帰る理由
◇ ◇ ◇
帝国を離れ、一人旅を続けて数日。
アリアナは静かな森の中を歩いていた。
鳥のさえずりが響き、木漏れ日が地面を優しく照らす。
人の気配はない。
聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけ。
旅路は静かだった。
だからこそ、不意に思い出す。
ヒルメたちと過ごした、賑やかな日々を。
「……元気にしているかな。」
自然と口元が緩む。
ヒルメ。
シロ。
フェネクス。
エリス。
フレイヤ。
アテナ。
短い旅だった。
それでも、あの時間は不思議と心地よかった。
「まったく……最後まで賑やかな連中だった。」
苦笑しながら歩みを進める。
やがて、風が変わる。
森の奥から流れてくる風は、幼い頃と何一つ変わっていなかった。
アリアナは静かに一歩を踏み出す。
故郷は、もう目の前だった。
ふと、ヒルメたちと過ごした日々が脳裏をよぎる。
いつも無茶ばかりする少女。
その度に誰かを救い、誰かのために涙を流していた。
そんな姿を見ているうちに、いつしか自分も惹かれていたのかもしれない。
「……また、あの旅に戻りたい。」
思わず漏れた本音に、アリアナは自嘲気味に笑う。
だが、今は駄目だ。
今の自分では、ヒルメの隣に立つ資格はない。
剣を握る手に、自然と力がこもる。
「今の私では……ヒルメを守り切ることはできない。」
ヒルメの持つ力は、あまりにも特別だった。
魂を救い、瘴気を祓い、人々に希望を与える力。
あの力を知れば、必ず狙う者が現れる。
いや――。
「既に動き始めている者もいるだろう。」
ドラゴンの墓場で感じた、あの禍々しい気配。
あれで終わるとは思えない。
だからこそ。
「私はもっと強くならなければならない。」
次に再会するその時までに。
誰にも敗れぬ力を手に入れるために。
アリアナは決意を胸に、故郷へと足を踏み入れた。
故郷へ続く道を歩くたび、胸の奥に眠っていた記憶が少しずつ蘇っていく。
幼い頃、剣を振るった訓練場。
仲間たちと駆け回った森。
厳しくも優しかった師の教え。
どれも昨日のことのように鮮明だった。
「……懐かしいな。」
自然と頬が緩む。
そんな時だった。
ピクリ――。
アリアナの耳が僅かに動く。
視線だけを森の奥へ向ける。
気配が二つ。
どちらも素早く木々の間を移動している。
次の瞬間。
「止まれ!」
鋭い声と共に二本の矢がアリアナの足元へ突き刺さった。
同時に木の上から二人のエルフが姿を現し、弓を構える。
「それ以上近づけば容赦はしない。」
「名を名乗れ。」
アリアナは驚く様子もなく、その場で静かに立ち止まる。
そしてゆっくりとフードを外した。
長い金色の髪が風になびく。
「私の名は、アリアナ。」
その一言に、二人のエルフは顔を見合わせる。
「……アリアナ?」
「まさか……。」
半信半疑のままアリアナの顔を見つめる二人。
その整った顔立ち。
透き通るような金色の長い髪。
そして、他のエルフとは一線を画す神聖な魔力。
二人の表情が一変した。
「ま……まさか……!」
「アリアナ様……!」
二人は慌てて弓を下ろし、その場に跪く。
「ご無礼をお許しください!」
「まさか本当に……お戻りになられるとは……!」
アリアナは静かに首を横へ振った。
「気にするな。」
「見張りとして当然の務めだ。」
二人は安堵したように顔を上げる。
「王へすぐにご報告いたします!」
「ご案内いたします。どうぞこちらへ。」
アリアナは小さく頷き、二人の後に続いてエルフの里へと足を踏み入れた。
重厚な扉がゆっくりと開く。
広い空間には静寂が広がり、その最奥には一つの玉座。
玉座に腰掛けるのは、一人の男。
長い銀髪を後ろで束ね、年月を感じさせる落ち着いた雰囲気を纏っている。
その黄金の瞳が、静かにアリアナを見据えた。
「……久しいな。」
低く、それでいて威厳のある声が響く。
アリアナは片膝をつき、静かに頭を垂れた。
「エルフ王。」
王はしばらくアリアナを見つめ、やがて小さく息を吐く。
「数百年。」
「一度も帰ることのなかったお前が、自らこの里へ戻ってきた。」
「理由を聞こう。」
アリアナはゆっくりと立ち上がる。
王の鋭い視線を真正面から受け止めながら、静かに口を開いた。
「力を貸していただきたい。」
その言葉に、王の眉が僅かに動く。
「ほう。」
「数百年もの間、この里に姿を見せなかったお前が。」
「帰ってきた理由は、それか。」
王は肘掛けに肘を置き、静かに問い掛ける。
「何のために力を求める。」
「何を守るためだ。」
アリアナは迷うことなく答えた。
「守りたい者ができました。」
王は目を細める。
「……それほどの者なのか。」
「はい。」
「お前が数百年帰らなかった故郷へ戻るほどに。」
「その者は、お前にとって大切な存在なのか。」
「はい。」
「では何故だ。」
「その者は、お前より弱いのか。」
アリアナは静かに首を横へ振る。
「いいえ。」
「私より遥かに強くなるでしょう。」
「ですが――。」
一瞬だけ言葉を切る。
「今の私では、その者を守ることはできません。」
王は黙ったままアリアナを見つめ続ける。
「その者には、人を惹きつける力があります。」
「人だけではありません。」
「必ず、その力を利用しようとする者も現れます。」
「私は、その時に後悔したくない。」
「だから……もっと強くならなければならないのです。」
王は静かにアリアナを見つめる。
「理由になっておらん。」
「守りたい者ができた。それだけで、お前が数百年もの間帰ることのなかった故郷へ戻るとは思えん。」
「何がお前をそこまで変えた。」
アリアナは静かに目を閉じる。
ヒルメと旅をした日々が脳裏を過る。
初めて出会った時のこと。
共に戦ったこと。
命を懸けて仲間を守ろうとした姿。
そして、あの笑顔。
ゆっくりと目を開き、王を見据える。
「私は……長い年月を生きてきました。」
「ですが、あの子のような人族には、一度も出会ったことがありませんでした。」
王は黙って耳を傾ける。
「あの子は、私がエルフだからという理由で距離を置くこともなく。」
「利用しようとすることもなく。」
「ただ、一人の仲間として私を受け入れてくれました。」
「共に笑い。」
「共に怒り。」
「命を預け、命を救おうとしてくれた。」
「そんなことは……私にとって初めてだったのです。」
王は小さく息を吐く。
「人族が……。」
「俄かには信じ難い話だ。」
「我らエルフと人族は、長き時を互いに警戒し、距離を置いてきた。」
「その人族が、お前を何の偏見もなく受け入れたというのか。」
「はい。」
「だから私は知りました。」
「種族ではなく、人を見る者がいるということを。」
「私は、あの子に教えられました。」
「誰を信じるべきかではなく、誰を信じたいかを。」
玉座の間が静寂に包まれる。
アリアナは胸の前で拳を握る。
「だから私は強くなりたい。」
「今度は私が、あの子を守れるようになるために。」
「もし……。」
そこで一度言葉を切る。
「もし誰かが、あの子の力を利用しようとするのであれば。」
「私はその前に立ちはだかります。」
「相手が誰であろうと。」
「エルフであろうと、人族であろうと。」
「私は、あの子を守ります。」
王は静かに目を閉じた。
その表情からは、何を考えているのか読み取ることはできなかった。
王は静かに目を閉じた。
その表情からは、何を考えているのか読み取ることはできなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「一人の人族のために。」
「そこまで言い切るか。」
「はい。」
「……では、問おう。」
王の黄金の瞳が鋭く光る。
「もし、その娘の力を我らエルフが必要としたらどうする。」
「その力が種族の繁栄に繋がるとしても。」
「その娘に犠牲になってもらうと決まったとしても。」
アリアナは一切迷わなかった。
「断ります。」
即答だった。
「私は、そのようなことをさせるために帰ってきたのではありません。」
「あの子を守る力を得るために帰ってきたのです。」
王はなおも問いを重ねる。
「相手がエルフであってもか。」
「はい。」
「王である私の命であっても。」
アリアナは真っ直ぐ王を見据えた。
「従えません。」
「私にとって、あの子は恩人です。」
「初めて種族ではなく、一人の私として向き合ってくれた。」
「その恩を裏切るくらいなら――。」
一度言葉を切り、静かに息を吸う。
「私はエルフであることを捨てます。」
「里を追放されようと。」
「王に刃を向けることになろうと。」
「私は、あの子を守ります。」
玉座の間に重い沈黙が流れた。
王はアリアナを見据えたまま、微動だにしない。
やがて、小さく息を吐く。
「……そこまでの覚悟か。」
王は静かにアリアナを見つめる。
「……その覚悟が本物かどうか。」
「それを決めるのは私ではない。」
王はゆっくりと立ち上がる。
「お前は力を求め、この里へ帰ってきた。」
「ならば、王として一つだけ許可を与えよう。」
アリアナは黙って耳を傾ける。
「世界樹の地下迷宮。」
「エルフ王の許可なく立ち入ることを禁じられた聖域だ。」
「数多の戦士が挑み、そのまま命を落とした。」
「生きて帰れる保証はない。」
「それでも行くか。」
アリアナは迷うことなく答えた。
「はい。」
「構いません。」
「私には、強くならなければならない理由があります。」
王は静かに頷く。
「ならば行くがいい。」
「お前が求める力が、その先にあるかは分からぬ。」
「だが、その資格があるかどうかは、世界樹が決めるだろう。」
アリアナは深く一礼した。
「ありがとうございます。」
王は背を向け、静かに言葉を残す。
「必ず、生きて帰ってこい。」
「それが、お前に与える唯一の命令だ。」
アリアナは王の間を後にした。
扉が静かに閉まり、長い廊下へと足を踏み出す。
「世界樹の地下迷宮……。」
幼い頃、その名だけは何度も耳にしていた。
だが、その姿を見た者はほとんどいない。
挑んだ者の多くは帰らず。
帰ってきた者も、その中で何を見たのかを語ることはなかったという。
「望むところだ。」
アリアナは静かに歩き続ける。
その時。
「アリアナ様。」
背後から声が掛かった。
振り返ると、一人の女性エルフが立っていた。
長い銀髪を揺らしながら、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。
「本当に……アリアナ様なのですね。」
アリアナは目を細める。
「……リリアか。」
女性は嬉しそうに微笑む。
「はい。お久しぶりです。」
「数百年ぶりになりますね。」
アリアナは小さく頷いた。
「ああ。」
「随分と立派になったな。」
リリアは少し照れたように笑う。
「アリアナ様ほどではありません。」
「皆、戻られる日を待っていました。」
「そうか。」
短く返すアリアナ。
その様子にリリアは少しだけ寂しそうに笑った。
「……これから世界樹の地下迷宮へ向かわれるのですか。」
「ああ。」
「王から許可をいただいた。」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの表情が強張る。
「まさか……。」
「本気なのですね。」
「危険です。」
「これまで何人もの戦士が挑み、命を落としています。」
アリアナは静かに微笑んだ。
「だからこそ行く。」
「強くならなければならない理由がある。」
リリアはその瞳を見つめ、何も言えなくなった。
その決意が、決して揺るがないことを理解したからだ。
「……ご武運を。」
「ああ。」
短く答えると、アリアナは再び歩き始めた。
その先にそびえ立つ世界樹を見上げながら。
巨大な世界樹の根元には、ぽっかりと口を開けた暗い入口があった。
世界樹の地下迷宮。
エルフ王の許可なく立ち入ることを禁じられた聖域。
アリアナは入口の前で足を止める。
静かに剣へと手を添え、深く息を吐いた。
「待っていてくれ、ヒルメ。」
「次に会う時は。」
「今よりもっと強くなった私で、お前の隣に立とう。」
そう呟くと、一歩。
そしてまた一歩。
アリアナの姿は闇の中へと消えていく。
その背中に迷いはなかった。
必ず強くなって帰る。
その決意だけを胸に、アリアナは世界樹の地下迷宮へと足を踏み入れた。




