28:価値
メルとグレーテは屋敷へと戻っていた。
玄関をくぐった瞬間、メルは真っ先にクロークのフードを外した。
「っはぁ……」
獣耳が解放される。
耳を隠すのは、やはり落ち着かなかった。音も少し籠るし、熱もこもる。人間から視線を向けられないためには必要だと分かっていても、好きにはなれない。
「お疲れ様です、メルちゃん」
「グレーテこそな」
二人は厨房へ向かい、買ってきた食材を机へ並べていく。肉。野菜。香草。少し奮発して買った甘味。グレーテが手際よく種類ごとに分けていく横で、メルも袋から荷物を取り出していた。
その時、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてくる。ばたばたと、明らかに急いでいる音。乱暴に扉が開かれると、メルは顔をしかめた。
「おい、フォルク。廊下を走るなよ」
いつもグレーテに言われていることを、そのまま言い返す。現れたフォルクは、息を切らしながら立ち止まった。
「ご、ごめん……!」
耳を伏せ、不安そうに周囲を見回している。
「どうかしましたか?」
グレーテが手を止めて尋ねた。フォルクは少し迷うようにしてから口を開く。
「ロッテを見なかったか?」
「ロッテ?」
メルとグレーテが顔を見合わせる。
「見てませんよ。私たちは買い物に出ていたので」
「屋敷のどっかにいるんじゃねえのか?」
メルは適当に答える。
「それか、また散歩してるとか」
あの角人は妙に老人くさいところがある。ふらふら外を歩き回ったり、庭で日向ぼっこをしたり。本を読んで茶を飲んでいる姿など、完全に隠居した年寄りだった。
その答えを聞いても、フォルクの表情は晴れなかった。
「散歩に行くとは言ってたんだ。でも……まだ帰ってきてなくて」
「いつもは帰ってきてるのか?」
「うん。いつもなら、日が暮れる前には戻ってくるのに……」
窓の外を見る。空はすでに赤く染まり始めていた。
「フォルクは心配性だな。待ってればそのうち帰って——」
そこまで言って、言葉が止まる。脳裏に、ロッテとの会話がよぎった。
回復魔法。角人。高すぎる利用価値。欲しがる人間はいくらでもいる。
「……」
嫌な感じがした。メルが黙り込む横で、グレーテの表情も少し真剣になる。
「それは、少し心配ですね」
そう呟くと、グレーテは静かに右目へ手を当てた。
「起動」
小さく呟く。空気がわずかに震えた気がした。グレーテはそのまま動かない。閉じられた右目を覆ったまま、何かを探るようにじっと立ち尽くしている。
「……何してんだ?」
メルが怪訝そうに眉をひそめる。
「<ロケート・クリーチャー>です」
グレーテは目を閉じたまま答えた。
「一度見た相手なら、正確な位置を把握できる魔法です」
「魔法ってそんなことまでできるのか」
「便利ですよ。かなり高位の魔法ですからね」
フォルクが不安そうに身を乗り出す。
「ど、どこにいるか分かったか?」
数秒の沈黙。
やがて、グレーテがゆっくり目を開いた。その表情には、はっきり困惑が浮かんでいた。
「この都市の北東にある森の中にいます」
◇
「……なるほど。ロッテがそんな場所にいるのか」
フェルディナントが静かに口を開いた。
普段は食事を取るための部屋には、重苦しい空気が流れている。長机の上には夕食が並んでいたが、誰も手を付けてはいなかった。
「はい。なぜ森にいるのかまでは分かっていませんが……」
グレーテが答える。ロッテを心配しているためか、少し顔色が悪い。
フェルディナントは腕を組み、しばらく黙って考え込んでいた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「……リベルタよ。地下室を見張っていてくれ。誰も近づけるな」
リベルタが片眉を上げた。
「別に構わんが……あの角人はどうする?」
低い声で続ける。
「てっきり、わしが様子を見に行くものだと思っておったぞ」
「おそらく、ロッテは何者かに攫われた。一人でそう遠くに行くとは考え難い」
その言葉に、部屋の空気が冷えた気がした。
「そうじゃろうな」
リベルタは小さく鼻を鳴らした。
「……地下室に何があるのかは知らんが、その角人より優先するほど大事なものなのか?」
「大事だ」
フェルディナントは即答した。
「奴隷解放の切り札にもなり得る。“金の卵”とでも呼ぶべきものが、あそこにはある」
メルは眉をひそめる。金の卵の意味は分からない。だが、ただならないものだということだけは伝わってきた。
「もしロッテを攫った者の狙いがそれなら、こちらの戦力を軽々しく動かすわけにはいかない」
リベルタが腕を組んだまま頷く。
「なるほどのお。本命を奪うための陽動、というわけか」
「その可能性が高い」
短い沈黙が落ちる。その空気を破るように、グレーテがおずおずと口を開いた。
「……あの、フェルディナント様」
「どうした、マルガレーテ」
「ロッテ様を……助けには行かないのですか?」
グレーテは不安そうに指先を握りしめている。
「リベルタ様を動かせないのであれば、せめて衛兵や騎士団へ話を通すべきでは……」
フェルディナントは静かに首を横へ振った。
「マルガレーテ。お前の気持ちは分かる」
その声は穏やかだった。だが、同時に冷静でもあった。
「しかし、奴隷が一人攫われた程度で、衛兵や騎士団が本格的に動くとは思えん」
「そんな……」
グレーテの顔が曇る。この国では、異種族の奴隷などその程度の扱いなのだ。
「冒険者に依頼を出すのは……どうでしょうか」
今度はフォルクが恐る恐る口を開く。
「ギルドなら、人探しの依頼も受けてくれるかもしれない……です」
「ふむ……」
フェルディナントは目を伏せる。
「確かに可能性はある。だが、それも時間がかかるな。ギルド側で依頼内容の確認や精査が入る」
小さく息を吐いた。
「あまり期待はできん」
再び沈黙が落ちた。
「では、わしは地下室へ向かうとするかの」
リベルタが椅子から立ち上がる。
「頼んだ」
フェルディナントは頷いた。
「それと、鍵のかかった部屋には入るな。リベルタであってもだ」
「ほいほい。信用がないのう」
ぼやきながら、リベルタが部屋を出ていく。重い扉が閉まった。その音が妙に大きく響く。
そして——。
「じゃあ、あたしがロッテを助けに行く」
メルが口を開いた。その瞬間、部屋の視線が一斉に集まる。
「メル殿……?」
フォルクが目を見開いた。メルは構わず続ける。
「なんで皆、人に任せようとしてるんだ?」
本気で理解できない、と言いたげな顔だった。
「そんなに大事なら、自分で助けに行けばいいだろ」
フェルディナントが静かにメルを見る。怒っているわけではない。ただ、その言葉の真意を測るような視線だった。
「おい、メル。危険だぞ」
フォルクが焦ったように口を挟む。
「前みたいに勝てるとは限らないんだぞ!」
「分かってる」
メルは即答した。
「私も、あまりおすすめはできませんね」
フェルディナントが低く言う。
「本来なら、あなたにも地下室の警護を頼もうと思っていました」
「リベルタがいるなら、そっちは何とかなるだろ?」
リベルタなら一人でも問題なく戦える。少なくとも、毎日稽古をつけてもらっているメルにはそう思えた。
フェルディナントはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……何を言っても、行くつもりのようですね」
フェルディナントはわずかに苦笑する。そして、静かに続けた。
「私としても、ロッテが無事戻ってくるなら、それ以上に嬉しいことはありません。武器庫の物は自由に使って構いませんよ」
「ほんとか!」
メルの耳がぴくりと立つ。
「任せとけ」
勢いよく扉へ向かおうとした、その時だった。
「待ってくれ!」
フォルクがメルの腕を掴む。力が入っていた。
「メル、考え直してくれ!」
震えた声だった。
「俺は、お前まで失いたくないんだ」
メルは少しだけ目を見開く。あの時とは逆だった。仲間を助けたいと息巻いていたフォルクの姿を思い出す。
「……ありがとう、フォルク」
メルは静かに言った。
「でも、あたしは行く」
腕を掴む手を見る。
「まだ、恩を返せてないからな」
フォルクが言葉を失う。その横から、今度はグレーテが前へ出た。
「メルちゃん……私も行きます」
「グレーテ?」
グレーテはまっすぐメルを見ていた。その顔に、いつもの柔らかい笑みはない。
「私も、大事な人は自分で守ると決めました」
◇
夕暮れ時。
冒険者ギルドの扉が、重い音を立てて開いた。酒と汗、それに鉄の匂いが混じった空気が流れ出る。依頼帰りの冒険者たちが騒ぎ、木製の机ではカードゲームに興じる声が飛び交っていた。
扉を開いたのは赤いクロークの男──グリムだ。腰には使い込まれたぼろぼろの剣。首には木製の冒険者プレートがぶら下がっている。
何人かの冒険者がちらりと視線を向ける。だが、グリムは気にした様子もなく、そのまま受付へ向かった。
受付嬢が顔を上げる。
「ようこそ、冒険者ギルドへ——あら」
彼女は少し目を丸くした。
「グリム様。お久しぶりですね」
以前、薬草採取の依頼を受けた時と同じ受付嬢だった。
「指名依頼が入っていると聞いて来た」
「はい、承っております」
受付嬢は慣れた手つきで書類を取り出した。
「グリム様宛の依頼ですね。内容は魔物討伐になります」
「今から受けられるか?」
「はい、大丈夫ですよ」
受付嬢は紙へ視線を落としたまま続ける。
「では、依頼内容の詳細をご説明しますね」
グリムは黙って聞いていた。
「場所は、この都市の北東にある森になります」




