目覚める杖
「ワンッ!」
シロが倒れたヒルメへ駆け寄る。
何度も頬を舐め、鼻先で身体を押す。
「クゥン……。」
しかし、ヒルメは目を覚まさない。
「ワンッ!」
その鳴き声だけが、静まり返った闘技場に響いた。
エルドは杖を支えにしながら、ゆっくりと二人へ歩み寄る。
膝をつき、ヒルメの様子を確かめる。
「……大丈夫じゃ。」
「魔力を使い果たしただけじゃよ。」
その言葉が分かったのか、シロはヒルメの傍らに身体を寄せた。
「クゥン……。」
エルドはそんなシロを見てから、改めてヒルメへ視線を落とす。
眠っているような穏やかな顔。
先ほどまで空を覆い尽くすほどの闇を生み出していた少女と、同一人物とは思えない。
「まったく……。」
エルドは小さく息を吐いた。
「とんでもない子じゃ。」
その時。
「エルド殿。」
声に振り返る。
貴賓席から降りてきたレオンが、荒れ果てたリングへ足を踏み入れていた。
「レオン様。」
レオンは倒れているヒルメを見て、足を止める。
「あの子は……。」
見覚えがあった。
少し前、街で見かけた少女。
あの時は白い犬を連れた、ごく普通の旅人にしか見えなかった。
だが――
今、自分の目の前に広がっている光景は何だ。
砕けた石畳。
焼け焦げたリング。
そして、宮廷魔導師団長であるエルドに極大魔法を使わせたほどの力。
レオンはしばらくヒルメを見つめた後、エルドへ視線を向ける。
「エルド殿。」
「この子は、一体何者なのですか。」
エルドはすぐには答えなかった。
「……さてな。」
「わしも、それを知りたいところじゃ。」
「エルド殿でも?」
「うむ。」
エルドは静かにヒルメを見下ろす。
「じゃが――」
その視線が、ヒルメの傍らから離れようとしないシロへ向けられる。
「少なくとも、理由もなく力を振るうような子ではない。」
レオンもシロを見る。
そして、少し離れた場所で座り込んでいるアルベルトへ視線を移した。
先ほどまでの威勢は完全に消え失せていた。
「……ええ。」
レオンの表情が僅かに険しくなる。
「それは、私も見ていました。」
アルベルトの肩が僅かに震えた。
「まずは、この子を医務室へ。」
「そうじゃな。」
エルドがヒルメを抱き上げる。
「ワンッ!」
シロも慌てて立ち上がった。
「心配するな。」
「お主も一緒じゃ。」
「ワウ……。」
エルドたちは、そのまま闘技場を後にした。
◇ ◇ ◇
「ん……。」
ヒルメはゆっくりと目を開いた。
「……ここは?」
辺りを見回す。
何もない。
空も。
地面も。
建物もない。
どこまでも真っ白な世界が広がっている。
「シロ?」
返事はない。
「シロー?」
やはり何も聞こえない。
ヒルメは不安そうに周囲を見回した。
「どこ行ったの……?」
その時だった。
『やーっと起きた!』
「ひゃっ!?」
突然響いた女性の声に、ヒルメは飛び上がる。
「だ、誰!?」
慌てて辺りを見回す。
しかし、誰もいない。
『こっちこっち!』
「こっちって……。」
『下! 下!』
「下?」
ヒルメが視線を落とす。
そこには一本の杖が転がっていた。
見慣れた杖。
旅を始めてから、ずっと使ってきた自分の杖だった。
「……私の杖?」
『そうそう!』
「……。」
ヒルメはしばらく杖を見つめる。
『あれ?』
『反応薄くない?』
「……杖が喋ってる。」
『喋ってるねぇ。』
「なんで?」
『そこ気になるよねー!』
妙に明るい女性の声が響く。
ヒルメは恐る恐る杖を拾い上げた。
「あなた……誰なんですか?」
『誰って、ひどいなぁ。』
『ずーっと一緒にいたじゃん。』
「……え?」
『毎日毎日握って、魔法使って、たまに地面に置きっぱなしにして。』
「……。」
『結構雑に扱ってくれたよね?』
「ご、ごめんなさい……。」
『あははっ! 冗談、冗談!』
楽しそうな笑い声が白い世界に響く。
ヒルメはますます困惑する。
「本当に……私の杖なんですか?」
『もちろん!』
「でも、今まで一度も喋ったこと……。」
『そりゃそうだよ。』
『まだ起きるつもりなかったもん。』
「起きる……?」
『うん。』
その瞬間。
杖の表面に一本の亀裂が走った。
パキッ――
「え?」
ヒルメが目を見開く。
さらに亀裂が広がっていく。
パキッ。
パキパキッ――
古びた杖の表面が少しずつ剥がれ落ちる。
その内側から現れたのは――
眩いほどの輝きだった。
「なに……これ……。」
『あーあ。』
女性は楽しそうに笑う。
『ちょっと見えちゃった。』
ヒルメは剥がれ落ちた欠片と、その奥から覗く光を交互に見つめた。
「ちょっと……?」
『うん。ちょっとだけ。』
「これ、どういうことですか?」
『どういうことって言われてもねぇ。』
女性の声は相変わらず軽い。
『見たまんまだよ?』
「見たまんまって……。」
ヒルメは杖を持ち上げ、じっと眺める。
普段使っている杖とは明らかに違う。
剥がれ落ちた部分には、見たこともない紋様が刻まれていた。
淡い光が脈打つように、その紋様の中を流れている。
「私の杖……ですよね?」
『そうだよ。』
「でも……こんなのなかったです。」
『隠してたからね。』
「隠してた?」
『そ。』
あっけらかんとした返事だった。
ヒルメは首を傾げる。
「なんで?」
『んー……。』
少しだけ間が空く。
『目立つから?』
「……。」
『その顔やめてよ! 一応ちゃんとした理由なんだから!』
「自分で隠してたんですか?」
『もちろん。』
「杖なのに?」
『杖なのにって何!?』
『失礼だなぁ!』
ヒルメは困ったように杖を見つめる。
『まあまあ。細かいことは置いといて。』
『それよりさぁ。』
急に声が弾んだ。
『いやー、派手にやったね!』
「……何をですか?」
『え?』
「え?」
しばらく沈黙が続く。
『……覚えてないの?』
「何を?」
『あー……。』
女性が何かを察したような声を漏らす。
『そっかそっか。』
『覚えてないんだ。』
「だから何の話ですか?」
『まあ、それは起きてから聞けばいいよ。』
「誰に?」
『白い子とか、お爺ちゃんとか。』
「シロと……エルドさん?」
『そうそう。』
ヒルメはますます分からなくなった。
「それより、あなたは――」
『あ、そうだ!』
「ひゃっ!?」
突然大きな声を出され、ヒルメの肩が跳ねる。
『闇魔法!』
「……闇魔法?」
『久しぶりに見たなぁ。あんなにいっぱい。』
ヒルメの表情が止まる。
「久しぶり?」
『…………。』
今度は杖が黙った。
「今、久しぶりって言いましたよね?」
『言ったっけ?』
「言いました。」
『気のせいじゃない?』
「言いました。」
『聞き間違いだよ。』
「言いましたよね?」
『細かいなぁ!』
「細かくないです!」
白い空間にヒルメの声が響く。
すると女性は楽しそうに笑った。
『あはははっ!』
『いいねぇ。やっぱり君、面白い。』
「……やっぱり?」
『あ。』
「今度はなんですか。」
『なんでもなーい。』
「絶対何か隠してますよね……。」
『まあ、そのうち分かるって。』
「そのうちっていつですか?」
『そのうちは、そのうち!』
「もう……。」
ヒルメは頬を膨らませる。
その時――
真っ白だった世界が僅かに揺らいだ。
「え?」
『あ。』
女性の声が少しだけ遠くなる。
『そろそろ時間みたい。』
「時間?」
ヒルメの身体が淡い光に包まれていく。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
『またねー!』
「待って!」
『次はもうちょっとゆっくり話そうね!』
「まだ名前も聞いてません!」
一瞬の沈黙。
そして――
女性は楽しそうに笑った。
『それは次のお楽しみ♪』
「えぇ!?」
視界が真っ白に染まった。
「……ん。」
ヒルメはゆっくりと目を開いた。
ぼんやりとした視界に、見知らぬ天井が映る。
「……ここ……。」
身体を起こそうとした瞬間。
「うぅ……。」
全身を襲う強い倦怠感に、再び枕へ沈み込む。
身体が鉛のように重い。
「ワンッ!」
「え……?」
聞き慣れた声。
顔を横へ向けると、ベッドのすぐ傍にシロがいた。
「シロ……。」
「ワンッ!」
シロは勢いよく前脚をベッドへ掛けると、ヒルメの頬を何度も舐め始めた。
「わっ、ちょっと……シロ。」
「ふふっ……くすぐったいよ。」
「ワウッ!」
「心配してくれてたの?」
「ワン!」
ヒルメは弱々しく笑いながら、シロの頭を撫でる。
その時。
「目が覚めたか。」
部屋の奥から声がした。
「……エルドさん?」
椅子に腰掛けていたエルドが、ゆっくりと立ち上がる。
「気分はどうじゃ?」
「身体が……すごく重いです。」
「当然じゃ。」
エルドはベッドの傍まで歩いてくる。
「魔力をほとんど使い果たしておる。」
「魔力を……?」
ヒルメは不思議そうに瞬きをした。
エルドはその反応を見て、僅かに眉を上げる。
「……覚えておらんのか?」
「何をですか?」
「ふむ。」
エルドは顎髭に手を添える。
「最後に覚えておることは?」
ヒルメは目を閉じ、記憶を辿る。
魔法大会。
優勝したアルベルト。
そして――
「……シロ!」
勢いよく身体を起こした。
「シロ、大丈夫!?」
「ワウ?」
ヒルメはシロの身体を慌てて確認する。
「蹴られて……!」
「怪我は!?」
「痛いところない!?」
「ワ、ワウ……。」
シロは困ったように首を傾げる。
エルドが小さく笑った。
「安心せい。」
「軽い打撲じゃ。治療魔法もかけてある。」
「よかった……。」
ヒルメはほっと息を吐き、シロを抱きしめた。
「ごめんね……。」
「ワウ。」
シロはヒルメの頬へ鼻先を寄せる。
その様子を見ながら、エルドは静かに尋ねた。
「その後は?」
「その後……?」
ヒルメは眉を寄せる。
「アルベルトさんに……謝ってくださいって言って……。」
そこから先が出てこない。
「……あれ?」
記憶が途切れている。
「私……どうしたんですか?」
エルドはしばらくヒルメを見つめた。
「覚えておらんようじゃな。」
「え?」
「まあ、今は休め。」
「じゃが後で、少々話を聞かせてもらうぞ。」
「……?」
ヒルメは首を傾げる。
その時、ふと何かを思い出した。
「あっ!」
「今度はなんじゃ。」
「私の杖!」
ヒルメは周囲を見回す。
「あれ、どこに……。」
「そこじゃ。」
エルドが部屋の隅を指差す。
壁際に、いつもの杖が立て掛けられていた。
「……。」
ヒルメはじっと杖を見つめる。
先ほどまで見ていた、不思議な夢。
真っ白な世界。
突然喋り出した女性。
そして――
ひび割れた杖の奥から覗いた光。
「……夢だったのかな。」
「何か言ったか?」
「い、いえ!」
ヒルメは慌てて首を振る。
杖はいつもと何も変わらない。
古びた、ごく普通の杖。
ヒルメはしばらく見つめていたが――
やがて小さく息を吐いた。
「変な夢……。」
その瞬間。
誰にも気付かれることなく。
杖の奥で――
ほんの僅かに光が瞬いた。
その後、ヒルメはエルドに言われるまま、再びベッドへ身体を横たえた。
「今日は何も考えず、ゆっくり休むことじゃ。」
「でも……。」
「でもも何もない。」
エルドは杖で床を軽く叩く。
「魔力が戻るまでは大人しくしておれ。」
「……はい。」
「ワウ。」
シロまで同意するように鳴く。
「シロまで……。」
ヒルメは少し不満そうに頬を膨らませた。
「まあ、いいか……。」
身体が重いのは事実だった。
目を閉じると、すぐに眠気が襲ってくる。
「おやすみ……シロ。」
「ワウ。」
シロの温もりを感じながら、ヒルメは再び眠りについた。
◇ ◇ ◇
翌日。
十分な睡眠を取ったヒルメの体調は、すっかり回復していた。
「んーっ!」
大きく伸びをする。
「よく寝たぁ……。」
「ワウ!」
「シロも元気そうだね。」
ベッドから降りようとした、その時だった。
コンコン。
医務室の扉が叩かれる。
「はい?」
扉が開き、エルドが姿を現した。
「起きておったか。」
「エルドさん。おはようございます。」
「うむ。身体はどうじゃ?」
「もう大丈夫です!」
ヒルメは元気よく両腕を上げてみせる。
エルドはその様子を確認すると、小さく頷いた。
「それなら問題なさそうじゃな。」
「はい!」
「では、少々付き合ってもらおうか。」
「……?」
ヒルメは首を傾げる。
「どこか行くんですか?」
「王城じゃ。」
「……。」
ヒルメの動きが止まった。
「はい?」
「王城じゃ。」
「……なんで?」
「陛下がお主に会いたいそうじゃ。」
「……。」
数秒の沈黙。
「えええええええっ!?」
ヒルメの声が医務室中に響き渡った。
◇ ◇ ◇
「む、無理ですよ!」
王城へ続く大通り。
ヒルメは杖を抱えながら、エルドの後ろを歩いていた。
その隣にはシロもいる。
「私、王様に会ったことなんてありません!」
「普通はそうじゃろうな。」
「何を話せばいいんですか!?」
「聞かれたことに答えればよい。」
「礼儀とか分からないですよ!」
「最低限で構わん。」
「最低限が分からないんです!」
「面倒な娘じゃのう。」
「だって王様ですよ!?」
エルドは呆れたように笑う。
昨日、闘技場を半壊させかねないほどの魔法を放った少女と同一人物とは思えない。
やがて二人と一匹は巨大な王城へ辿り着いた。
白亜の城壁。
天高く伸びる尖塔。
入口には鎧を身につけた近衛騎士たちが並んでいる。
ヒルメは思わず足を止めた。
「……帰っていいですか?」
「駄目じゃ。」
「ですよね……。」
「ワウ。」
「シロは気楽でいいなぁ……。」
エルドに促され、ヒルメは王城へ足を踏み入れる。
長い廊下を進み――
やがて巨大な扉の前で足を止めた。
扉の両脇に立つ騎士が声を張り上げる。
「宮廷魔導師団長エルド様――」
「ならびに、客人のご到着!」
ゴゴゴゴゴ……。
重厚な扉がゆっくりと開いていく。
その先には、広大な謁見の間。
真紅の絨毯が真っ直ぐ玉座まで続いている。
そして、その最奥。
玉座には一人の男が座っていた。
その傍らには――
昨日、闘技場でヒルメを見ていたレオンの姿もあった。
ヒルメはそんなことなど知る由もなく、緊張した面持ちで玉座を見つめる。
「……王様。」
思わず小さく呟く。
エルドが一歩前へ出た。
「陛下。」
「お連れいたしました。」




