霊峰アルガス
霊峰アルガスへ続く山道を、一人歩く。
静かな山道に、自分の足音だけが響いていた。
「一人……か。」
小さく呟く。
不思議だった。
今までなら不安でいっぱいだったはずなのに、今は胸の奥にある決意の方が強い。
幼い頃から、母が守ってくれた。
危険なことがあれば、いつも母が前に立ってくれた。
琥珀もそうだった。
転んでは抱き上げられ、無茶をしては叱られ、それでも最後には優しく笑ってくれた。
里の皆も、いつも私を見守ってくれていた。
旅に出てからも同じだった。
ヒルメちゃん。
シロ。
アリアナ。
エリス。
フレイヤ。
アテナ。
皆が何度も私を助けてくれた。
私は、守られてばかりだった。
フェネクスはゆっくりと足を止める。
胸元で拳を握り、小さく笑った。
「でも……もう違う。」
「これからは。」
「今度は私が、皆を守る。」
「母上も。」
「琥珀も。」
「ヒルメちゃんたちも。」
「私が守る。」
そう呟くと、フェネクスは再び霊峰アルガスへ向かって歩き始めた。
その足取りに、もう迷いはなかった。
フェネクスは歩みを止めることなく、霊峰アルガスを登り続けていた。
木々は次第に少なくなり、代わりに巨大な岩肌が姿を現す。
山全体から溢れ出す濃密な霊力。
肌に触れる空気までもが、里とはまるで違っていた。
「これが……霊峰アルガス。」
思わず息を呑む。
この場所には、不思議と恐怖はなかった。
あるのは静寂。
そして、誰かに見守られているような温もりだけだった。
しばらく歩いていると、不意に空気が揺らぐ。
目の前に、淡く光る透明な壁が現れた。
「これが……結界。」
フェネクスはゆっくりと手を伸ばす。
触れた瞬間、結界は水面のように波紋を広げた。
拒まれる気配はない。
むしろ――。
歓迎されている。
「通れる……。」
フェネクスが一歩踏み出した、その瞬間だった。
景色が一変する。
背後の森は霧に包まれ、前方には白い石畳が真っ直ぐ奥へと続いていた。
「これは……。」
一本道。
左右には何もない。
ただ静寂だけが広がっている。
フェネクスはゆっくりと歩き始めた。
一歩。
また一歩。
すると、前方から足音が響く。
コツ……。
コツ……。
誰かが歩いて来る。
フェネクスは思わず身構えた。
霧の向こうから現れたのは、一人の女性だった。
長い銀色の髪。
純白の衣。
その身体は淡い光を纏い、どこか人間離れした神々しさを感じさせる。
女性は静かにフェネクスを見つめる。
「ここへ辿り着いたということは……。」
「現王に認められた者なのでしょう。」
フェネクスはゆっくりと頭を下げた。
「あなたは……。」
女性は穏やかに微笑んだ。
「私は、この霊峰を見守る者。」
「長き時を、この地で王たちを見届けてきました。」
その瞳が真っ直ぐフェネクスを射抜く。
「ですが、この先へ進むことはできません。」
「資格ある者であると証明できなければ。」
フェネクスは女性の言葉に、小さく息を呑んだ。
「資格……ですか。」
女性は静かに頷く。
「ええ。」
「この先に眠る霊石は、強大な霊力を宿しています。」
「故に、誰にでも授けるわけにはいきません。」
「力だけを求める者。」
「欲に溺れる者。」
「そのような者へ渡れば、多くの命が失われます。」
フェネクスは女性を真っ直ぐ見つめ返した。
「私は……。」
女性は片手を静かに上げる。
「言葉だけでは証明になりません。」
「歴代の王も皆、この試練を乗り越えてきました。」
その瞬間だった。
女性の足元から淡い光が広がる。
石畳全体が白く輝き始めた。
ゴゴゴゴ……
地面が静かに震える。
フェネクスは思わず身構えた。
「これは……!」
前方の石畳がゆっくりと崩れ始める。
現れたのは、巨大な闘技場のような円形の広場だった。
中央には一本の大樹。
その周囲を囲むように、無数の石像が並んでいる。
「ここは……。」
「歴代の王が試練を受けた場所。」
女性は静かに告げる。
「あなたにも、同じ試練を受けてもらいます。」
フェネクスはゆっくりと頷いた。
「分かりました。」
「何をすればいいんですか?」
女性は大樹へ視線を向ける。
「その前に、一つだけ尋ねます。」
「あなたは、何のために霊石を求めますか。」
フェネクスは迷うことなく答えた。
「母上を助けるためです。」
女性は首を横へ振る。
「それだけですか。」
フェネクスは言葉を失う。
母を助けたい。
その気持ちに嘘はない。
だが――。
胸の奥から、別の想いが込み上げてくる。
フェネクスは静かに拳を握り締めた。
「私は……。」
「ずっと誰かに守られてきました。」
一度、大きく息を吸う。
「だから今度は。」
「私が守る側になりたい。」
「母上だけじゃない。」
「大切な仲間も。」
「里のみんなも。」
「誰も失いたくありません。」
女性は静かに目を閉じる。
やがて、小さく微笑んだ。
「……良い答えです。」
「ですが。」
「その想いが本物かどうか。」
「これから、その身で証明してください。」
その瞬間――。
ガガガガガッ!!
広場を囲んでいた石像の一体が、ゆっくりと動き始めた。
石の身体が軋みを上げる。
赤く輝く両目が、フェネクスを捉えた。
女性は静かに後ろへ下がる。
「第一の試練。」
「――始めましょう。」
石像はゆっくりと右腕を持ち上げた。
ギギギ……。
重々しい音が広場へ響く。
フェネクスは静かに構えを取る。
(落ち着いて……。)
(焦っちゃ駄目。)
相手は石像。
まずは様子を見る。
その瞬間だった。
ドンッ!!
石像が地面を踏み砕き、一気に距離を詰めてきた。
「速っ――!」
予想を遥かに超える速度。
フェネクスは咄嗟に横へ飛ぶ。
直後。
ドォンッ!!
拳が地面へ叩きつけられ、石畳が砕け散った。
「こんなの直撃したら……。」
冷や汗が流れる。
石像は間髪入れずに振り返る。
次の拳が迫る。
フェネクスは杖を構えた。
「《ウィンド・ステップ》!」
足元へ風が集まり、身体がふわりと浮く。
拳を紙一重でかわし、そのまま石像の背後へ回り込んだ。
「今!」
杖を前へ突き出す。
「《エアロ・ランス》!」
鋭い風の槍が石像の背中へ突き刺さる。
ガギィン!!
しかし。
石像の身体には、傷一つ付かなかった。
「そんな……!」
石像はゆっくりと振り返る。
その赤い瞳が、フェネクスを見据えた。
(やっぱり……。)
(私の攻撃じゃ足りない。)
石像が再び踏み込む。
ドォン!!
地面が揺れる。
フェネクスは風魔法で距離を取る。
攻撃。
回避。
攻撃。
回避。
何度魔法を放っても、石像は止まらない。
「はぁ……はぁ……。」
息が上がる。
(駄目……。)
(攻撃魔法じゃ勝てない。)
その時、不意に琥珀の言葉が頭を過った。
『フェネクス様は、どちらかと言えば補助魔法を得意とされています。』
フェネクスは苦笑した。
「そうだった。」
石像が拳を振り上げる。
フェネクスは静かに息を吐いた。
「……そうだ。」
「私は攻撃魔法が得意じゃない。」
「だったら。」
「私の得意な戦い方をすればいい。」
杖を胸の前へ掲げる。
「《ストレングス》」
淡い金色の光が身体を包み込む。
全身へ力が満ちていく。
「《アクセル》」
風が足元へ集まり、身体が羽のように軽くなる。
「《プロテクション》」
白い光が身体を優しく覆い、防御力を高めていく。
フェネクスは杖を握り直した。
「これが……私の戦い方。」
石像が大地を踏み砕き、一気に距離を詰める。
ドォン!!
巨大な拳が振り下ろされた。
フェネクスは強化された身体能力で横へ飛ぶ。
拳は石畳を砕き、激しい土煙を巻き上げた。
「《ウィンド・ランス》!」
鋭い風の槍が石像へ突き刺さる。
しかし。
ガギィン!!
石像は僅かに揺れただけだった。
「やっぱり……。」
「風じゃ通らない。」
石像は再び突進してくる。
フェネクスは冷静に距離を取りながら考えた。
(風じゃ表面を削るだけ。)
(でも土なら、石と石をぶつける衝撃になる。)
フェネクスは杖を構え直す。
「《ロック・バレット》!」
拳ほどの岩塊が石像の胸へ直撃する。
ドゴッ!
石像は僅かによろめく。
しかし傷は付かない。
「もう一度!」
「《ロック・バレット》!」
同じ場所へ。
もう一発。
ドゴンッ!!
さらにもう一発。
「《ロック・バレット》!」
ドンッ!!
ドンッ!!
ドンッ!!
何度も。
何度も。
同じ場所だけを狙い続ける。
石像は拳を振るい続けるが、フェネクスは速度強化で紙一重にかわしていく。
「はぁ……!」
「はぁ……!」
魔力も体力も少しずつ削られていく。
それでも狙いは変えない。
そして――。
ピシッ。
小さな音が響いた。
石像の胸に、一筋の亀裂が走る。
フェネクスは小さく笑った。
「やっぱり。」
「どんなに硬くても……。」
「同じ場所を攻撃され続ければ壊れる。」
石像が怒り狂ったように咆哮し、最後の突進を仕掛けてくる。
フェネクスはその場から動かない。
ゆっくりと杖を前へ突き出した。
「これが……。」
杖へ膨大な魔力が集まっていく。
赤い炎が渦を巻き、周囲の空気を震わせた。
「私の全力です!!」
「《フレイム・バースト》!!」
轟音と共に巨大な火炎が放たれる。
一直線に石像の胸――亀裂だけを狙って突き進む。
ドォォォォォォン!!
炎が炸裂した。
亀裂は一気に全身へ広がる。
ピシッ……
ピシピシピシッ!!
石像の全身に無数の亀裂が走った。
やがて――。
ガラガラガラ……
巨体は音を立てて崩れ落ちる。
フェネクスはその場へ膝をつき、大きく息を吐いた。
「勝て……た。」
崩れ落ちた石像は、淡い粒子となって空へ溶けていった。
広場を包んでいた緊張が、少しずつ静まっていく。
「見事でした。」
フェネクスは肩で息をしながら立ち上がる。
「ありがとう……ございます。」
女性は静かに首を横へ振る。
「まだ終わってはいません。」
フェネクスは表情を引き締めた。
「……やっぱり。」
「ええ。」
「これは第一の試練。」
「霊石へ辿り着くには、あと二つの試練が残されています。」
その言葉と同時に、崩れ落ちた石像が淡い光となって消えていく。
広場に静寂が戻った。
ゴゴゴゴ……
すると、大樹の奥から重い音が響く。
地面がゆっくりと揺れ始めた。
「これは……。」
フェネクスが振り返る。
大樹の幹が左右へ割れ、その奥に新たな道が姿を現した。
女性はその道へ目を向ける。
「先へ進みなさい。」
「第二の試練が、あなたを待っています。」
フェネクスは一度だけ深呼吸をした。
「……はい。」
その時、不意に女性が口を開く。
「一つだけ忠告を。」
フェネクスは足を止める。
「第二の試練では。」
「剣も。」
「魔法も。」
「力も。」
「ほとんど意味を持ちません。」
「え……?」
フェネクスは思わず聞き返した。
女性は意味深な笑みを浮かべるだけだった。
「行けば分かります。」
それ以上は何も語らない。
フェネクスは女性を見つめ、小さく頷いた。
「分かりました。」
そして、新たに開かれた道へ足を踏み入れる。
その瞬間。
背後で大樹がゆっくりと閉じ始めた。
ゴゴゴゴ……
振り返っても、もう女性の姿は見えない。
フェネクスは静かに拳を握る。
「母上……。」
「待っていてください。」
「必ず……。」
そこまで言いかけて、小さく首を横へ振った。
「もう少しだけ、待っていてください。」
「私が、霊石を持って帰ります。」
フェネクスはゆっくりと前を向く。
そして、一歩。
新たな試練が待つ道へ、静かに歩き始めた。




