02:日常
まだ日が昇りきらない早朝から、その街は動き始めていた。
都市ガルドラボーク。戦後の混沌を抱え込んだまま膨張を続ける、王国外縁の都市である。
乾いた木材のぶつかる音が、冷えの残る朝の空気に響いていた。石を打つ鈍い衝撃音、縄の軋み、怒鳴り声。それらが重なり合い、工事区全体を絶え間なく満たしている。
街の外縁に広がるその一帯では、すでに一日の仕事が始まっていた。
工事現場の環境は、安全とは程遠い。怪我人が出ずに一日が終わるほうが珍しい。それでも、誰も気にしない。気にしたところで仕事が軽くなるわけでもなければ、危険が消えるわけでもない。
代わりはいくらでもいる。その事実だけが、全員の中で共有されていた。
「おい、しっかり持て! 崩れるぞ!」
怒号が飛ぶ。
返事は返るが、どれも曖昧だった。まともに声を張る余裕が残っていない。疲労は昨日から続いている。今日の賃金を受け取るまでは倒れられない――ただそれだけで、全員の体は動いていた。
その中に、一人だけ異質な動きをする男がいた。
本来なら二人がかりで運ぶ石材を、一人で担ぎ上げる。足場の悪い場所でも体勢は崩れず、重心もぶれない。踏み出す足音すらほとんど響かなかった。
石を置く時でさえ、衝撃を殺すようにして静かに下ろす。その音は周囲の雑音に紛れ、ほとんど耳に残らない。
だが、それを見ても、特別な視線を向ける者はいなかった。
見慣れているからだ。
「おい、それ一人でやるなって言ってるだろ」
近くの男が声をかける。注意というより、ただのやり取りに近い。本気で止める気があるわけではない。
声をかけられた男――グリムは答えなかった。
聞こえていないわけではない。ただ、返事を返す必要を感じていないようだった。視線も向けないまま、次の石材へ手をかける。
赤いクロークが、朝の薄い光を受けて鈍く色を帯びる。
布はぼろぼろだった。端は擦り切れ、色もところどころ抜けている。それでも、その赤だけはこの場所では妙に目立っていた。深くかぶったフードのせいで表情は見えない。
本来なら、この工事区には似つかわしくない格好だった。だが、誰も気に留めない。他人の事情にまで意識を割く余裕が、この場所にはない。
グリムは石材を担ぎ、段差を一つ越える。足場がわずかに揺れるが、その不安定さに引かれることはない。重さに押される様子もなく、まるで平地でも歩くかのように進んでいく。
淡々と、機械のように石材を運び続ける。仕事が終わるまで、疲労も見せずに働き続ける。
それが、グリムの日常だった。
◇
「そこまでだ!」
日が落ちきる前、一段高い足場の上から声が響いた。
その一声で、工事区の動きが一斉に途切れる。石材を抱えたまま止まる者。腰を落とした姿勢のまま動けなくなる者。地面に手をつき、荒く息を吐く者。
グリムも手を止める。担いでいた石材を所定の場所へ置く。音は小さく、周囲のざわめきに埋もれた。
そのまま、賃金の受け取り場所へ向かう。
工事区の端には、粗末な机と木箱が置かれていた。帳面を広げた男が腰を下ろし、その横には小銭の入った袋が積まれている。すでに数人が列を作っていた。
「次」
短く呼ばれる。名前ではない。顔と働きぶりだけで判断されている。前の男が銅貨を受け取り、不満げに舌打ちした。
「こんだけかよ」
「嫌なら来るな」
それだけで終わる。言い争いを続ける価値がないことを、互いによく理解していた。
列が一つ進き、グリムの番になる。帳面の男が顔を上げ、わずかに目を細めた。
「ああ、お前か」
男は袋から銅貨を多めに取り出し、数も確かめずに差し出す。
「悪くない働きだった。少し追加しておく」
賞賛ではない。ただ事実を確認するような口調だった。
グリムは何も言わず、それを受け取る。
枚数も確かめず、そのまま布袋へ入れた。
「……明日も同じ時間に来い。まだまだ仕事は残ってる」
返事はない。すでにグリムの体は次の動きへ移っていた。列を外れ、そのまま工事区を後にする。
その背中を見送りながら、列の男たちが小声で話していた。
「あの赤い人、相変わらずすごい働きですね。獣人でもないのにあんな重いもの運べる人なんて、初めて見ましたよ」
「退役した軍人か何かじゃねえか?」
遠ざかる赤いクロークを眺めながら、別の男が言う。
「顔を隠してるのも、傷でもあるからですかね」
「気になるなら聞いてみりゃいい。今から追いかけてフード剥いでこいよ」
肩をすくめながら、冗談めかして笑う。
「嫌ですよ。あの人、怒らせたくないですし。それに、会話が弾む気もしません」
実際、グリムは必要最低限のことしか話さない。その無口さと風貌が合わさり、近寄りがたい雰囲気を作っていた。
「ほんと無口だよな。いつも一人で運ぶなって言ってんのに、全部無視だ」
列がまた進む。
「次」
呼ばれた男が前へ出ながら、ぼそりと続けた。
「……まあ、下手に踏み込まないほうがいい。触れられたくないことなんて、誰にでもある」
◇
工事区を離れるにつれ、街の音がゆっくりと変わっていく。石と木がぶつかる鈍い衝撃音は遠のき、代わりに人の声が重なり始めた。
呼び込みの張り上げた声。
値段を叩くやり取り。
短い笑い声と舌打ち。
それらが混ざり合い、一つの流れとなって街路に広がっている。布を張っただけの屋台。地面へ直接並べられた商品。積み上げられた箱や樽。その間を、人々が肩をぶつけ合うように行き交っていた。
焼いた肉の脂が弾ける香ばしい匂いに、刻まれた香草の青い香りが重なる。その下には、湿った木箱や濁った水、長く放置された野菜の酸い臭いも混ざっていた。空腹を刺激する匂いと、長居を拒む臭気が、同じ場所に淀んでいる。
小さな屋台の前で、グリムの足が止まった。
木箱の上には、形も焼き色も揃っていないパンが並べられている。端が焦げたもの。中央だけ膨らんだもの。ひび割れたもの。
「やあ、お客さん。不揃いのやつなら安くしとく。三つで銅貨二枚だ」
店主が声をかける。誰に対しても同じ調子の、慣れた売り声だった。
グリムは何も言わず、銅貨を置く。差し出されたパンを受け取り、そのまま布袋へ入れた。
「こっちの焼きたてもどうだい?」
返事はない。グリムはすでに体を通りへ向けていた。
数歩進んだところで、視界の端に別の光景が映る。荷車の横に、数人の異種族が並ばされていた。
首には金属の輪。短い鎖が杭へ繋がれ、動ける範囲を制限している。
通り過ぎる人間の反応は様々だった。ちらりと見る者。最初から存在しないかのように視線を逸らす者。
この国では、人間以外の種族に人権は存在しない。
特に身体能力に優れた獣人は、労働力として価値が高かった。奴隷の獣人が荷物を運ばされている光景は、決して珍しくない。
もっとも、奴隷そのものは高価な商品だった。購入費に加え、維持費もかかる。一般人が気軽に手を出せるものではない。
だからこそ、商人や貴族が労働力、あるいは娯楽として所有することがほとんどだった。
通りの中央を、子供が駆け抜けていく。後ろから名前を呼ぶ声が飛び、短い笑い声が続く。
そのすぐ脇では別の場所で口論が起きていた。怒声が上がり、すぐに周囲のざわめきへ飲み込まれていく。
通りの端へ差しかかる頃には、人の流れも少しずつ薄くなっていた。呼び込みの声は背後へ遠ざかり、代わりに生活の音が近づいてくる。
扉の開閉。
器の触れ合う軽い音。
短く交わされる会話。
グリムは足を止めない。
そのまま、居住区の方へ歩いていった。




