03:人間
夜の冷気が、肺の奥まで刺さった。
馬車から逃げ出してから、どれだけ走ったのか分からない。ただ、止まれば終わるという感覚だけが、メルの足を前へ押し出していた。
やがて、息が限界に近づく。胸の奥が焼けるように熱くなり、視界の端が揺れた。そこでようやく、足が止まる。
振り返った。そこには、闇があるだけだった。追ってくる気配はない。足音も、怒号も、馬の気配も届かない。
メルは肩で息をしながら、その場にしゃがみ込んだ。荒くなった呼吸は、しばらく収まらない。心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど鳴り続けている。
生きている。まだ、捕まっていない。それだけで、わずかに体から力が抜けた。
地面に手をつく。乾いた土と、小石の感触が指先に伝わる。さっきまでまとわりついていた湿った木の匂いも、血の臭いも、もうここにはない。
代わりに、別の匂いがあった。
煙。焼けた油。何かを煮込んでいるような、重たい匂い。
そして、人の匂い。多くの人間が、同じ場所に集まっている匂いだった。
追ってくるものはいない。今は、誰にも見られていない。ゆっくりと息を吸う。少しだけ、呼吸が整った。体の震えも、わずかに収まっていく。
メルは、匂いの方へ歩き出した。逃げ切ったという実感はない。それでも、さっきまで背中に張りついていた切迫感は、少しだけ薄れていた。
まだ、大丈夫だ。そう思えた。
匂いは濃くなっていく。焼けた油と、肉の脂。どれも鼻につく匂いだったが、不快ではなかった。むしろ、腹の奥が強く引かれる。その中に、湿った布や排水の臭いも混じっていた。
音も、次第にはっきりしてくる。人の声。笑い声。金属がぶつかる乾いた音。
やがて、通りに出た。
石が敷かれた道の両脇に、木の台や布を張っただけの簡単な店が並んでいる。吊るされた灯りが風に揺れ、そのたびに人影も揺れた。
人間たちはその間を行き交い、立ち止まり、何かを選び、また歩き出していく。
メルは、足を止めた。
人間が多い。それだけで、体が動かなくなる。
視線だけが動いた。人間ばかりだった。背の高さも、歩き方も、声の出し方も、何もかもが見慣れない。
自分を見る者はいない。自分を捕まえようとする者もいない。
だが、安心できるわけではなかった。
腹が鳴る。小さく、けれどはっきりと。
メルは通りの端を選び、壁際をなぞるように歩き出した。人の流れにぶつからないように、できるだけ目立たないように。
店先に、丸いパンが積まれていた。表面は香ばしく焼け、ひび割れた隙間から柔らかそうな中身が見えている。匂いが強かった。
足が止まる。パンに手を伸ばしかけて、止めた。
「……」
店の奥にいた男が、顔を上げる。一瞬だけ視線が合った。すぐに逸らされた。だが、男の目の色がわずかに変わったのが分かった。
メルがもう一歩、踏み込む。男の手が動いた。パンに触れるより先に、その手が横から伸びてくる。
軽く払われた。
強くはない。けれど、はっきりとした拒絶だった。
「触るな」
短い声。怒鳴り声ではなかった。ただ、そこで線を引いたような言い方だった。メルは手を引く。
男はもうこちらを見ていない。何事もなかったように、別の客へ向き直る。売り声が戻り、笑い声も混じる。通りは、さっきと同じように動き続けていた。
「おい、そこの獣人」
声が聞こえた瞬間、メルの体がびくりと跳ねた。背中に冷たいものが走る。心臓が強く打ち、耳の奥で響いた。ゆっくりと振り向く。
袋を抱えた男が立っていた。片側の口元だけが持ち上がっている。目は笑っていない。揺れる灯りの影が、男の顔にかかっていた。
「腹、減ってるんだろ」
先ほどの様子を見ていたのだろう。軽い口調で話しかけてくる。
「分けてやってもいいぜ」
メルは、すぐには言葉を返せなかった。
さっきのパンの匂いが、まだ鼻の奥に残っている。喉がひりつく。唾を飲み込む音が、自分でも分かるほど大きく感じられた。
「……本当か?」
声が、少しかすれる。
男は肩を揺らして笑った。
「ああ。ただし――」
顎で後ろを示す。積まれた木箱と布袋があった。布は擦り切れ、角は硬く締められている。中身の重さで、形が歪んでいるものもあった。
「それ、運んでからだ」
メルの視線がそちらへ向く。数は多い。だが、持てない量ではなかった。
「獣人なんだから、力仕事は得意だろ?」
男の声が、少しだけ低くなる。
「落とさずに、店まで運べるか?」
メルは黙った。周囲の音が遠くなる。意識が、目の前の荷物と、男の手の中にある食べ物だけに絞られていく。
「……どこに運べばいい?」
短く答えた。
一番上の布袋に手をかける。布の表面はざらつき、指先に細かな繊維が引っかかった。持ち上げる。ずしりと重みがかかる。十分に持ち上げて、運べる重さであった。
「こっちだ」
男が歩き出す。メルは、その背を追った。
往復が続いた。
布袋を持ち上げる。運ぶ。下ろす。また戻る。
最後の箱を運び終えたとき、腕がわずかに震えた。
肩が落ちる。息が抜ける。
「……終わった」
「約束だ。食い物をくれ」
男の方を見る。男は店の中で何かをいじっていたが、やがてゆっくりとこちらへ出てきた。
「ああ、確認しようか」
靴の先で木箱を軽く押す。きしむ音が鳴った。男は指先で角をなぞる。
「……あー」
わざとらしく声を出した。指が止まる。
「ここ、傷ついてるな」
メルの視線がそこへ向いた。角の一部が、ほんの少し削れている。運ぶ前からあったのか、途中でついたのか、分からない程度の傷だった。
「どっかで落としたんじゃねえか?」
男が振り返る。口元は、変わらず笑っていた。
「これじゃあなあ。食い物はやれねえな」
音が、一瞬だけ消えた気がした。意味が、遅れて届く。
「落としてない!」
空腹の影響か、思ったよりも大きな声が反射的に出ていた。
「落としてなんか、ない」
周囲の空気が、わずかに変わった。メルの声に反応したのか、近くにいた人間がちらりとこちらを見る。すぐに視線を外したが、その動きは確かにあった。
メルの足が一歩前に出た。石を踏む音が、やけに大きく響く。
「……最初から」
言葉が途切れる。
喉が詰まる。
だが、止まらない。
「だますつもりだったのか」
男は舌打ちした。顔に、はっきりとした面倒くささが浮かぶ。
少しだけ周囲を見回す。視線が集まり始めているのを確認してから、近くにあったりんごを一つ掴み、無造作に放り投げた。
「ちっ……それやるから、失せろ」
メルはそれを受け止める。軽かった。さっきまでの重さがまだ腕に残っているせいで、余計に軽く感じた。しばらく、その場に立ち尽くす。
男はもうこちらを見ていない。別の客に声をかけ、何事もなかったように動いている。通りは、さっきと同じ光景に戻っていた。
メルはりんごを見下ろす。まだ青さが残り、小ぶりであった。指に少しだけ力が入った。皮がわずかに沈む。
背を向ける。通りの端へ戻る。人の流れに触れない位置で、果実を口に運んだ。
歯を立てる、甘さが広がる。
メルは歩き出す。さっきまでの、助かったかもしれないという感覚はもうない。代わりに、別の理解だけが残っていた。
従えば、何かはもらえる。
だが、それだけだ。それ以上は何も残らない。それ以上のものは、最初から用意されていない。




