入れ替わりの特訓
王太子のお茶会まで、あと三週間。
「それまでに、自由に交代できるようになろう」
『当然ですわ。アレクシス殿下とお話しするのは、わたくしです』
「私はルシアンにお礼を言いたい」
『殿下との会話が終わるまで、奥で待っていなさい』
「順番まで決められるなら、苦労してないよ」
私たちの主導権は、怒りや恐怖などの感情が激しく動いたときに入れ替わることがある。
しかし、いつ起きるかは分からない。
昼間は令嬢としての勉強をこなし、残った時間で交代する方法を探すことになった。
最初の練習場所は浴室だった。
侍女たちを外へ下がらせれば、カサンドラと話しても聞かれにくい。浅く湯を張った浴槽で、縁に身体を預けたまま練習すれば、急に主導権が移っても転びにくい。
「始めよう」
『身体を渡しなさい』
目を閉じ、全身から力を抜く。
カサンドラが身体の前へ出てくるところを想像する。
一分。
二分。
三分。
何も起きない。
「失敗」
『もう一度です』
五回、十回と繰り返しても変化はなかった。
次は感情を利用することにした。
「エミリアが、アレクシス殿下の隣で楽しそうにお茶を飲んでる」
『やめなさい』
「殿下もエミリアを見つめて、優しく笑ってる」
『やめなさいと言っているでしょう!』
胸の奥に強い怒りが伝わってきた。
それでも、主導権は私にある。
諦めかけた瞬間、右手が勝手に水面を叩いた。
「今、動いた!」
『今のは……わたくしが動かしたのですか? 動かそうとはしていなかったのに』
「自分でも分からないんだ」
『分かれば苦労しません!』
今度はカサンドラが、私の感情を動かそうとした。
『シラス医師に襲われたとき、ルシアン卿があなたを抱き寄せましたわね』
「助けてくれただけだよ」
『顔を近づけて、“もう大丈夫です。私がそばにいます”と』
「その台詞を再現するのはずるい!」
ルシアンの顔が浮かび、身体が熱くなった。
しかし、私が一人で照れただけで、入れ替わりは起きなかった。
初日の挑戦は十五回。
完全な交代は、一度も成功しなかった。
翌日から、練習場所は屋敷中へ広がった。
衣装部屋で、歩きながら身体を譲ろうとした。
何度試しても何も起きず、諦めて出口へ向かった瞬間、右足だけがカサンドラの意思で動いた。
両足が絡まり、衣装掛けへ倒れ込む。
何着ものドレスが、頭上へ降ってきた。
「お嬢様!」
駆け込んできたロザリーたちが、ドレスの山から私を救い出す。
「大丈夫。少し服に襲われただけだから」
「服は人を襲いません!」
廊下では、三十分練習しても指一本動かなかった。
片づけようとした瞬間、突然右腕が伸び、侍女の盆へ当たった。
銀の食器九枚が床へ散らばる。
庭園では、何の準備もしていないときに片足を奪われ、水桶へ腰から落ちた。
ダンスの練習室では、特訓を終えた直後に左腕と右足が別々に動き、衝立を倒した。
「どうして練習中には動かないの!」
『わたくしに聞かれても知りませんわ!』
狙って動かすことはできない。
忘れたころに、指や手足の一部だけが突然動く。
一週間が過ぎるころには、屋敷全体が私を警戒していた。
廊下の角には厚い布が巻かれ、浴槽の湯はさらに浅くされた。
庭師は私が近づくたびに水桶を隠した。
階段では二人の侍女が両側から腕を支え、椅子へ座るだけでロザリーが背後へクッションを置いた。
「そこまでしなくても大丈夫よ」
「お嬢様の“大丈夫”は、もう信用できません」
『使用人のくせに、主人へ何という口を利くのです!』
「カサンドラが暴れるからでしょ」
「私が何かいたしましたか?」
「ロザリーじゃない!」
二週目に入っても、完全な入れ替わりは起きなかった。
朝食中、突然動いた右手がパンを紅茶へ落とした。
刺繍の途中では、布ではなく自分の袖を二度も縫いつけた。
浴室では左右の手が別々に動き、石鹸を三回も浴槽の底へ沈めた。
諦めかけたころに限って手足が動き、衣装部屋では二つ目の衣装掛けまで倒した。
浴槽から急に立ち上がったことも七回あり、そのたびに湯が床へあふれた。
昼間の予定だけでも疲れるのに、夜は毎日特訓が続く。
挑戦回数が五十回を超えたころ、父オズワルド公爵に呼び止められた。
「最近、何か悩んでいるのかい?」
「特にありませんわ」
「浴室から叫び声が聞こえ、屋敷中で物を倒しているそうだね」
すべて父へ報告されていた。
「新しい運動を始めたのです」
「どこの国の運動なんだ?」
「遠い国です」
『そのような嘘で、お父様を納得させられると思っているのです?』
「黙ってて」
「カサンドラ?」
「いえ。自分に言いました」
父の顔が曇る。
「事件のことを思い出しているのではないか? あれほど恐ろしい目に遭ったんだ。つらいのなら、私に話してほしい」
入れ替わりのことは説明できない。
私は大丈夫だと答え、無茶はしないと約束した。
『お父様は心配しすぎです。わたくしが、あの程度の事件でおかしくなるはずがありません』
「周りから見たら、十分おかしく見えるよ」
『誰のせいですの?』
「二人のせいでしょ」
その日の夜から、静かに練習することにした。
ところが十五回失敗して諦めた直後、右手が手桶を弾き飛ばした。
手桶は扉へ激突し、屋敷中に音を響かせた。
「お嬢様!」
「何でもない!」
「旦那様をお呼びします!」
「それだけはやめて!」
静かな特訓は、一分で終わった。
三週目になると、侍女たちの監視はさらに厳しくなった。
練習できる場所は浴室だけになった。
目を閉じる。
力を抜く。
名前を呼ぶ。
怒った記憶や、怖かった出来事を思い出す。
何十回繰り返しても、動かせるのは指先や片腕だけ。しかも、いつ動くかは選べなかった。
そうして、お茶会当日の朝を迎えた。
淡い青色のドレスを着た私は、鏡の前でもう一度目を閉じる。
「カサンドラ、代わって」
『今度こそ、身体を渡しなさい』
深呼吸をして、全身から力を抜く。
一分待った。
何も起きなかった。
扉の外から、ロザリーが出発の時間を知らせる。
「仕方ない。今日は私がカサンドラとして出る」
『お待ちなさい! アレクシス殿下とお話しするのは、わたくしです!』
三週間。
挑戦した回数、八十六回。
あふれさせた浴槽の湯、七回。
倒した衣装掛け、二つ。
床へ落とした銀食器、九枚。
浴槽へ沈めた石鹸、三個。
縫いつけた自分の袖、二回。
腰からはまった水桶、一つ。
倒した衝立、一つ。
駆けつけた侍女、数えきれず。
心配させた父、一人。
そして、完全な入れ替わりに成功した回数――ゼロ。
結局、主導権を自由に交代する方法は分からなかった。




