覚悟の試練
フェネクスは静かに歩き続けていた。
先ほどまで続いていた石畳は消え、辺り一面を白い霧が包んでいる。
風もない。
音もない。
自分の足音だけが、静かに響いていた。
「ここが……第二の試練。」
女性の言葉を思い出す。
『剣も。』
『魔法も。』
『力も。』
『ほとんど意味を持ちません。』
(どういう意味なんだろう……。)
警戒しながら歩き続ける。
しかし、何も起こらない。
一歩。
また一歩。
どれだけ歩いても景色は変わらなかった。
「終わりが見えない……。」
その時だった。
「フェネクス!」
聞き慣れた声が響く。
「……ヒルメちゃん?」
霧の向こうから、一人の少女が駆け寄ってくる。
「よかったぁ!」
勢いよく抱き付いてきた。
「心配したんだから!」
「ヒルメちゃん……。」
その後ろから、皆の姿も見えてくる。
「ワウッ!」
シロが嬉しそうに駆け回る。
アリアナは腕を組みながら笑った。
「まったく。」
「勝手に一人で行くから心配したぞ。」
エリスも安堵したように息を吐く。
「ご無事で何よりです。」
フレイヤが笑顔を見せる。
「迎えに来ました。」
最後にアテナが静かに口を開いた。
「フェネクスの生命反応を追跡し、この場所を特定しました。」
フェネクスは驚きながら皆を見つめる。
「どうして……ここへ?」
ヒルメが笑う。
「どうしてって。」
「迎えに来るに決まってるじゃん。」
「一人で頑張るのもいいけど、仲間なんだからさ。」
フェネクスは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう。」
「でも、本当に来られるなんて思わなかった。」
ヒルメは笑いながら歩き出す。
「ほら。」
「霊石を取りに行こう。」
一行は再び歩き始めた。
フェネクスも皆と並んで歩く。
久しぶりに皆が揃った安心感からか、自然と笑みが零れていた。
しばらく歩くと、アリアナが笑いながら口を開いた。
「フェネクス。」
「霊石を手に入れたら、そのまま王になればいいじゃないか。」
「え……?」
フェネクスは思わず振り返る。
「王?」
「そうよ。」
「王になれば誰も逆らえないだろ?」
「争いも終わるし、一石二鳥じゃないか。」
フェネクスは少し困ったように笑った。
「そんなこと考えたことないよ。」
アリアナは呆れたように肩を竦める。
「相変わらず欲がないな。」
その言葉を聞きながら、フェネクスは小さく首を傾げた。
(アリアナさんが……。)
(そんなこと言うかな……。)
考え過ぎだろうか。
そう思い直し、歩き続ける。
今度はアテナが口を開いた。
「霊石を入手後、解析を開始します。」
「高純度の魔力結晶です。」
「利用価値は極めて高いと予測されます。」
「う、うん……。」
返事はした。
だが。
また胸に引っ掛かる。
(アテナなら。)
(まず、お母様を助けましょうって言うはず……。)
霊石の価値より。
母を助けること。
それを最優先に考える。
それがアテナだった。
フェネクスは歩きながら皆を見つめる。
ヒルメ。
シロ。
アリアナ。
エリス。
フレイヤ。
アテナ。
皆、笑っている。
皆、いつも通りだ。
なのに。
胸の奥の違和感だけは、少しずつ大きくなっていった。
歩き続けるうちに、違和感は少しずつ増えていった。
皆は確かに仲間だった。
姿も。
声も。
話し方も。
何もかも同じ。
それなのに、どこか噛み合わない。
ヒルメが笑いながら振り返る。
「フェネクスちゃん。」
「霊石を取ったら、そのまま里へ戻ろう。」
「うん。」
「お母様も助けないとね。」
フェネクスは頷いた。
その時。
シロが横を通り過ぎる。
「ワウッ!」
そのまま前へ走って行った。
フェネクスは思わず足を止める。
「……シロ。」
シロはこちらを振り返るだけだった。
尻尾は振っている。
でも。
(おかしい。)
(シロなら……。)
再会した時は必ず飛び付いてくる。
顔を舐めて。
身体を擦り寄せて。
嬉しそうに甘えてくる。
それがシロだった。
なのに今日は。
一定の距離を保ったまま。
ただ笑っているだけ。
フェネクスは黙ったまま歩き出す。
今度はエリスが静かに口を開いた。
「フェネクス様。」
「霊石を手に入れた後ですが。」
「王派との戦いもございます。」
「戦力は多い方が良いでしょう。」
「私も、このまま霊獣族へ残ります。」
フェネクスは小さく笑う。
「ありがとう。」
「でも……。」
言葉が止まる。
(エリスさんなら。)
(まず『お母様の容体が心配です』って言う。)
戦いより先に。
助ける命を考える人だ。
フレイヤも口を開く。
「フェネクス様。」
「相手が王派なら、全員倒してしまえば早いですよ。」
「え……?」
フェネクスは思わず立ち止まった。
フレイヤはそんなことを言わない。
戦うことはあっても。
命を軽く扱う人じゃない。
胸の奥の違和感が、一気に大きくなる。
ヒルメが不思議そうに振り返った。
「フェネクスちゃん?」
「どうしたの?」
フェネクスは皆の顔を見つめる。
誰もが笑っている。
いつも通り。
本当に、いつも通りだった。
だからこそ。
その僅かな違和感だけが、妙にはっきりと見えてしまう。
(違う……。)
(この人たちは。)
(皆に似ているだけ。)
フェネクスはゆっくりと目を閉じた。
旅の記憶が蘇る。
ヒルメの優しさ。
シロの温もり。
アリアナの厳しさ。
エリスの誠実さ。
フレイヤの真っ直ぐな心。
アテナの冷静さ。
皆、一人ひとり違う。
だからこそ、大切な仲間だった。
静かに目を開く。
フェネクスは小さく笑った。
「そういうことだったんだね。」
ヒルメが首を傾げる。
「何が?」
フェネクスはゆっくりと首を横へ振る。
「あなたたちは。」
「私の大切な仲間じゃない。」
「皆の姿を真似ただけ。」
「本当の皆なら……。」
「こんな風には笑わない。」
その瞬間。
ヒルメたちの笑顔が止まった。
その瞬間、誰一人として言葉を発しなくなった。
静寂だけが辺りを包む。
やがて。
ヒルメがゆっくりと口を開いた。
「どうして……?」
「私たちは、本物だよ?」
フェネクスは静かに首を横へ振る。
「違う。」
「あなたたちは、皆に似せているだけ。」
「姿も。」
「声も。」
「話し方も。」
「でも。」
「心までは真似できていない。」
アリアナが一歩前へ出る。
「どこが違うと言うんだ?」
フェネクスは穏やかに微笑んだ。
「ヒルメちゃんなら。」
「私が決めたことを、最後まで信じて送り出してくれる。」
「迎えになんて来ない。」
ヒルメの表情が消える。
「シロなら。」
「再会したら真っ先に飛び付いてくる。」
「私の隣を歩くだけなんて、絶対にしない。」
シロの姿が揺らぎ始める。
「アリアナさんは。」
「王になれなんて言わない。」
「私が決めることだから。」
「そう言って見守ってくれる人。」
アリアナも静かに光へ溶け始めた。
「エリスさんは。」
「戦いの話より先に、人を助けることを考える。」
「フレイヤは。」
「命を軽く扱うような言葉は言わない。」
「アテナは。」
「霊石を解析する前に、お母様を助ける方法を考える。」
一人。
また一人。
身体が白い粒子となり、霧の中へ溶けていく。
最後に残ったヒルメが、小さく笑った。
「……よく見抜いたね。」
その声は、もうヒルメのものではなかった。
パリン――。
世界が音を立てて砕け散る。
白い霧が晴れ、再び静寂が訪れた。
目の前には、試練の守護者である女性が静かに立っている。
「第二の試練。」
「合格です。」
フェネクスは大きく息を吐いた。
「皆を疑いたくなんて……ありませんでした。」
女性は静かに頷く。
「だからこそ、この試練は意味があるのです。」
「姿ではなく。」
「言葉でもなく。」
「相手を信じ、理解しているか。」
「それを試させていただきました。」
フェネクスは小さく微笑んだ。
「皆のことは、ちゃんと分かっていますから。」
女性の表情が少しだけ柔らかくなる。
「見事です。」
「では――。」
「最後の試練へ参りましょう。」
女性は静かに踵を返した。
フェネクスもその後を追う。
白い霧の中をしばらく歩き続けると、景色が少しずつ変わり始めた。
やがて霧は晴れ、一つの広間が姿を現す。
中央には古びた祭壇。
その上には、蒼く輝く一つの結晶が静かに宙へ浮かんでいた。
「……あれが。」
フェネクスは思わず息を呑む。
「霊石……。」
近付くだけで身体中へ温かな魔力が流れ込んでくる。
これほど膨大な魔力を感じたことは一度もなかった。
思わず一歩踏み出す。
しかし――。
「そこで、お止まりください。」
女性の静かな声が広間へ響く。
フェネクスは足を止めた。
「最後の試練は、まだ終わっておりません。」
「え……?」
女性は祭壇へ歩み寄ると、霊石を見上げた。
「第一の試練では力を。」
「第二の試練では心を。」
「そして最後に問うのは――。」
一呼吸置く。
「覚悟です。」
その言葉と同時に。
ゴゴゴゴゴ……
祭壇の床がゆっくりと動き始める。
石畳が左右へ開き、その中央から巨大な天秤が静かに姿を現した。
片方の皿には、蒼く輝く霊石。
もう片方には、小さな白い炎が揺らめいている。
フェネクスは目を細めた。
「あれは……。」
女性はフェネクスを真っ直ぐ見つめる。
「あなた自身の命です。」
フェネクスは天秤を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
「あれが……私の命。」
白く揺らめく炎は、小さいながらも確かな温もりを放っている。
まるで心臓が鼓動を打っているようだった。
女性は静かに口を開く。
「その炎は、あなたの生命力を映したものです。」
「そして、こちらが霊石。」
「今からその炎は浄火となり、霊石へ続く道を形作ります。」
「浄火は、進む者の生命力を喰らいます。」
「辿り着けなければ、その命は尽きるでしょう。」
視線を霊石へ向ける。
フェネクスは目を見開いた。
「命……。」
「はい。」
「王とは。」
「己の命を懸けてでも、大切な者を守る存在。」
「その覚悟を持つ者だけが、この霊石を手にする資格があります。」
広間は静まり返る。
フェネクスは何も言えなかった。
霊石へ視線を向ける。
これがあれば。
母を助けられるかもしれない。
でも。
拳が震えた。
(命……。)
旅に出てからの日々が脳裏を過ぎる。
ヒルメと笑い合ったこと。
シロと一緒に走り回ったこと。
アリアナと口喧嘩をしたこと。
エリスと剣の稽古を見学したこと。
フレイヤと食事を囲んだこと。
アテナが無表情のまま皆を助けてくれたこと。
どれも、まだ昨日のことのようだった。
胸が締め付けられる。
「嫌だ……。」
思わず本音が零れる。
「まだ……。」
「皆と旅がしたい。」
震える声だった。
「もっと笑いたい。」
「もっと色んな景色を見たい。」
「皆と……約束したことも、まだ何も果たせてない。」
拳を握る力が強くなる。
それでも。
視線は霊石から離れなかった。
女性は静かにフェネクスを見つめていた。
急かすことも。
答えを促すこともない。
ただ、その決断を待っている。
フェネクスは目を閉じた。
(もし……。)
(この炎を進めば……。)
(本当に、命を落とすかもしれない。)
母を助けることはできるかもしれない。
でも、その先は。
ヒルメたちと旅を続けられる保証はない。
約束した。
今度は私が皆を守ると。
なのに。
私が死ねば。
私の方が先に皆の前からいなくなるかもしれない。
それは嫌だった。
本当に嫌だった。
胸が苦しくなる。
自然と涙が頬を伝っていた。
「怖い……。」
震える声が広間へ響く。
「本当は怖いです。」
「死ぬことも。」
「皆と別れることも。」
「母上と過ごせる時間がなくなることも。」
拳を強く握る。
「やっと……。」
「やっと帰って来られたのに。」
「やっと友達ができたのに。」
「まだ、一緒にいたい。」
その言葉は偽りのない本心だった。
女性は静かに目を閉じる。
フェネクスは涙を拭いながら、小さく笑った。
「でも。」
「もし私がここで迷って帰ったら。」
「母上は助からない。」
「きっと私は。」
「一生後悔します。」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳に、もう迷いは残っていなかった。
フェネクスは天秤の前まで歩み寄る。
白い炎を見つめる。
「私の命は。」
「母上が守ってくれた命です。」
「だから本当は。」
「こんな簡単に差し出していいものじゃない。」
一度だけ目を閉じる。
そして。
静かに霊石へ視線を向けた。
「それでも。」
「母上を助けられるのなら。」
「私は、この命を懸けます。」
フェネクスはゆっくりと右手を伸ばした。
白い炎へ向かって。
あと少し。
指先が触れようとした、その瞬間――。
ゴォォォォッ!!
白い炎が一気に燃え上がった。
まるで意思を持つかのように炎は左右へ広がり、祭壇へ続く一本の道を作り出す。
その先には、蒼く輝く霊石が静かに浮かんでいた。
フェネクスは思わず息を呑む。
「これは……。」
女性は静かに告げる。
「その炎の先に、霊石があります。」
「最後の試練とは。」
「その炎を越え、霊石へ辿り着くこと。」
フェネクスは炎を見つめた。
白い炎。
熱は感じない。
だが、本能が告げていた。
この炎は危険だと。
女性が続ける。
「この炎は、浄火。」
「肉体だけでなく、魂すら焼く炎です。」
「一歩進むたび、その身を焼き続けます。」
「途中で引き返すことはできます。」
「ですが、その時点で試練は失敗。」
「二度と霊石へ挑むことは許されません。」
静かな沈黙が流れる。
フェネクスは霊石を見つめた。
母を助けるためには。
進むしかない。
フェネクスは小さく息を吸う。
「……行きます。」
そして。
一歩、炎の中へ足を踏み入れた。
「っ……!」
激痛が全身を駆け抜ける。
熱い。
違う。
焼ける。
服が焼け、肌が焼け、骨の奥まで灼かれるような痛み。
思わず膝をつきそうになる。
「くぅっ……!」
フェネクスは杖を強く握り締めた。
「《ヒール》!」
淡い緑色の光が身体を包む。
焼け爛れた皮膚が少しずつ再生していく。
しかし。
次の瞬間には再び炎が身体を焼いた。
「ぁっ……!」
女性は何も言わず、その姿を見守っている。
フェネクスは歯を食いしばった。
「まだ……!」
もう一歩。
炎の中を進む。
再び全身が焼かれる。
「《ヒール》!」
回復。
そしてまた焼かれる。
回復。
焼かれる。
回復。
その繰り返しだった。
進むたびに魔力は削られ。
進むたびに身体は悲鳴を上げる。
それでも歩みを止めず、さらに炎の奥へ進んでいく。
一歩。
また一歩。
霊石までは、まだ遠い。
「はぁ……はぁ……。」
額から汗が滴り落ちる。
息は荒く、足も震えていた。
それでも足を止めない。
止まれば、母を救う道が途絶えてしまう。
「《ヒール》!」
再び回復魔法を発動する。
だが。
緑色の光は先ほどよりも弱々しかった。
「そんな……。」
焼け爛れた腕は完全には治らない。
炎は容赦なく、その傷口を再び焼き続ける。
フェネクスは唇を噛み締めた。
(魔力が……。)
(もう、あまり残ってない。)
それでも前を見る。
霊石は、あと少し先にあった。
「まだ……届く。」
もう一歩踏み出す。
ゴォォォッ!!
炎が一際大きく燃え上がる。
「きゃあぁぁっ!!」
全身を襲う激痛。
足から力が抜け、その場へ膝をついた。
「はぁ……はぁ……。」
肩で大きく息をする。
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
女性は静かに口を開いた。
「ここで引き返しても構いません。」
「命を失えば、お母様を救うこともできなくなります。」
フェネクスは俯いたまま、小さく首を横へ振る。
「帰れ……ません。」
震える声だった。
「ここで帰ったら……。」
「私は、一生後悔します。」
杖を支えに、ゆっくりと立ち上がる。
足は震え。
視界も霞んでいた。
それでも。
フェネクスは前だけを見つめる。
「あと……少し。」
震える手で杖を握り直す。
「《ヒール》……。」
最後の回復魔法。
淡い光が身体を包む。
しかし、その光は一瞬で消えてしまった。
「っ……。」
もう魔力は残っていない。
回復魔法すら使えなかった。
フェネクスは苦しそうに笑う。
「もう……。」
「魔法は使えない、か。」
それでも。
ゆっくりと右足を前へ踏み出した。
焼け爛れた足裏から血が滲む。
炎は容赦なく、その身体を焼き続ける。
それでもフェネクスは、霊石だけを見つめ、一歩ずつ前へ進み続けた。
それでもフェネクスは、霊石だけを見つめ、一歩ずつ前へ進み続けた。
一歩。
また一歩。
もう足の感覚はなかった。
焼け爛れた身体は限界を迎え、意識も霞み始める。
それでも。
霊石だけは、確かに目の前にあった。
「あと……少し……。」
フェネクスは震える右手をゆっくりと伸ばす。
指先が、蒼く輝く霊石へ触れようとした――。




