6.傾く天秤と、最後の警告
婚約破棄の夜会から数ヶ月が経った頃、王宮の財政を司る内務省の執務室には、毎日悲痛な報告が飛び交っていた。
「エドワード殿下、またです……! 王太子殿下の決済で、北方の魔獣防衛線の冬支度予算から、さらに金貨5万枚が出金されました。キャベンディッシュ男爵令嬢が『王都の西に私専用のガラス張りの温室を建てたい』とねだったそうです。このままでは冬の結界維持のための魔石が底を突きます!」
内務官僚の言葉に、第二王子エドワード・プランタジネットは眉間を押さえ、深く重い息を吐き出した。
王宮の廊下に出れば、リリー・キャベンディッシュがジョージの手を引いて我が物顔で歩いている。彼女の趣味に少しでも苦言を呈した高位貴族の令嬢たちは、リリーが涙を流してジョージに縋り付いた翌日には、実家の領地の交易権を取り上げられるなど、不当な厳罰に処されていた。
「エレノア様……! キャベンディッシュ男爵令嬢の我が儘のせいで、我が家の領地への予算が削られました! このままでは領民が飢えてしまいます!」
「どうかお心を静めて。殿下は一時的に目が曇っていらっしゃるだけです。此度は、我が家と同盟派閥の資産から、皆様への補填を行わせてください。我がスペンサー家がお仕えするエドワード殿下のご意思です」
被害を受けた貴族たちの元へ自ら足を運び、エドワードの代理人として手厚い救済の金貨を配って回ったのは、ジョージから婚約を破棄されたエレノアだった。
彼女が優しく微笑み、傷ついた貴族たちをエドワードの名において救うたび、貴族たちの信頼はジョージではなく、第二王子エドワードへと一気に集まっていった。
「やはり、次の国王に相応しいのはエドワード殿下だ。あんな我が儘な女に国防予算を貢ぐ王太子など、この国を早々に滅ぼす。エドワード殿下こそが、我々の正当な主だ」
貴族たちの間で、そんな囁きが確信へと変わっていく中、エドワードは重い足取りで王太子の執務室の前に立っていた。コンコン、と扉を叩き、中に入る。
「兄上。もう一度だけ、僕の言葉に耳を傾けてください。キャベンディッシュ男爵令嬢のためのガラス温室の建設費は、金貨5万枚……国庫の許容量を遥かに超えています。これ以上の予算の流用と、貴族への不当な処罰は国を揺るがします」
机に向かうジョージの前へ、エドワードは真っ赤に赤字が書き込まれた予算書を突きつけた。
しかし、ジョージは手元にあるリリーからの愛の手紙に熱心に見入ったまま、視線すら上げない。
「うるさいな、エドワード。お前はいつも数字ばかり見ていて、人の心が分からないんだ。リリーは王都の悪い貴族たちに狙われて、毎日怯えているんだよ。彼女の心を癒やすためなら、金貨5万枚など安いものだ。お前は黙って、僕のサポートだけしていればいいんだ」
ジョージはそう吐き捨てると、エドワードの言葉を聞き流した。
目の前で軽薄に笑う兄の姿を見つめながら、エドワードはこれ以上ないほどに憐憫の目を向けた。何も考えていない。ただ甘い言葉に流され、自ら破滅への坂道を転がり落ちていく兄の姿は、ひどく滑稽だった。
「……分かりました、兄上。これ以上は何も言いません」
エドワードは悲痛な面持ちを装って深く一礼し、執務室を後にした。
バタン、と静かに扉が閉まる。
次の瞬間、廊下の薄暗い影に踏み込んだエドワードの顔から、さきほどまでの「兄を憂う健気な弟」の表情が、跡形もなく消え去った。
その切れ長の瞳には、底知れない冷徹な光が宿ったが、口元は泣きそうに歪んでいる。
(さあ、限界まで膨らみきった。無能な王太子、勘違いした男爵令嬢。……そろそろ、すべての舞台の幕を閉じるとしよう)
すべては計算通り。
エドワードは冷え切った真顔のまま、一度も後ろを振り返ることなく、静かに歩み去っていった。




