29:因縁
夜の森は、不気味なほど静かだった。
湿った土を踏みしめながら、グリムは木々の間を進む。頭上では枝葉が絡み合い、月明かりをほとんど遮っていた。腰に付けたランタンだけが辺りを照らす。吹き抜ける風が葉を揺らし、ざわざわと耳障りな音を立てる。
冒険者ギルドから受けた依頼は、“森に現れた大型の魔物の討伐”。夜にその魔物の目撃情報が多いらしい。魔物の詳細は分かっていないが、被害報告だけは多い。
グリムは周囲を見渡す。森に入ってからかなり歩いている。にもかかわらず、魔物と遭遇しない。小型の獣すら姿を見せなかった。
普通ではない。大型の魔物が縄張りを作れば、周囲の生態系はもっと露骨に変化する。獣や弱い魔物は逃げ惑い、森全体に緊張感が広がるものだ。だが、この森は妙に静かだった。
「……面倒な依頼を引いたか」
ぼそりと吐き捨てる。その時だった。こちらへ一つの足音が向かってくる。グリムはそちらへ目を向ける。
仮面をつけた男がこちらへ歩いてきていた。白い仮面が、月明かりを受けてぼんやり浮かんでいる。年齢も表情も分からない。グリムは無言で剣の柄へ手をかける。
「誰だ」
男は数歩手前で立ち止まると、敵意がないことを示すようにゆっくり両手を上げた。
「安心してください。あなたと敵対するつもりはありません」
落ち着いた声だった。仮面の男は軽く一礼する。
「私は帝国レジスタンスの者です」
「レジスタンスだと?」
「ええ」
男は静かに頷いた。
「本日は、あなたを勧誘しに参りました」
グリムの眉がわずかに動く。
「あなたの過去は知っています、グリムさん」
仮面の奥から声が響く。
「共に王国を打倒しませんか?」
グリムは男を睨んだまま、口を開く。
「……帝国レジスタンスなんてもの、聞いたことがないな」
「表立って活動しておりませんから」
男は淡々と答えた。
「急いては事を仕損じる。今はまだ、力を蓄える段階なのですよ」
「……俺を勧誘するのは、過去を知っているからか?」
グリムの声には警戒が滲んでいた。男は小さく肩をすくめる。
「それもありますが……実を言うと、あなたがこの都市にいることは偶然知ったのです」
「……」
グリムは黙ったまま男の話を聞く。
「最近、我々の拠点近くまで来た冒険者を追い払うため、トロールをけしかけましてね」
そこで、男はわずかに笑った気配を見せた。
「あなたが、それを一撃で倒すところを見ていたのですよ」
「はあ……」
グリムは深く息を吐いた。
「つまり、この依頼そのものが俺を呼び出すための嘘だったわけか」
「そういうことです」
仮面の男はあっさり認めた。
「ご足労をおかけしたことについては謝罪します。しかし、誰かに聞かれるわけにはいかなかったもので」
「……まあ、そうだろうな」
「それで、どうでしょう」
仮面の男が一歩だけ距離を詰める。
「我々と共に来ていただけませんか?」
「断る」
即答だった。男は少しだけ肩をすくめる。
「我々はあなたを奴隷扱いなどしませんよ。あなたほどの実力者なら、相応の立場を用意できます」
「そういう問題じゃない」
グリムは冷めた声で返した。
「帝国は負けたんだ。今さら戦ったところで、結果は変わらない」
「違います」
仮面の男の声色が変わる。先ほどまでの穏やかさが消え、熱が滲んでいた。
「帝国は内部から瓦解したのです」
男は拳を握り締める。
「あのまま戦争を継続していれば、勝っていたのは我々でした」
「どうだかな」
グリムは鼻で笑う。その反応に、男の声へさらに力が入った。
「帝国は王国のように、種族だけで人を値踏みする国ではありませんでした。技術も魔法も人材も帝国のほうが優れていたのです!」
「その分、問題も多く抱えていた」
「……っ!」
仮面の男の声が詰まる。感情的になりかけたのを押し殺すように、拳を強く握り締めていた。
グリムはそんな男を見ながら、ゆっくりと剣の柄から手を離す。その仕草を見て、男もわずかに冷静さを取り戻したようだった。
「……あなたは、獣人と共に冒険者活動をしていましたよね」
探るような口調だった。
「我々と同じ思想を持っていると思っていたのですが。違ったのですか?」
グリムはすぐには答えなかった。脳裏へ浮かんだのは、鋭い目つきの獣人の少女。
「……今、隣にいないのが答えだ」
感情の読めない声だった。
森の空気が張り詰める。仮面の男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……あなたは王国側につくのですね。残念です」
「勘違いするな。お前らが王国と戦うなら、好きにすればいい。俺は止めない」
ランタンの火が揺れる。
「ただ、その戦いに俺は加わらない。それだけだ」
「そうですか」
仮面の男は静かに頷いた。先ほどまでの熱は消えている。
「なら、もう構いません。冒険者ギルドには適当に報告してください」
「……俺を殺さないのか?」
グリムは淡々と尋ねた。レジスタンスとしては、自分は存在を知られた部外者だ。口封じをされてもおかしくはない。
男は小さく肩をすくめた。
「あなたの強さは知っています。勝てない相手に喧嘩を売るほど、我々も愚かではありませんよ」
そう言い残し、男は背を向けた。黒い外套が森の闇へ溶けていく。グリムはその背中を黙って見送った。
冒険者ギルドへどう報告したものか。そんなことを考え始めた、その時だった。
ずしん。
地面が小さく揺れる。続けて、重い足音。木々の奥から、何か巨大なものが近づいてきていた。
「……嘘つきめ」
◇
仮面の男は、森の奥に築かれた拠点へ戻ってきていた。
洞窟を利用した簡素な拠点だった。壁際には粗末な寝床と木箱。中央には地図の広げられた机。その奥では、赤黒い光を放つ巨大な魔法陣が淡く脈動している。
部屋へ入った瞬間、待機していた男が立ち上がった。
「どうでしたか?あの男は首を縦に振りましたか?」
「いえ、断られました」
「……そうですか」
男は落胆したように視線を落とした。
「獣人とパーティを組んでいたようでしたので、同志になってくれるかと思ったのですが……違いましたか」
「あてが外れましたね」
仮面の男は淡々と言う。
「それよりも、早急に始末する必要があります」
部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「足止め用の魔物は召喚してきましたが、長くはもちません。あの男が街へ戻れば厄介なことになります」
仮面越しの視線が、部屋の奥に描かれた魔法陣へ向く。
「あの魔法陣は、すぐ使えますか?」
床に刻まれた複雑な紋様。有事の際に使用するため、拠点の中に準備していたものだ。
問いかけられた男は、わずかに顔をこわばらせる。
「あの魔法陣を使うのですか?」
「問題がありますか?」
「いえ……たしかに、あの男を確実に始末するなら、あれを使うしかないとは思いますが……」
言葉を濁す。仮面の男は静かに続けた。
「もともと、勧誘を断られた場合は始末する予定でした」
その声には迷いがない。
「そのために、あの角人を攫ったのですから」
「ええ、それは理解しています」
男は苦い顔で頷く。
「しかし、魔法陣の起動には、あの角人の協力が必要です。ですが未だ協力的な姿勢を見せていません」
小さく息を吐く。
「脅しても、多少の拷問をしても……頑なに拒否しています」
帝国は、異種族との共存を理念として掲げていた。だが理想を成し遂げるためには、犠牲も必要になる。あの角人は尊い犠牲なのだ。
「時間がありません」
仮面の男の声が低くなる。
「街へ戻られれば、始末するのは難しくなります。ここで確実に殺すべきです」
「それは分かります。ですが、角人の協力が得られなければ——」
「あなた方の命を削りなさい」
空気が止まった。
「……は?」
男が間の抜けた声を漏らす。仮面の男は冷たく続けた。
「寿命を使え、と言ったのです」
赤黒い魔法陣を見下ろしながら、淡々と告げる。
「角人の協力を得るのが難しいのであれば、あなたたちが代わりを果たせばいい」
仮面がゆっくり振り返る。
「魔術師が五人もいれば足りるでしょう」
「ま、待ってください!」
男の顔色が変わった。
「あの男一人を始末するために、それほどの戦力を使い潰すのですか!?もう少し慎重に——」
「あなたは帝国の復活を望んでいないのですか?」
仮面の男が言葉を遮る。男が息を呑んだ。
「あの男から情報が漏れれば、全てが水の泡になるかもしれないのですよ?」
「し、しかし……」
「やりなさい」
有無を言わせぬ声だった。男は仮面を外す。露わになった顔は無表情だが、目には狂気を宿していた。
「これは命令です」




