逆鱗
闘技場を後にした観客たちは、興奮冷めやらぬ様子で帰路についていた。
「やっぱりアルベルト様は別格だったな。」
「学院最強は伊達じゃない。」
「雷魔法だけであそこまで圧倒するとは……。」
興奮気味に語り合う観客たちの間を、ヒルメとシロ、そしてエルドはゆっくりと歩いていた。
「シロ、楽しかったね。」
「ワウ!」
シロは嬉しそうに尻尾を振る。
エルドも穏やかに微笑んだ。
「どうじゃ、魔法大会は。」
「はい。皆さんすごく強くて勉強になりました。」
「うむ。」
その時だった。
前方から数人の取り巻きを従えたアルベルトが歩いてくる。
優勝したばかりの彼へ、観客たちは次々と頭を下げた。
「アルベルト様!」
「優勝おめでとうございます!」
「さすが学院最強です!」
アルベルトは当然と言わんばかりに顎を上げ、その賞賛を受け流す。
そのまま歩みを進めた瞬間。
シロが一歩だけ前へ出た。
アルベルトは眉一つ動かさない。
「邪魔だ。」
ドゴッ!!
「キャンッ!!」
シロの身体が勢いよく石畳を転がった。
「シロ!!」
ヒルメは慌てて駆け寄り、シロを抱き起こす。
シロは苦しそうに小さく鳴いた。
その瞬間だった。
「……っ!!」
エルドの全身が硬直する。
(なんだ……。)
ヒルメから溢れ出した魔力。
それは一瞬で周囲の魔力を飲み込むほどの濃さだった。
(この魔力は……。)
エルドの表情から血の気が引いていく。
魔力は止まらない。
怒りに呼応するように、際限なく膨れ上がっていく。
(まだ上がる……。)
誰も気付いていない。
アルベルトも。
観客も。
大会運営も。
この異常な魔力を感じ取っているのは、エルドただ一人。
(この圧……。)
(この子が……。)
(この小さな少女が……。)
ヒルメはゆっくりと立ち上がる。
その瞳には怒りさえ映っていない。
何もない。
ただ静かにアルベルトを見つめていた。
「……謝ってください。」
静かな声だった。
アルベルトは鼻で笑う。
「謝る?」
「私が犬畜生にか?」
取り巻きたちが一斉に笑い出す。
「聞いたか?」
「犬に謝れだと。」
ヒルメは表情一つ変えない。
「……謝ってください。」
エルドは拳を強く握る。
しかしアルベルトは薄く笑みを浮かべた。
「なんだ。」
「文句があるのか?」
「ならばリングへ上がれ。」
「力で証明してみろ。」
大会運営が慌てて割って入る。
「ア、アルベルト様!」
「大会はすでに終了しております!」
「試合など認められません!」
アルベルトは面倒そうに鼻で笑った。
「堅いことを言うな。」
「余興だ。」
「観客も退屈している。」
「楽しませてやろうじゃないか。」
観客席から歓声が上がる。
「余興だ!」
「アルベルト様がもう一戦!」
「見たい!」
エルドはヒルメを見つめる。
(この子は……もう怒りを抑えられておらん……。)
ヒルメは何も答えない。
ただ、静かにリングへ向かって歩き出した。
エルドはその背中を見つめ、小さく目を細める。
(……なるほど。)
ヒルメから溢れる魔力は、なおも静かに膨れ上がっていた。
怒りに呼応するように。
底が見えない。
(怒りでここまで魔力が変化するとは……。)
エルドは腕を組む。
その表情に焦りはない。
ただ、長年魔法を極めてきた者として純粋に驚いていた。
(ふむ……。)
(これは予想以上じゃな。)
ヒルメは一度も振り返ることなくリングへ上がる。
アルベルトも余裕の笑みを浮かべながら中央へ歩いた。
「女。」
「最後に一度だけ聞いてやる。」
「今なら土下座をすれば許してやってもいい。」
観客席から笑いが漏れる。
「終わったな。」
「相手が悪すぎる。」
「余興にはちょうどいい。」
ヒルメは何も答えない。
ただアルベルトを見つめている。
その瞳に怒りは見えない。
あるのは静寂だけだった。
エルドは小さく息を吐く。
(あの目か……。)
(完全に頭へ血が上っているわけではない。)
(じゃが、あれは怒りを押さえ込んでいる目じゃ。)
再びヒルメから溢れる魔力が一段と濃くなる。
エルドは僅かに口角を上げた。
(これ以上となると……。)
(このままではアルベルトが危ないな。)
しかし、それ以上口を挟むことはしない。
原因を作ったのはアルベルト自身。
この勝負の行く末を見届けようと、静かに腕を組んだ。
アルベルトはゆっくりとリングへ足を踏み入れた。
「来い。」
「私自ら相手をしてやる。」
その余裕に満ちた声に、観客席から歓声が上がる。
「アルベルト様!」
「やっちゃってください!」
「一瞬で終わるぞ!」
ヒルメは何も答えず、静かにリングへ上がる。
アルベルトは右手を掲げた。
バチッ……
青白い雷が弾ける。
「来ないのなら、こちらから行くぞ!」
轟音とともに雷が奔る。
ヒルメは微動だにしない。
「《ガーディアン・プリズン》」
淡い光がヒルメを包み込む。
雷は結界へ激突し、激しい閃光を撒き散らした。
しかし――
傷一つ付かない。
「なに……?」
アルベルトの笑みが初めて消えた。
「……防いだだと?」
一瞬呆然と立ち尽くす。
やがてその表情は驚愕から怒りへ変わった。
「後悔させてやる。」
右手を突き出した瞬間、雷が迸る。
「《ライトニング・スピア》!」
轟ッ!!
無数の雷槍がヒルメへ降り注ぐ。
――ガガガガガガッ!!
激しい爆音がリングを包み込んだ。
土煙が舞い上がり、観客席から歓声が上がる。
「決まった!」
「終わりだ!」
「さすがアルベルト様!」
しかし――
土煙の中から、一人の少女が静かに歩き出す。
傷一つない。
淡い光の結界だけが、その身を包んでいた。
アルベルトの表情が僅かに曇る。
「……防いだだと?」
ヒルメは足を止めることなく右手を上げる。
黒い魔力が空間を覆い始めた。
詠唱はない。
魔法陣すら展開されない。
ただ魔力だけが圧縮されていく。
エルドは静かに目を細めた。
(無詠唱……。)
(魔法陣すら展開しておらぬ……。)
(しかも、あれほどの規模を一瞬で……。)
次の瞬間。
「《ダークランス》」
幾百もの黒槍が空を埋め尽くした。
「なっ……!」
アルベルトの表情が初めて変わる。
黒槍は雨のように降り注ぎ、一斉に襲い掛かった。
「くっ!」
「《ライトニング・ウォール》!」
雷の障壁が展開される。
――ドドドドドドドドッ!!
黒槍が次々と激突し、轟音が闘技場を揺らした。
雷の障壁は次第にひび割れ、砕け散る。
「馬鹿な!」
アルベルトは咄嗟に横へ飛び退く。
数本の黒槍が頬を掠め、肩を貫いた。
「ぐぁっ!!」
鮮血が石畳へ飛び散る。
観客席がどよめいた。
「アルベルト様が……押されてる?」
「嘘だろ……。」
エルドは静かに黒槍を見つめる。
(やはり……。)
(闇魔法。)
(文献には残っておったが、実在していたとはな。)
アルベルトは肩を押さえながらヒルメを睨みつける。
「貴様……。」
「その魔法は何だ!」
「そんな属性、見たことも聞いたこともない!」
ヒルメは答えない。
ただ静かにアルベルトを見つめるだけだった。
エルドは小さく息を吐く。
(知らぬのも無理はない。)
(闇魔法は、今や伝承でしか語られぬ失われた属性。)
(現代で目にした者など、おるはずがない。)
アルベルトは歯を食いしばる。
「ならば……。」
「力尽くで叩き潰す!」
両手を前へ掲げ、大量の魔力を練り上げ始めた。
「我が呼び声に応えよ──雷神の裁きをここに!」
闘技場の上空へ、巨大な雷雲が渦を巻き始める。
アルベルトの足元から激しい雷が迸る。
凄まじい魔力が渦を巻き、空を覆う雷雲はさらにその規模を増していく。
観客たちは思わず息を呑んだ。
「すごい魔力だ……。」
「アルベルト様、本気だ!」
「まさか最初からあれを使う気か……!」
エルドは静かに空を見上げた。
(大技か。)
(学院の生徒としては申し分ない魔力量じゃ。)
アルベルトは両手を広げ、高らかに詠唱を紡ぐ。
「天を裂く雷よ――」
「我が呼び声に応え、その怒りを地上へ示せ。」
「全てを貫き、全てを滅ぼせ!」
「《ジャッジメント・サンダー》!!」
轟音とともに、無数の雷がヒルメへ降り注ぐ。
観客席から悲鳴が上がった。
「終わった!」
「避けられない!」
だが――
ヒルメは動かない。
ただ右手をゆっくりと前へ向ける。
「《ガーディアン・プリズン》」
淡い光がヒルメを包み込む。
次の瞬間。
轟ッッッ!!!
幾重もの雷が結界へ叩きつけられた。
激しい閃光が闘技場全体を白く染め上げる。
爆風が観客席にまで吹き荒れ、誰もが目を閉じた。
やがて光が消える。
そこには――
無傷のヒルメが静かに立っていた。
結界には、傷一つ付いていない。
アルベルトの瞳が大きく見開かれる。
「馬鹿な……。」
「私の最大級魔法を……。」
エルドは小さく頷いた。
(当然じゃ。)
(あの程度では破れん。)
ヒルメは静かに右手を下ろす。
そして再び黒い魔力が周囲へ溢れ始めた。
「まだだぁぁぁっ!!」
アルベルトは叫びながら次々と魔法を放つ。
「《ライトニング・スピア》!」
雷槍が幾本も放たれる。
「《サンダーブラスト》!」
爆発的な雷撃がリングを覆う。
「《ライトニング・レイン》!」
空から無数の雷が降り注ぐ。
轟音が鳴り響き、石畳は次々と砕け散っていく。
しかし――
「《ガーディアン・プリズン》」
ヒルメは一歩も動かない。
どれだけ雷が降り注ごうとも、結界は微動だにしなかった。
「くそっ!」
アルベルトは歯を食いしばる。
「ならばこれでどうだ!」
さらに魔力を練り上げ、雷を放とうとした、その瞬間。
ヒルメが右手を僅かに動かす。
「《ダークブラスト》」
漆黒の衝撃波が一直線に放たれた。
「ぐあぁぁぁっ!!」
アルベルトは防御する間もなく吹き飛ばされ、リングを何度も転がる。
「アルベルト様!」
観客席から悲鳴が上がる。
アルベルトは血を吐きながら立ち上がる。
「まだ……終わらん……!」
ヒルメはゆっくりと右手を差し出した。
「《ダークチェイン》」
足元の影が蠢く。
次の瞬間、漆黒の鎖が地面から飛び出し、アルベルトの両腕、両脚、胴体へと絡みついた。
「なっ!?」
ガシャンッ!!
鎖は一瞬でアルベルトの身体を拘束する。
「くっ!」
「外れろ!」
雷を纏わせ、力任せに引き千切ろうとする。
だが――
ビクともしない。
「な、なんだこの鎖は!」
「外れろ……!」
「外れろぉぉ!!」
雷が鎖を駆け巡る。
それでも黒い鎖は傷一つ付かない。
エルドは静かに腕を組んだ。
(拘束魔法まで闇属性か。)
(これでは逃げられまい。)
ヒルメは拘束されたアルベルトを見ることなく、静かに両手を胸の前で重ねた。
周囲の空気が震える。
黒い魔力が渦を巻きながら、ヒルメの頭上へと集まり始める。
その密度は、これまでとは比べものにならない。
エルドの表情から初めて笑みが消えた。
(……ほう。)
(極大魔法か。)
(このまま完成すれば……。)
エルドは拘束されたアルベルトへ視線を向け、小さく息を吐く。
(助からんな。)
アルベルトは鎖を引き千切ろうと必死にもがく。
「外れろ!」
「くそっ!」
「なんなんだ、この鎖は!!」
雷を纏わせても傷一つ付かない。
ヒルメは静かに右手を空へ向ける。
漆黒の魔力が空へ集まり始めた。
ゴォォォォ……
魔力の奔流が渦を巻き、一つの黒い球体を形成していく。
一メートル。
三メートル。
五メートル。
なおも膨れ上がる。
観客席が静まり返る。
誰も言葉を発せない。
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「な……。」
「なんだ……あれは……。」
球体はなおも巨大になっていく。
十メートル。
二十メートル。
闘技場全体を覆い尽くさんばかりの魔力。
「やめろ……。」
アルベルトは初めて恐怖を滲ませた。
「やめろぉぉぉ!!」
エルドは静かに空を見上げる。
「……ふむ。」
「さすがに、あれは見過ごせぬな。」
エルドは静かに杖を握る。
その表情に焦りはない。
ただ、宮廷魔導師団長として、この一撃だけは止めなければならないと悟っていた。
「……致し方あるまい。」
そう呟くと、ゆっくりと魔力を解放する。
ゴォォォォ……
エルドの足元から黄金色の魔法陣が幾重にも展開される。
その瞬間、闘技場の空気が一変した。
「えっ……。」
「今度はエルド様だ……。」
「宮廷魔導師団長が魔法を……!」
貴賓席で見守っていたレオンも思わず立ち上がる。
「あの子を……止めるつもりなのか。」
エルドは静かに目を閉じる。
「久しく使っておらなんだが……。」
「これほどの魔法を相殺するには、こちらも全力を尽くすしかあるまい。」
杖を天へ掲げる。
黄金の魔力が天へと昇り始めた。
闇と光。
二つの巨大な魔力が空を二分し、観客たちは誰一人として声を出せず、その光景を見上げることしかできなかった。
黄金の魔力は凄まじい勢いで天へと昇っていく。
その輝きは黒い魔力に対抗するかのように空を照らした。
エルドはゆっくりと詠唱を始める。
「天より降りし聖なる光よ――」
「万象を照らし、その慈悲をもって災厄を祓え。」
「我が全ての魔力を捧げる。」
「この地に集いし命を護るため――」
「顕現せよ。」
「《セイクリッド・ノヴァ》」
詠唱が終わると同時に、黄金の魔法陣が幾重にも重なり、巨大な光球が姿を現す。
黒と金。
二つの極大の魔力が空を二分した。
観客たちは震えながら見上げる。
「こ、こんなの……。」
「魔導師団長様まで全力なのか……。」
「闘技場が吹き飛ぶぞ……!」
レオンは唾を飲み込んだ。
「エルド殿が……全力を。」
その表情からは、いつもの余裕が消えていた。
エルドは静かにヒルメを見つめる。
(すまぬ。)
(これ以上は、見過ごすわけにはいかぬ。)
その頃、ヒルメの頭上では黒い魔力がなおも膨れ上がり続けていた。
五十メートル――
六十メートル――
圧縮され続けた闇の魔力は、空間すら歪ませ始める。
エルドは眉をひそめた。
(まだ……大きくなるのか。)
(これほどの魔力量……。)
アルベルトは拘束されたまま必死にもがく。
「やめろ!」
「嫌だ!」
「死にたくない!!」
叫び声だけが闘技場に響く。
だが、ヒルメは一切反応しない。
ゆっくりと右手を掲げる。
そして、小さく口を開いた。
「《アビス――」
その瞬間だった。
「そこまでじゃ。」
エルドの低く響く声が闘技場に響き渡る。
同時に、黄金の光球が天へと解き放たれた。
「行け。」
眩い閃光が一直線に黒い魔力へと迫る。
次の瞬間――
ゴォォォォォォォッ!!
黒と黄金。
二つの極大魔法が激突した。
轟音。
衝撃。
世界そのものが揺れたかのような爆音が響き渡る。
闘技場全体を暴風が吹き荒れ、観客たちは吹き飛ばされないよう必死に身を伏せる。
「うわぁぁぁ!」
「目が……!」
「何も見えない!」
黒と金の光が空一面を覆い尽くす。
互いの魔力が激しくぶつかり合い、火花のように無数の魔力片が降り注ぐ。
「ぐっ……!」
エルドは杖を強く握り締めた。
額から汗が流れ落ちる。
(重い……!)
(なんという魔力量じゃ……!)
黄金の光が少しずつ押し返される。
「まだか……!」
エルドはさらに魔力を注ぎ込む。
足元の魔法陣が一つ、また一つと輝きを増していく。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
その雄叫びとともに、黄金の光が一気に膨れ上がった。
ドォォォォォンッ!!
凄まじい爆発音とともに、黒と黄金の魔力は互いを飲み込み、空中で霧散していく。
やがて空を覆っていた暗雲は消え去り、静寂が訪れた。
エルドは大きく息を吐く。
「……間に合ったか。」
その直後だった。
ヒルメの身体から力が抜ける。
ふらり、と一歩よろめき――
そのまま前へ倒れ込んだ。
「ワンッ!」
シロが駆け出し、倒れたヒルメの傍らへ寄り添う。
エルドは杖を支えにしながらゆっくりと歩み寄る。
「……魔力切れか。」
「これほどの力を制御できる身体ではなかったか。」
そう呟くと、静かにヒルメを見下ろした。
静寂が闘技場を包む。
先ほどまで空を覆っていた黒と黄金の魔力は跡形もなく消え去り、残されたのは荒れ果てたリングだけだった。
エルドは荒い息を整えながら杖に体を預ける。
「……ふぅ。」
「さすがに、骨が折れたわい。」
その視線の先では、ヒルメが静かに倒れていた。
「ワンッ!」
シロは心配そうにヒルメの頬を舐め、何度も鼻先で身体を押す。
一方、拘束から解放されたアルベルトは、その場に尻もちをついたまま動けずにいた。
目の前で起きた光景が信じられない。
いや――信じたくなかった。
自分は学院最強。
誰にも負けたことなどなかった。
それなのに。
「……ば、化け物だ。」
震える声が漏れる。
エルドは倒れたヒルメへ静かに視線を向ける。
(違う。)
(あの子は、ただ怒りに飲まれただけじゃ。)
そう呟くことなく胸にしまい込み、静かに目を閉じた。




