学院の日常
教室に笑い声が広がる。
そしてヒルメはまだ知らなかった。
この日。
自分が失敗したこの小さな魔力制御の授業こそが――
これから学院で学ぶすべての始まりになることを。
◇ ◇ ◇
「それでは、今日はここまで。」
カイルが教本を閉じる。
授業の終了を告げる鐘が鳴ると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。
「終わったぁ。」
ヒルメは机へ突っ伏した。
「ワウ?」
足元で寝ていたシロが顔を上げる。
「難しいよ、シロ……。」
「ワウ。」
「慰めてくれてる?」
「ワン!」
「ありがとう……。」
そんなヒルメを見て、隣のミアが笑う。
「ヒルメ、最初から飛ばしすぎ。」
「飛ばしてないよ。」
「水晶を二回も教室中が真っ白になるくらい光らせたじゃん。」
「あれは失敗なの!」
「分かってるって。」
ミアは楽しそうだ。
「でもすごいよね。」
「何が?」
「魔力量。」
「……そうなのかな。」
「そうだよ。普通、あんな光り方しないもん。」
「でも制御できなかったら意味ないよ。」
ヒルメは自分の手を見る。
カイルが言っていたことを思い出す。
必要な分だけ魔力を取り出す。
大量に使うより、時にはそちらの方が難しい。
今まで一度も考えたことがなかった。
「もう一回やってみようかな……。」
「今?」
「うん。」
ヒルメは机の上に置かれた水晶へ手を伸ばす。
「待って待って。」
ミアが慌ててその手を掴んだ。
「なんで?」
「休み時間くらい目を休ませて。」
「そんなに!?」
「さっき本当に眩しかったからね?」
「……ごめんなさい。」
「冗談だって。」
ミアが笑う。
その時だった。
「随分お気楽ね。」
「え?」
ヒルメが顔を上げる。
少し離れた席に、一人の少女が立っていた。
腰まで届かない程度の黒髪を一つにまとめ、腕を組んでこちらを見ている。
「リナ。」
ミアが名前を呼ぶ。
「何?」
「またそんな言い方して。」
「別に。」
リナと呼ばれた少女はヒルメを見る。
その視線は――
あまり友好的には見えなかった。
「あなた。」
「わ、私?」
「他に誰がいるのよ。」
「……はい。」
ヒルメは反射的に姿勢を正した。
リナは机の上の水晶を見る。
「魔力制御もできないの?」
「……うん。」
「入学前に習わなかったの?」
「習ったことなくて……。」
「は?」
リナの眉が寄る。
「じゃあ、魔法の基礎は?」
「ほとんど知らないです。」
「……。」
「……。」
しばらく沈黙が続く。
「それで、よくこの学院に入れたわね。」
「リナ。」
ミアが少し強い声を出す。
「何よ。」
「初日からそんな言い方しなくてもいいじゃん。」
「本当のことでしょ。」
リナはヒルメを見る。
「ここ、王立魔法学院よ?」
「……うん。」
「魔法を学ぶために国中から人が集まってくる。」
「入学試験だって簡単じゃない。」
「……。」
ヒルメは黙って話を聞く。
リナの声には、明らかな棘があった。
「なのに突然編入してきて。」
「基礎も知らない。」
「魔力制御もできない。」
「それなのに――」
リナが一度言葉を止めた。
「王女殿下と王家の馬車で登校してきた。」
「……。」
ヒルメの目が僅かに見開かれる。
「それは……。」
「しかも宮廷魔導師団長とも知り合いなんでしょ?」
「エルドさん?」
「ほら。」
リナの表情がさらに険しくなる。
「宮廷魔導師団長を普通に名前で呼ぶんだ。」
「……。」
(あれ……。)
(もしかして私、すごく変なことしてる?)
ヒルメは今さら不安になる。
旅の途中で出会い。
一緒に魔法大会を見て。
そのまま普通に話していた。
だからエルドがどれほどの立場なのか、いまいち実感がない。
「別に特別扱いされてるわけじゃ……。」
「だったら、どうやって編入したの?」
「それは……。」
ヒルメは言葉に詰まる。
本当の理由など言えるはずがない。
自分の魔力を制御するため。
失われた闇魔法を使えること。
神聖魔法を使えること。
そして――
闘技場で自分が起こしたこと。
「……言えない。」
「やっぱり。」
リナが鼻を鳴らす。
「リナ!」
「何よ。」
「事情があるかもしれないじゃん。」
「だったら最初からそう言えばいいでしょ。」
「今、言えないって言ったじゃん!」
二人が睨み合う。
(どうしよう……。)
ヒルメはおろおろと二人を見る。
その時――
「ワウ。」
シロが立ち上がった。
そして。
とことことリナのところへ歩いていく。
「……何?」
「シロ?」
シロはリナの前まで行くと、その顔を見上げた。
「ワウ。」
「……。」
リナが一歩下がる。
シロが一歩進む。
「ちょっと。」
さらに一歩下がる。
シロも進む。
「なんで来るのよ。」
「ワン!」
「来ないで!」
「ワン!」
「シロ!」
ヒルメが慌てて呼ぶ。
シロが振り返る。
「リナさん困ってるから。」
「ワウ……。」
シロは少し残念そうにヒルメのところへ戻ってきた。
「ごめんなさい。」
ヒルメが頭を下げる。
リナはシロをちらりと見る。
「……別に。」
そう言い残すと、自分の席へ戻っていった。
「もう。」
ミアが頬を膨らませる。
「気にしなくていいからね。」
「うん……。」
ヒルメはリナの背中を見る。
(嫌われちゃったかな……。)
初日から友達ができたと思ったら。
初日から嫌われた。
学院生活というものは、思っていたより難しいらしい。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして。
次の授業が始まった。
魔法史。
魔力理論。
基礎術式。
ヒルメにとっては、何もかもが初めて聞くことばかりだった。
「魔法陣は術式を安定させる役割を持ち――」
(魔法陣って、そういう意味だったんだ……。)
「詠唱は術者の魔力を術式へ変換するための――」
(詠唱にもちゃんと意味があるんだ……。)
ヒルメは必死にノートへ書き込んでいく。
旅をしていた頃。
魔法は使えればそれでいいと思っていた。
詠唱をして。
魔力を流して。
発動する。
それだけ。
だが学院では、その一つ一つに理論が存在していた。
「……。」
リナが少し離れた席からヒルメを見る。
先ほどまでとは違い。
ヒルメは教師の話を聞き逃すまいと、必死に筆を動かしている。
分からない言葉が出るたびに教本をめくり。
それでも分からなければ隣のミアへ小声で聞いている。
「これ、どういう意味?」
「魔力経路のこと。」
「魔力経路?」
「そこから!?」
「ご、ごめん……。」
「あとで教える。」
「ありがとう!」
「……。」
リナは何も言わず前を向いた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
「ヒルメ!」
「はい?」
ミアが勢いよく立ち上がる。
「食堂行こ!」
「食堂?」
「お昼食べないの?」
「あ、行く。」
ヒルメも席を立つ。
「シロも行こう。」
「ワン!」
三人で教室を出ようとした、その時だった。
廊下の方が突然騒がしくなる。
「殿下だ。」
「え?」
「王女殿下……。」
「どうして一般棟に?」
生徒たちの声が聞こえる。
ヒルメの動きが止まった。
(まさか……。)
次の瞬間。
教室の扉から、見慣れた少女が顔を覗かせた。
「ヒルメさん。」
「あ。」
王女だった。
「やっぱり……。」
ヒルメが苦笑する。
王女は嬉しそうに教室へ入ってくる。
その瞬間。
教室の空気が一変した。
座っていた生徒まで慌てて立ち上がる。
「で、殿下!」
「ご機嫌麗しゅうございます!」
「どうかそのままで。」
王女は困ったように笑う。
「学院では皆さんと同じ生徒です。」
そう言われても――
誰もすぐには普段通りに戻れない。
ミアも完全に固まっていた。
「……。」
「ミア?」
「……。」
「ミア。」
「えっ!?」
ようやく反応する。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ!」
ミアがヒルメの腕を掴む。
声を潜める。
「本当に王女殿下と知り合いなの!?」
「うん。」
「うんって!」
「王城で一緒に住んでるから。」
「…………は?」
「え?」
ミアの動きが完全に止まった。
(あ。)
(これ、言っちゃ駄目だったかな。)
ヒルメが不安になった、その時。
「シロ様!」
王女の声が弾む。
「ワン!」
シロが駆け出した。
「シロ様、お会いしたかったです。」
王女がしゃがみ込む。
シロは当然のように尻尾を振りながら、王女の手へ頭を擦りつける。
教室中が静まり返った。
「……。」
「……。」
「……王女殿下が犬を……。」
「シロ様って呼んだぞ……。」
王女は周囲の反応などまったく気にしていない。
「午前の授業はいかがでした?」
「難しかったです。」
「まあ。」
「最初の授業なんて、水晶を光らせるだけだったのに二回も失敗して……。」
「二回も?」
「教室が真っ白になりました。」
「まあ!」
王女が楽しそうに笑う。
「見たかったです。」
「恥ずかしかったんですよ!」
「ふふっ。」
その様子を――
リナは自分の席から黙って見ていた。
(……本当に。)
(殿下と親しいんだ。)
噂ではない。
王女の方からヒルメを訪ねてきた。
しかも、あの距離感。
どう見てもただの知り合いではない。
リナの表情が僅かに曇る。
「ヒルメさん。」
「はい。」
「昼食はもう?」
「今から食堂に行こうと思ってました。」
「でしたら、ご一緒してもよろしいですか?」
「もちろんです。」
「シロ様も。」
「ワン!」
王女が嬉しそうに微笑む。
その横で――
ミアだけが青ざめていた。
「……ヒルメ。」
「何?」
「私も行くの?」
「そのつもりだけど。」
「無理無理無理無理!」
「なんで!?」
「王女殿下と昼ご飯なんて食べたことない!」
「普通ないと思うよ。」
「そういう意味じゃない!」
王女がミアを見る。
「ヒルメさんのお友達ですか?」
「はい。ミアです。」
「ちょっ!」
突然紹介され、ミアの背筋が伸びる。
「ミ、ミアと申します!」
勢いよく頭を下げる。
「初めまして。」
王女は優しく微笑んだ。
「ヒルメさんと仲良くしてくださっているのですね。」
「は、はい!」
「ありがとうございます。」
「そ、そんな! 私なんか!」
「私なんか、などと言わないでください。」
「……え?」
「ヒルメさんのお友達なら、私とも仲良くしていただけると嬉しいです。」
「……。」
ミアの顔が赤くなる。
「は、はい……。」
「ふふっ。」
王女が微笑む。
「では参りましょう。」
「はい。」
「ワン!」
三人と一匹が教室を出ようとする。
その時。
ヒルメが足を止めた。
少し離れた席。
一人で教本を読んでいるリナが目に入る。
「……。」
少し迷う。
さっきあんなことを言われたばかりだ。
声を掛けなくてもいいのかもしれない。
でも――
(せっかく同じクラスなんだし……。)
ヒルメはリナへ声を掛けた。
「リナさん。」
「……何?」
「一緒にお昼食べませんか?」
「は?」
リナが顔を上げる。
「食堂行くんですけど。」
「……。」
リナはヒルメを見る。
その後ろには王女。
ミア。
シロ。
「……行かない。」
「そうですか。」
ヒルメは少し残念そうにする。
「じゃあ、また今度。」
「……。」
それだけ言うと、ヒルメは王女たちのところへ戻った。
「行きましょう。」
「はい。」
「ワン!」
教室から出ていく。
リナはその背中を見つめる。
「……何なのよ。」
思わず呟く。
さっき自分があれだけ嫌味を言った。
普通なら怒る。
少なくとも、昼食へ誘ったりはしない。
「……変な子。」
リナは教本へ視線を戻す。
だが――
文字がまったく頭に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
食堂へ向かう廊下。
「すごい……。」
ミアが小さく呟く。
「何が?」
「道が勝手に開く。」
「え?」
ヒルメが前を見る。
王女が歩くたびに、廊下にいる生徒たちが次々と左右へ避けていく。
「殿下。」
「ご機嫌麗しゅうございます。」
王女はそのたびに笑顔で挨拶を返している。
「いつもこうなの?」
ヒルメが尋ねる。
「何がですか?」
「みんな避けてますけど。」
「……。」
王女が周囲を見る。
「そうでしょうか?」
「気付いてなかったんですか?」
「はい。」
「……。」
ミアがヒルメの袖を引く。
「ヒルメ。」
「何?」
「普通、殿下にそんなこと言わないからね。」
「そうなの?」
「そうだよ!」
「でも本人が気付いてなかったし。」
「そういう問題じゃ……。」
「ふふっ。」
王女が楽しそうに笑う。
「私はヒルメさんのそういうところが好きです。」
「え?」
「皆さん、私にとても気を遣われますから。」
王女は少しだけ寂しそうに笑う。
「普通に話してくださる方は、あまり多くありません。」
「……。」
ヒルメは王女を見る。
王女。
国王の娘。
誰もが羨むような立場。
けれど――
それにはそれなりの苦労があるのかもしれない。
「じゃあ。」
ヒルメが笑う。
「これからも普通に話します。」
「はい。」
王女も嬉しそうに笑った。
「私もそうしていただけると嬉しいです。」
「……。」
ミアだけが二人を交互に見る。
(私には無理……。)
そんな三人の後ろを――
「ワウ!」
シロが楽しそうについていく。
◇ ◇ ◇
そして。
その光景を、二階の渡り廊下から見下ろしている者がいた。
「……殿下。」
一人の少女。
学院の制服は同じ。
だが、その胸元には貴族クラスであることを示す銀色の徽章が付けられている。
整った長い金髪。
気品のある立ち姿。
その傍らには、同じ貴族クラスの少女たちが数人いた。
「本当に一般棟へ行かれていたのですね。」
「病から戻られたばかりですのに……。」
「それより。」
一人がヒルメを見る。
「殿下のお隣にいる、あの方は?」
金髪の少女は答えない。
視線だけをヒルメへ向ける。
見覚えのない少女。
貴族ではない。
少なくとも――
自分が知る王国の貴族家には、あのような娘はいない。
それなのに。
王女は楽しそうに笑っている。
あれほど自然な表情を学院で見せる王女を――
彼女はほとんど見たことがなかった。
「……ヒルメ。」
小さく名前を呟く。
「ご存じなのですか?」
「名前だけは。」
王女と共に王家の馬車で登校してきた編入生。
その程度の噂なら、すでに貴族クラスにも届いていた。
「平民だそうですわ。」
別の少女が口を挟む。
「それなのに王城で暮らしているという噂も。」
「王城に?」
「ええ。」
「……。」
金髪の少女の眉が僅かに動く。
「どこの誰とも知れぬ平民を王城へ?」
「何でも殿下が大層お気に入りだとか。」
「……。」
その言葉に。
金髪の少女の表情が僅かに険しくなった。
だが――
「やめなさい。」
「え?」
「殿下がお決めになったことを、憶測だけで語るものではありません。」
「も、申し訳ございません。」
少女たちが口を閉じる。
金髪の少女は再び階下を見る。
ヒルメが何かを言ったのだろう。
王女が楽しそうに笑った。
「……。」
その光景を見つめる。
(ですが――)
(素性も分からぬ者を、殿下のお傍に置くなど。)
王女は優しい。
昔からそうだった。
だからこそ――
近づく者を疑わなければならない。
利用しようとする者など、いくらでもいる。
「ヒルメ……。」
その名をもう一度、小さく呟く。
敵意ではない。
少なくとも――
今はまだ。
ただ。
王女の傍に突然現れた正体不明の少女へ。
強い警戒心を抱いていた。




