悪役令嬢は王子に弱い
アレクシスは、私の返事を待っていた。
王太子が自分の非を認め、公爵令嬢へ直接謝る。簡単にできることではないはずだ。
何と答えようか迷っていると、頭の中から小さな声が聞こえた。
『アレクシス様が……わたくしのために謝ってくださっていますわ』
さっきまで怒り狂っていたカサンドラとは思えない、ふにゃりとした声だった。
『やはり、アレクシス様はお優しい方です。あれだけお忙しいなか、わざわざわたくしのもとへ……』
声だけで、今のカサンドラがどんな顔をしているのか分かる気がした。
「カサンドラ、ちゃんとして」
思わず、小声でつぶやいた。
「何か言ったか?」
アレクシスが不思議そうに首を傾げる。
「えっ?」
「今、カサンドラと聞こえたような……」
「い、いいえ! 自分に、しっかりしなさいと言っただけですわ」
「自分に?」
「少し疲れているようです」
我ながら苦しい言い訳だった。
アレクシスは心配そうに私の顔をのぞき込む。
「やはり、まだ体調が悪いんじゃないのか?」
顔が近い。
整った眉。まっすぐな青い瞳。金色の髪は一筋の乱れもなく整えられている。
ゲームの画面で何度も見た攻略対象が、手を伸ばせば触れられる距離にいた。
『近いですわ』
カサンドラの声が、さらに頼りなくなる。
アレクシスは一瞬ためらってから、私の額へ手を伸ばした。
『ちょっと、お待ちになって!』
「動かないで。熱があるか確かめるだけだ」
大きな手の甲が、そっと額に触れる。
『アレクシス様の手が、わたくしの額に……!』
カサンドラの叫び声が、頭の中いっぱいに響いた。
触れられているのは一つの身体なので、その温度は私にも伝わってくる。冷たい手の感触と、急に速くなった心臓の音まで共有されていた。
「熱はないようだな」
アレクシスの手が離れても、額には触れられた感触が残っていた。カサンドラは何も言わず、代わりに心臓だけが落ち着きなく鳴り続けている。
熱はなくても、身体の中は大騒ぎだった。
私はこれ以上、余計な言葉を漏らさないように唇を結んだ。
『美咲! わたくしに代わりなさい!』
「できるならね」
『今すぐです! これ以上、わたくしの姿で変なことを言わないでください!』
「私だって、好きで言ってるわけじゃ――」
言い終わる前に、身体の奥から熱が広がった。
指先の感覚が薄れ、視界が少し遠くなる。
カサンドラの強い感情に押されるように、身体の主導権が入れ替わった。
「お気になさらないでくださいませ、アレクシス様」
同じ口から出たとは思えない、落ち着いた声だった。
カサンドラは立ち上がると、ドレスの裾を整え、優雅に一礼する。
「殿下には、王太子として事件を調べる責任がございます。わたくしだけを特別扱いなさらなかったことは、間違いではありませんわ」
『ちゃんと話せるんじゃん』
私の声が、今度はカサンドラの頭の中だけに響く。
カサンドラの指先が、わずかに震えた。
「だが、君を傷つけたことに変わりはない」
「それは……」
カサンドラの声が詰まる。
『頑張って。さっきまでの勢いはどうしたの?』
返事はない。
私が身体を動かしていたときは、あれほど口うるさかったのに、自分がアレクシスを前にすると何も言えなくなるらしい。
「カサンドラ?」
「な、何でもございませんわ」
カサンドラは顔をそらした。
けれど、頬が赤くなっているのは隠せていない。
「本当に大丈夫か?」
「もちろんです。わたくしは、いつもどおりですわ」
『全然、いつもどおりじゃないけど』
カサンドラの右手が、私の声を振り払うように扇を強く握った。
アレクシスは少しだけ困った顔をしたあと、柔らかく笑った。
「君が無事でよかった」
その一言を聞いた途端、カサンドラの声が途切れた。
身体を通して、心臓が大きく跳ねるのが分かる。
『カサンドラ?』
返事がない。
『おーい』
完全にふにゃふにゃになっていた。
でも、少しだけ分かる。
アレクシスは、顔がいい。
身分の低い者にも横柄な態度を取らず、自分が悪かったと思えば素直に謝る。王太子としての責任からも逃げようとしない。
性格までいい。
服装も完璧だった。
白を基調とした礼服に、王家を表す青い上着。襟や袖には金糸の刺繍が入り、肩から下がる飾り紐まで乱れなく整えられている。
カサンドラが彼を好きになったのも、無理はないのかもしれない。
「事件の調査は、ガレスに任せている」
アレクシスが表情を引き締めた。
「君を疑いたいわけではない。だが、王太子として、証拠もなく君だけを信じると言うこともできない」
「承知しております」
「必ず、公平に調べさせる」
そう言って、アレクシスは左胸へ手を添えた。
そこには、王家の紋章をかたどった金色の徽章が留められている。
王族であることを示す、大切な徽章。
私は何気なく、それを見つめた。
礼服。
胸元の装飾。
身分や役職を示す徽章。
待合室で見た人々の姿が、頭の中によみがえる。
深緑の礼服。
濃紺の礼服。
そして、黒い礼服。
そのうちの一人だけ、最初に見たときと何かが違っていた。
『あっ……』
今はカサンドラが身体を動かしているため、私の声は彼女の頭の中だけに響いた。
カサンドラの肩が、わずかに揺れる。
「どうした?」
アレクシスが尋ねる。
「いいえ。何でもございませんわ」
カサンドラはそう答えたが、私はもう一度、記憶の中の三人を見比べていた。
待合室で感じた違和感。
その正体が、ようやく分かった。




