赤い魔力に混じる影
◇ ◇ ◇
それから数日。
ヒルメの学院生活は、少しずつ形になり始めていた。
「ヒルメ、遅い!」
「待ってよ、ミア!」
朝。
学院の廊下を小走りで進むヒルメの横を、シロが楽しそうに駆けていく。
「ワン!」
「シロ! 走ったら駄目だよ!」
「ヒルメも走ってるじゃん。」
「私は急いでるの!」
「同じでしょ。」
「違うよ!」
そんなやり取りをしながら教室へ飛び込む。
「間に合った……。」
ヒルメが自分の席へ座った直後。
「三分前。」
隣から声が飛んできた。
「え?」
リナが教本を読みながら言う。
「授業開始まで三分。」
「間に合ったでしょ?」
「間に合えばいいってものじゃないの。」
「……。」
ヒルメがミアを見る。
「何?」
「リナって毎朝こうなの?」
「そうだよ。」
「聞こえてるわよ。」
リナが教本から顔を上げる。
「授業前に昨日の復習くらいするでしょ、普通。」
「してない……。」
「でしょうね。」
「なんで分かったの?」
「見れば分かる。」
「ひどい。」
「事実。」
「むぅ……。」
ヒルメが頬を膨らませる。
数日前までなら。
ここで会話は終わっていた。
だが今は――
「昨日のところ、分からないなら見せて。」
リナが自分のノートをヒルメの机へ置く。
「え?」
「昨日ずっと首傾げてたでしょ。」
「見てたの?」
「前向いてても視界には入るの。」
「ありがとう!」
「声大きい。」
「ごめん。」
ヒルメは嬉しそうにノートを開く。
そこには授業内容が綺麗にまとめられていた。
「……すごい。」
「何が?」
「分かりやすい。」
「授業聞いてれば普通よ。」
「この図とか先生より分かりやすいよ。」
「……。」
リナの手が止まる。
「そういうの、本人の前で言わない方がいいわよ。」
「なんで?」
「なんでも。」
「リナ、ちょっと嬉しそう。」
ミアが笑う。
「嬉しくない!」
「顔赤いよ。」
「赤くない!」
「ワン!」
「シロまで何よ!」
いつの間にか。
リナもシロに普通に話しかけるようになっていた。
ヒルメはそれを見て小さく笑う。
「何?」
「ううん。」
「気になるんだけど。」
「仲良くなったなって。」
「誰と誰が?」
「リナとシロ。」
「……。」
リナが足元を見る。
シロが尻尾を振って見上げている。
「ワウ。」
「……別に。」
そう言いながら。
リナはシロの頭を一度だけ撫でた。
「ほら。」
「これは違う。」
「何が?」
「朝の挨拶。」
「犬に?」
「悪い?」
「ううん。」
ヒルメは笑った。
「シロ、よかったね。」
「ワン!」
「……。」
リナは少し気まずそうに手を離した。
◇ ◇ ◇
午前の授業が終わり。
休み時間。
「ヒルメさん!」
聞き慣れた声が廊下から響いた。
ヒルメは顔を上げる。
「来た。」
ミアが笑う。
リナはため息を吐く。
「今日も来たのね……。」
「はい!」
いつの間にか教室へ入ってきたアリシアが満面の笑みで答えた。
「聞こえてたんですか!?」
「もちろんです。」
「……殿下。」
リナが慌てて立ち上がる。
「そのままで構いません。」
「ですが……。」
「学院では同じ生徒です。」
「いや、無理です。」
リナが即答する。
「え?」
アリシアが目を瞬かせる。
「無理です。」
「二回言った。」
ミアが笑う。
「だって殿下よ!?」
「私はもう慣れたよ。」
「ミアまで!?」
「毎日来るし。」
「毎日……。」
リナがアリシアを見る。
確かに。
ヒルメが編入してきてから――
ほぼ毎日来ている。
しかも。
「シロ様!」
「ワン!」
アリシアがしゃがみ込む。
シロが尻尾を振りながら近づいていく。
「今日も可愛いですね。」
「ワウ!」
「……。」
リナはその光景を見る。
数日前なら驚いていた。
今は――
「殿下。」
「はい?」
「シロ、さっき廊下走り回ってましたよ。」
「まあ。」
アリシアがシロを見る。
「いけませんよ、シロ様。」
「ワウ……。」
シロの耳が下がる。
「ふふっ。」
アリシアが頭を撫でる。
「ですが元気なのは良いことです。」
「ワン!」
「甘やかしてる……。」
リナが呟く。
「リナもさっき撫でてたじゃん。」
ヒルメが言う。
「それは朝の挨拶!」
「まだ言ってる。」
「本当だから!」
「ふふっ。」
アリシアが楽しそうに笑う。
その時だった。
「殿下。」
教室の入口から声がした。
アリシアが振り返る。
「セレスティアさん。」
金髪の少女が立っていた。
その瞬間。
教室の空気が少しだけ固くなる。
「次の授業が始まります。」
「もうそんな時間ですか?」
「はい。」
セレスティアは教室の中を見る。
そして――
ヒルメと目が合った。
「……。」
「……こんにちは。」
ヒルメが小さく頭を下げる。
セレスティアも軽く会釈する。
「ご機嫌よう、ヒルメさん。」
「はい。」
「……。」
会話が終わる。
(やっぱりちょっと怖い……。)
ヒルメは内心で苦笑する。
あの日以来。
セレスティアから何かをされたわけではない。
だが。
時折、こうしてヒルメを見ている。
「ではヒルメさん。」
アリシアが立ち上がる。
「また昼休みに。」
「来るんですか?」
「もちろんです。」
「……毎日来ますね。」
「ご迷惑ですか?」
途端にアリシアの顔が曇る。
「いや、そういう意味じゃ!」
「では参ります。」
「切り替え早い!」
アリシアは嬉しそうに教室を出ていく。
その後をセレスティアが追う。
だが――
扉を出る直前。
一度だけ振り返った。
その視線はヒルメへ向けられていた。
(……また見てる。)
ヒルメは首を傾げる。
「ヒルメ。」
「え?」
リナが声を掛ける。
「気にしない方がいいわよ。」
「何を?」
「あの人。」
リナが扉を見る。
「セレスティア様。」
「知ってるの?」
「そりゃ知ってるわよ。」
「有名なの?」
「……。」
リナが呆れた顔になる。
「あなた、本当に何も知らないのね。」
「ごめん。」
「アルヴェイン公爵家。」
「うん。」
「王国でも有数の大貴族よ。」
「そんなに?」
「そんなに。」
「へぇ……。」
「それだけ?」
「他にどう反応すれば……。」
リナが額を押さえる。
「まあいいわ。」
「でも。」
少しだけ声を落とす。
「殿下に近づく人間には厳しいって噂。」
「そうなの?」
「幼い頃から殿下と親しいらしいから。」
ヒルメは先日の食堂での会話を思い出す。
――私は殿下を大切に思っております。
「じゃあ、やっぱり心配してるだけなんだ。」
「……普通そういう結論になる?」
「違うの?」
「もっと警戒しなさいよ。」
「でも悪い人じゃないんでしょ?」
「知らないわよ。」
「じゃあ大丈夫。」
「何が!?」
ミアが吹き出す。
「ヒルメに何言っても無駄だって。」
「あなたはもう少し人を疑いなさい!」
「リナがお母さんみたい。」
「誰がお母さんよ!」
教室に笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
午後。
実技場。
「では二人一組になれ。」
カイルの声が響く。
「今日は魔力制御の訓練を行う。」
ヒルメの表情が固まった。
「また制御……。」
「あなたが一番必要なやつじゃない。」
リナが隣で言う。
「分かってるよ。」
「なら嫌そうな顔しない。」
「だって難しいんだもん。」
「難しいから練習するの。」
「……はい。」
「だから敬語。」
「うん。」
カイルが説明を続ける。
「片方が魔力を放出し、もう片方が量を確認する。」
「一定量を維持できれば交代だ。」
生徒たちが次々と組を作る。
ミアがヒルメを見る。
「一緒に――」
「ヒルメ。」
リナが先に呼んだ。
「私と組むわよ。」
「え?」
ミアが固まる。
「……。」
「……。」
リナも固まった。
「何よ。」
「いや。」
ミアがニヤッと笑う。
「別にー。」
「その顔やめなさい!」
「私まだ何も言ってないよ?」
「言わなくても分かる!」
ヒルメは首を傾げる。
「じゃあ私、リナと?」
「嫌ならいいけど。」
「嫌じゃないよ。」
即答だった。
「……そう。」
リナは少しだけ顔を逸らす。
「じゃあ始めるわよ。」
「うん!」
二人は向かい合う。
リナが手を差し出した。
「まず魔力だけ出して。」
「どれくらい?」
「ほんの少し。」
「分かった。」
ヒルメが集中する。
手のひらへ魔力を集める。
「少し……。」
淡い光が生まれる。
「そう。」
リナが頷く。
「そのまま。」
「うん。」
「増やさない。」
「うん。」
「絶対増やさない。」
「分かってるって。」
次の瞬間。
ボウッ!!
光が一気に膨れ上がった。
「増えてる!」
「勝手に増えた!」
「魔力が勝手に増えるわけないでしょ!」
「本当だよ!」
「抑えて!」
「やってる!」
「もっと!」
「これ以上どうやるの!?」
「知らないわよ!」
「えぇ!?」
周囲の生徒たちが笑う。
カイルも遠くから苦笑していた。
「もう一回!」
「うん!」
ヒルメが再び集中する。
今度は慎重に。
ほんの僅かだけ。
「……。」
「そう。」
リナが真剣な表情になる。
「そのまま。」
「……うん。」
「呼吸を乱さない。」
「……。」
「魔力を押さえつけるんじゃなくて、流れを細くする感じ。」
「流れを……。」
「そう。」
ヒルメは目を閉じる。
川。
以前旅の途中で見た、小さな川を思い浮かべる。
大きな流れではなく。
そこから分かれていく細い水路。
(細く……。)
光が少しずつ小さくなる。
「……!」
リナの目が僅かに見開かれる。
「そのまま。」
「うん。」
十秒。
二十秒。
三十秒。
光は変わらない。
「できてる。」
「本当?」
「集中切らさない!」
「ご、ごめん!」
光が膨らむ。
「ほら!」
「リナが話しかけるから!」
「返事しなきゃいいでしょ!」
「そんなの分からないよ!」
「もう一回!」
「はい!」
「敬語!」
「うん!」
少し離れた場所で。
ミアが別の生徒と組みながら笑っていた。
「もう普通に仲良しじゃん。」
本人たちは気付いていない。
けれど。
数日前まで険悪だった二人の距離は――
確実に縮まっていた。
◇ ◇ ◇
「次は交代。」
リナが言う。
「私がやるから見てて。」
「うん。」
リナが手のひらを上へ向ける。
目を閉じ。
静かに魔力を放出する。
小さな赤い光が生まれた。
「……。」
ヒルメが見つめる。
大きさは全く変わらない。
揺らぎすらほとんどない。
「すごい……。」
「喋っていいわよ。」
リナが目を閉じたまま答える。
「全然変わらない。」
「これくらいできなきゃ。」
「私よりずっと上手。」
「あなたと比べないで。」
「ひどい。」
「事実。」
ヒルメは頬を膨らませる。
しかし。
その時だった。
「……?」
ヒルメの表情が変わる。
リナの手のひらに浮かぶ赤い魔力。
その奥。
ほんの一瞬だけ――
何かが見えた。
黒。
「……。」
ヒルメが目を細める。
(今……。)
赤い光の中に。
ほんの僅か。
黒い魔力が混ざったように見えた。
「リナ。」
「何?」
「今――」
言いかけて。
止まる。
もうない。
赤い魔力だけが、一定の大きさを保っている。
「どうしたの?」
リナが目を開ける。
「……。」
ヒルメはその魔力を見る。
(見間違い……?)
「ヒルメ?」
「ううん。」
「何でもない。」
「変なの。」
リナは再び目を閉じる。
ヒルメは黙ってその手元を見つめた。
そして――
数秒後。
また。
ほんの一瞬。
赤い魔力の奥で。
黒い光が揺らめいた。
「……!」
今度は見間違いではない。
(黒い……魔力。)
ヒルメの胸が僅かにざわつく。
知っている。
あの感覚を。
自分が闇魔法を使う時と――
よく似ている。
(でも……。)
ヒルメはリナを見る。
本人は何も気付いていない。
「……。」
ヒルメは口を閉じた。
エルドから言われた言葉を思い出す。
――学院では、闇魔法は使わぬことじゃ。
(私だけで決めちゃ駄目だよね。)
もし。
本当に自分と同じものだったとしても。
自分には、それが何を意味するのか分からない。
(エルドさんに聞いてみよう。)
ヒルメはそう決める。
「ヒルメ。」
「え?」
「ちゃんと見てる?」
「見てるよ。」
「ならいいけど。」
リナは何も知らないまま。
静かに魔力を維持している。
その赤い光の奥で――
誰にも気付かれないほど小さな黒い光が。
もう一度だけ。
微かに揺らめいた。
「……。」
ヒルメの表情が変わる。
今度は、はっきり見えた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけだったけれど。
リナの赤い魔力に混ざった、黒い魔力。
(あれ……?)
ヒルメは無意識に、自分の杖を握る。
どこかで見たことがある。
いや――
見たことがあるどころではない。
自分自身が、何度も使っている。
(これって……。)
ヒルメはリナを見る。
「?」
視線に気付いたリナが眉を寄せた。
「何?」
「……ううん。」
「何でもない。」
「変なの。」
リナは再び訓練へ意識を戻す。
その横顔を見つめながら。
ヒルメはもう一度だけ、先ほどの黒い光を思い返していた。
(まさか……。)
胸の奥に浮かんだ一つの可能性。
けれど。
それを口にするには――
ヒルメ自身にも、まだ確信がなかった。




