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グリモワール  作者: えんぺら
第二章:消えない傷
28/30

28:価値

 メルとグレーテは屋敷へと戻っていた。


 玄関をくぐった瞬間、メルは真っ先にクロークのフードを外した。


「っはぁ……」


 獣耳が解放される。


 耳を隠すのは、やはり落ち着かなかった。音も少し籠るし、熱もこもる。人間から視線を向けられないためには必要だと分かっていても、好きにはなれない。


「お疲れ様です、メルちゃん」


「グレーテこそな」


 二人は厨房へ向かい、買ってきた食材を机へ並べていく。肉。野菜。香草。少し奮発して買った甘味。グレーテが手際よく種類ごとに分けていく横で、メルも袋から荷物を取り出していた。


 その時、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてくる。ばたばたと、明らかに急いでいる音。乱暴に扉が開かれると、メルは顔をしかめた。


「おい、フォルク。廊下を走るなよ」


 いつもグレーテに言われていることを、そのまま言い返す。現れたフォルクは、息を切らしながら立ち止まった。


「ご、ごめん……!」


 耳を伏せ、不安そうに周囲を見回している。


「どうかしましたか?」


 グレーテが手を止めて尋ねた。フォルクは少し迷うようにしてから口を開く。


「ロッテを見なかったか?」


「ロッテ?」


 メルとグレーテが顔を見合わせる。


「見てませんよ。私たちは買い物に出ていたので」


「屋敷のどっかにいるんじゃねえのか?」


 メルは適当に答える。


「それか、また散歩してるとか」


 あの角人は妙に老人くさいところがある。ふらふら外を歩き回ったり、庭で日向ぼっこをしたり。本を読んで茶を飲んでいる姿など、完全に隠居した年寄りだった。


 その答えを聞いても、フォルクの表情は晴れなかった。


「散歩に行くとは言ってたんだ。でも……まだ帰ってきてなくて」


「いつもは帰ってきてるのか?」


「うん。いつもなら、日が暮れる前には戻ってくるのに……」


 窓の外を見る。空はすでに赤く染まり始めていた。


「フォルクは心配性だな。待ってればそのうち帰って——」


 そこまで言って、言葉が止まる。脳裏に、ロッテとの会話がよぎった。


 回復魔法。角人。高すぎる利用価値。欲しがる人間はいくらでもいる。


「……」


 嫌な感じがした。メルが黙り込む横で、グレーテの表情も少し真剣になる。


「それは、少し心配ですね」


 そう呟くと、グレーテは静かに右目へ手を当てた。


「起動」


 小さく呟く。空気がわずかに震えた気がした。グレーテはそのまま動かない。閉じられた右目を覆ったまま、何かを探るようにじっと立ち尽くしている。


「……何してんだ?」


 メルが怪訝そうに眉をひそめる。


「<ロケート・クリーチャー>です」


 グレーテは目を閉じたまま答えた。


「一度見た相手なら、正確な位置を把握できる魔法です」


「魔法ってそんなことまでできるのか」


「便利ですよ。かなり高位の魔法ですからね」


 フォルクが不安そうに身を乗り出す。


「ど、どこにいるか分かったか?」


 数秒の沈黙。


 やがて、グレーテがゆっくり目を開いた。その表情には、はっきり困惑が浮かんでいた。


「この都市の北東にある森の中にいます」





     ◇




「……なるほど。ロッテがそんな場所にいるのか」


 フェルディナントが静かに口を開いた。


 普段は食事を取るための部屋には、重苦しい空気が流れている。長机の上には夕食が並んでいたが、誰も手を付けてはいなかった。


「はい。なぜ森にいるのかまでは分かっていませんが……」


 グレーテが答える。ロッテを心配しているためか、少し顔色が悪い。


 フェルディナントは腕を組み、しばらく黙って考え込んでいた。やがて、ゆっくりと口を開く。


「……リベルタよ。地下室を見張っていてくれ。誰も近づけるな」


 リベルタが片眉を上げた。


「別に構わんが……あの角人はどうする?」


 低い声で続ける。


「てっきり、わしが様子を見に行くものだと思っておったぞ」


「おそらく、ロッテは何者かに攫われた。一人でそう遠くに行くとは考え難い」


 その言葉に、部屋の空気が冷えた気がした。


「そうじゃろうな」


 リベルタは小さく鼻を鳴らした。


「……地下室に何があるのかは知らんが、その角人より優先するほど大事なものなのか?」


「大事だ」


 フェルディナントは即答した。


「奴隷解放の切り札にもなり得る。“金の卵”とでも呼ぶべきものが、あそこにはある」


 メルは眉をひそめる。金の卵の意味は分からない。だが、ただならないものだということだけは伝わってきた。


「もしロッテを攫った者の狙いがそれなら、こちらの戦力を軽々しく動かすわけにはいかない」


 リベルタが腕を組んだまま頷く。


「なるほどのお。本命を奪うための陽動、というわけか」


「その可能性が高い」


 短い沈黙が落ちる。その空気を破るように、グレーテがおずおずと口を開いた。


「……あの、フェルディナント様」


「どうした、マルガレーテ」


「ロッテ様を……助けには行かないのですか?」


 グレーテは不安そうに指先を握りしめている。


「リベルタ様を動かせないのであれば、せめて衛兵や騎士団へ話を通すべきでは……」


 フェルディナントは静かに首を横へ振った。


「マルガレーテ。お前の気持ちは分かる」


 その声は穏やかだった。だが、同時に冷静でもあった。


「しかし、奴隷が一人攫われた程度で、衛兵や騎士団が本格的に動くとは思えん」


「そんな……」


 グレーテの顔が曇る。この国では、異種族の奴隷などその程度の扱いなのだ。


「冒険者に依頼を出すのは……どうでしょうか」


 今度はフォルクが恐る恐る口を開く。


「ギルドなら、人探しの依頼も受けてくれるかもしれない……です」


「ふむ……」


 フェルディナントは目を伏せる。


「確かに可能性はある。だが、それも時間がかかるな。ギルド側で依頼内容の確認や精査が入る」


 小さく息を吐いた。


「あまり期待はできん」


 再び沈黙が落ちた。


「では、わしは地下室へ向かうとするかの」


 リベルタが椅子から立ち上がる。


「頼んだ」


 フェルディナントは頷いた。


「それと、鍵のかかった部屋には入るな。リベルタであってもだ」


「ほいほい。信用がないのう」


 ぼやきながら、リベルタが部屋を出ていく。重い扉が閉まった。その音が妙に大きく響く。


 そして——。


「じゃあ、あたしがロッテを助けに行く」


 メルが口を開いた。その瞬間、部屋の視線が一斉に集まる。


「メル殿……?」


 フォルクが目を見開いた。メルは構わず続ける。


「なんで皆、人に任せようとしてるんだ?」


 本気で理解できない、と言いたげな顔だった。


「そんなに大事なら、自分で助けに行けばいいだろ」


 フェルディナントが静かにメルを見る。怒っているわけではない。ただ、その言葉の真意を測るような視線だった。


「おい、メル。危険だぞ」


 フォルクが焦ったように口を挟む。


「前みたいに勝てるとは限らないんだぞ!」


「分かってる」


 メルは即答した。


「私も、あまりおすすめはできませんね」


 フェルディナントが低く言う。


「本来なら、あなたにも地下室の警護を頼もうと思っていました」


「リベルタがいるなら、そっちは何とかなるだろ?」


 リベルタなら一人でも問題なく戦える。少なくとも、毎日稽古をつけてもらっているメルにはそう思えた。


 フェルディナントはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。


「……何を言っても、行くつもりのようですね」


 フェルディナントはわずかに苦笑する。そして、静かに続けた。


「私としても、ロッテが無事戻ってくるなら、それ以上に嬉しいことはありません。武器庫の物は自由に使って構いませんよ」


「ほんとか!」


 メルの耳がぴくりと立つ。


「任せとけ」


 勢いよく扉へ向かおうとした、その時だった。


「待ってくれ!」


 フォルクがメルの腕を掴む。力が入っていた。


「メル、考え直してくれ!」


 震えた声だった。


「俺は、お前まで失いたくないんだ」


 メルは少しだけ目を見開く。あの時とは逆だった。仲間を助けたいと息巻いていたフォルクの姿を思い出す。


「……ありがとう、フォルク」


 メルは静かに言った。


「でも、あたしは行く」


 腕を掴む手を見る。


「まだ、恩を返せてないからな」


 フォルクが言葉を失う。その横から、今度はグレーテが前へ出た。


「メルちゃん……私も行きます」


「グレーテ?」


 グレーテはまっすぐメルを見ていた。その顔に、いつもの柔らかい笑みはない。


「私も、大事な人は自分で守ると決めました」







     ◇








 夕暮れ時。


 冒険者ギルドの扉が、重い音を立てて開いた。酒と汗、それに鉄の匂いが混じった空気が流れ出る。依頼帰りの冒険者たちが騒ぎ、木製の机ではカードゲームに興じる声が飛び交っていた。


 扉を開いたのは赤いクロークの男──グリムだ。腰には使い込まれたぼろぼろの剣。首には木製の冒険者プレートがぶら下がっている。


 何人かの冒険者がちらりと視線を向ける。だが、グリムは気にした様子もなく、そのまま受付へ向かった。


 受付嬢が顔を上げる。


「ようこそ、冒険者ギルドへ——あら」


 彼女は少し目を丸くした。


「グリム様。お久しぶりですね」


 以前、薬草採取の依頼を受けた時と同じ受付嬢だった。


「指名依頼が入っていると聞いて来た」


「はい、承っております」


 受付嬢は慣れた手つきで書類を取り出した。


「グリム様宛の依頼ですね。内容は魔物討伐になります」


「今から受けられるか?」


「はい、大丈夫ですよ」


 受付嬢は紙へ視線を落としたまま続ける。


「では、依頼内容の詳細をご説明しますね」


 グリムは黙って聞いていた。


「場所は、この都市の北東にある森になります」



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