスも祈りを止めた。
「あなたは……」
「わたくしはカサンドラ・ヴァレンティアです! 最初から、この身体におります!」
その瞬間だった。
乾いた音が、礼拝室へ響いた。
右側に置かれた聖壺の底へ亀裂が走る。
「何ですの……?」
カサンドラが振り返った直後、壺が内側から押し開かれるように砕けた。
床へ聖水が広がる。
間を置かず、二つ目の壺が割れた。
続いて、三つ目。
四つ目。
カサンドラを取り囲む聖壺が、順番に砕けていく。
「聖壺が!」
修道女の一人が悲鳴を上げた。
五つ目の壺が割れ、飛び散った破片がアニエスの腕を切った。
「きゃっ!」
ベアトリスが、よろめいたアニエスを支える。
「動いてはいけません!」
エリアスが叫んだ。
「これを見て、じっとしていろとおっしゃるの!?」
カサンドラが言い返した直後、六つ目の壺も砕けた。
残る聖壺は一つ。
礼拝室にいる全員が、最後の壺を見つめる。
壁際の砂時計から、最後の砂が落ちた。
壺の底に、細い亀裂が生まれる。
亀裂は枝分かれしながら側面を駆け上がり、最後の聖壺も激しい音を立てて砕け散った。
七つすべての聖壺が割れていた。
大量の聖水が、金色の円を越えて床へ流れ出す。
その中心に、カサンドラだけが立っている。
「聖なる器が、あの方を拒絶した……」
誰かが、震える声でつぶやいた。
「違いますわ。わたくしは何もしておりません!」
カサンドラが否定しても、誰も近づこうとしない。
修道女の一人が、青ざめた顔で後ずさった。
「悪魔です……」
その言葉をきっかけに、礼拝室へ恐怖が広がる。
父が、信じられないものを見るように私たちを見つめていた。
「お前は……本当に、カサンドラなのか?」
カサンドラの怒りが消えた。
代わりに、深い動揺が伝わってくる。
「お父様まで……わたくしを疑うのですか?」
答える者はいなかった。
苦しみながら、突然別人のように話し始めたカサンドラ。
その直後に砕けた、七つの聖壺。
私は、この先に待っている結末を知っていた。
ゲームでは、カサンドラは悪魔に魂を売ったと疑われ、遠い修道院へ幽閉される。
今回の疑いは、悪魔に取り憑かれていること。理由は少し違う。それでも、このまま進めば行き着く場所は同じだ。
ゲームとは違う事件を通って、私たちは同じバッドエンドへ近づいていた。




