私の身体を返しなさい!!!
『今すぐ、わたくしの身体から出ていきなさい!』
頭の中で、カサンドラの怒鳴り声が響いた。
「出ていけって言われても……どうやって?」
『そんなこと、わたくしが知るはずないでしょう!』
「じゃあ無理だよ!」
『無理ではありません! 入ってこられたのなら、出ることもできるはずです!』
「私だって、好きで入ったんじゃない!」
鏡に映るカサンドラの口が、私の言葉に合わせて動いている。
声も手足も、今は私の意思に従っていた。
けれど頭の中から聞こえるのは、間違いなくカサンドラ本人の声だ。三か月間、ゲームで何度も聞いてきた。
ただ、今の彼女はいつもと違う。
ゲームのカサンドラは、どれほど追い詰められても堂々としていた。今は自分の身体を奪われ、完全に動揺している。
『わたくしは昨夜、いつもどおり自分の寝台で眠りました。ところが目を覚ましたら、身体が勝手に動き始めたのです!』
「私も目を覚ましたら、こうなってたんだよ!」
『あなたが何かしたのでしょう!』
「してない!」
『では、なぜわたくしの身体にいるのです!』
「知らないって言ってるでしょ!」
私が声を張り上げた瞬間、右手が勝手に持ち上がった。
「え?」
右手が頬をつねる。
「いひゃい!」
『出ていきなさい!』
「痛いのはそっちも同じでしょ!」
『この程度、なんともありませんわ!』
右手がさらに強く頬を引っ張った。
私は左手で右手首をつかむ。
『離しなさい!』
「そっちが先に離して!」
鏡の前で、自分の右手と左手がつかみ合った。
右手はカサンドラ。
左手は私。
一つの身体を使って、二人で喧嘩している。
「待って! このままだと腕が変な方向に曲がる!」
『でしたら、抵抗をやめなさい!』
「嫌だよ!」
しばらく引っ張り合った末、右手から急に力が抜けた。
私は慌てて左手を離す。
「今の、カサンドラが動かしたの?」
『自分の手を動かしただけです』
「今は私の手でもあるんだけど」
『わたくしの身体です!』
また頭の中で怒鳴られた。
この女、画面越しでも話が通じないと思っていたけど、実際に話すと想像以上だ。
「喧嘩しても仕方ない。まずは、今の状況を確認しよう」
『あなたに指図される筋合いはありません』
「じゃあ一人で確認してよ」
『できるなら、そうしています!』
「だったら協力するしかないでしょ!」
カサンドラが黙った。
納得したわけではないらしい。頭の奥から、歯ぎしりするような気配が伝わってくる。
私は恐る恐る右手を上げた。
今度は素直に動く。
左手を上げ、足を一歩前へ出す。
「今は私が全部動かせるみたい」
『返しなさい』
「返し方が分からないんだって」
そう答えた途端、身体の奥から強い力が湧き上がった。
手足から感覚が遠ざかる。
指を動かそうとしても、動かない。
「返しなさいと言いました」
私の口から、カサンドラの声が出た。
『ちょっと、待って!』
今度は私の声が頭の中に響いた。
鏡も、部屋も見えている。頬に触れる髪の感触も分かる。
それなのに、身体を動かせない。
自分の身体の奥へ押し込められたようだった。
「ようやく戻りましたわ」
カサンドラは両手を確認し、安堵の息を漏らす。
鏡へ近づき、自分の顔や髪を念入りに確かめた。
『どうやったの?』
「わたくしが知るはずないでしょう」
『私が分からないと怒ったくせに』
「黙っていてくださる?」
『怒ったから、身体を取り戻せたのかな』
「あなたのような侵入者に身体を奪われれば、誰でも怒ります!」
カサンドラが鏡台を叩いた。
その瞬間、身体が大きく揺れる。
「あっ」
手足の感覚が戻ってきた。
鏡台を叩いた右手の痛みとともに、私は再び身体の主導権を取り戻す。
「戻った……」
『どうして!?』
カサンドラの声が頭の中から響いた。
どうやら、強い感情が湧いた瞬間だけ、カサンドラも身体を動かせるらしい。ただし、長くは続かない。
今のところ、身体の主導権は私にある。
そう考えていると、部屋の扉が叩かれた。
「お嬢様?」
若い女性の声だった。
「先ほどから大きな声が聞こえておりますが……お入りしてもよろしいでしょうか?」
私は固まった。
『ロザリーです』
「ロザリー?」
『わたくし付きの侍女です』
ゲームにも登場した少女だ。
気が弱く、いつもカサンドラに叱られていた。
「どうしよう」
『平静を装いなさい』
「カサンドラの話し方なんてできないよ!」
『先ほどから、わたくしの話し方を聞いていたでしょう。少しくらい真似なさい』
「聞いただけでできるわけないでしょ!」
「お嬢様? 失礼いたします」
返事をする前に扉が開いた。
茶色い髪を後ろで結んだ少女が、銀の盆を持って入ってくる。
ロザリーは私の顔を見ると、安堵したように息を吐いた。
「お目覚めになったのですね。今朝から何度お呼びしても返事をなさらなかったので、心配いたしました」
「そ、そうなんだ」
ロザリーの表情が止まった。
『言葉遣い!』
「そうでしたのね」
『声が裏返っていますわ!』
「うるさい!」
「え?」
しまった。
ロザリーが目を丸くしている。
「い、いえ。今のは、あなたに言ったのではなくて……」
『額に手を当てなさい』
「なんで?」
小声で聞き返すと、ロザリーが首を傾げた。
「何かおっしゃいましたか?」
「な、何も言っていませんわ」
『誰もいない場所へ話しかければ、不審に思われて当然でしょう!』
「誰のせいだと思ってるの……」
「お嬢様?」
またロザリーに聞かれ、私は慌てて口を閉じる。
『体調が悪いことにするのです。早く!』
私は言われたとおり、額に手を当てた。
「少し、頭が痛みますの」
「やはり、まだお加減が悪いのですか? すぐに医師を呼んでまいります」
『止めなさい!』
「待って!」
私が手を伸ばすと、ロザリーがびくりと肩を震わせた。
その反応を見て、思わず手を引っ込める。
カサンドラが声を荒らげるたび、ゲームのロザリーも同じ顔をしていた。
「医者は呼ばなくて結構ですわ」
「ですが、お嬢様は十二時間以上も眠っておられました。このことを旦那様がお知りになれば、大変ご心配なさいます」
「お父様には知らせましたの?」
「いいえ。お嬢様が大げさにするなとお命じになりましたので、まだ……」
『よかった』
カサンドラが安堵の息を漏らす。
「どうして安心するの?」
小声で尋ねると、ロザリーが不安そうに私の顔をのぞき込んだ。
「あの……先ほどから、どなたとお話しになっているのですか?」
「ひ、独り言ですわ」
「ですが、何度も返事をなさっているように聞こえます」
「気のせいです!」
強く否定すると、ロザリーが一歩後ずさった。
「やはり、お医者様をお呼びしたほうが……」
「必要ありません!」
『声が大きすぎますわ!』
「もう、どっちなの……」
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
ロザリーの顔には、はっきりと心配の色が浮かんでいた。
これ以上カサンドラと話していたら、本当に医師を呼ばれてしまう。
『身体の中から見知らぬ女の声が聞こえるなどと知られたら、正気を失ったと思われます。王太子妃になる道を閉ざされてしまいますわ』
こんな状況でも、最初に心配するのは王太子妃になれるかどうからしい。
『ロザリーを下がらせなさい。誰も部屋へ入れないよう命じるのです』
「でも、この子は心配してくれてるよ」
囁くように反論すると、ロザリーがますます不安そうな顔になる。
まずい。今のも聞かれた。
「少し一人で休みたいの。しばらく誰も部屋へ入れないで」
「かしこまりました。ですが、何かございましたら、すぐにお呼びください」
「心配してくれて、ありがとう」
ロザリーが目を見開いた。
「……お嬢様が、私に?」
「え?」
「い、いえ。失礼いたしました」
ロザリーは慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。
扉を閉める直前にも、心配そうに私を見ていた。
『何を勝手に礼など言っているのです!』
「心配してくれたんだから、普通でしょ」
『主人が使用人へ軽々しく礼を言うものではありません!』
「お礼くらいいいでしょ!」
『よくありません!』
また言い争いが始まった。
頭の中で怒鳴られるたびに、頭痛までひどくなってくる。
「もうやめよう。お互いに分からないことだらけなんだから、喧嘩しても仕方ない」
『わたくしは喧嘩などしておりません。侵入者へ退去を命じているだけです』
「出られないんだから仕方ないでしょ」
『死んでもお断りです』
死んでも。
その言葉に、私は口を閉じた。
鏡に映るカサンドラを見る。
美しい金髪。
青い瞳。
この顔が、半年後には断頭台の上にある。
そして刃が落ちた瞬間、私も一緒に死んでしまうかもしれない。
『何ですの?』
カサンドラが不審そうに尋ねた。
「私の名前は佐倉美咲。二十五歳。日本という、あなたたちの知らない世界で生きていた」
『何を言っているのです?』
「信じられないと思う。でも、聞いて」
私は鏡に映るカサンドラの目を見つめた。
「私は、あなたの未来を知ってる」
『わたくしの未来?』
「半年後、あなたは聖女候補に毒を盛った罪を着せられる」
カサンドラの気配が止まった。
「そして――処刑される」




