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グリモワール  作者: えんぺら
第二章:消えない傷
27/30

27:話

 メルが屋敷に来て、一週間が経った。


 最初は落ち着かなかった生活にも、少しずつ慣れてきていた。朝は掃除。昼は洗濯や料理の手伝い。グレーテに指導されながらも、着実にこなせるようになってきている。


 裏庭では、毎日のようにリベルタとの稽古がある。酒瓶を使っての訓練で、魔力の扱いは上達してきた。剣の振り方、攻撃のさばき方など、戦士の技術も身についてきている。強くなっている感覚はメルの心の支えになっていた。


 夕方。メルはグレーテと一緒に買い出しへ出ていた。二人とも深くクロークを被っている。メルの獣耳も、グレーテの長い耳も布の下に隠れていた。


 市場は人で溢れていた。野菜を並べる音。客引きの怒鳴り声。焼いた肉の匂い。荷車の軋む音。人間たちは、いつも通り生活している。


「買い出しも終わりましたし、戻りましょうか」


 グレーテが袋を抱え直しながら言う。


「おう。今日はあたしが料理するからな。グレーテは見てなくても大丈夫だ。もう慣れたからな」


「少し不安ですね」


「あ?」


「この前は砂糖と塩を間違えてましたし……」


「うっ、文字が読めないから仕方なかったんだ。今日はちゃんと味見してから入れるようにする」


「ふふ。メルちゃんの料理を楽しみにしていますね」


 グレーテがくすくす笑う。


 その時だった。通りの向こうに、鉄格子付きの荷車が見えた。中には獣人たちが押し込められている。首輪。鎖。値札。


「力仕事向けだ!安いぞ!」


 商人の声が響く。メルの顔から笑みが消えた。


「……ちっ。ほんと、人間って最低だよな」


 吐き捨てるように言って、隣を見る。グレーテは立ち止まっていた。顔色が悪く、肩が小さく震えている。


「……おい、大丈夫か?」


「あ、すみません……」


 グレーテは震えた声で答える。


「少し、休んでもいいですか」


 道の端へ寄り、壁際へしゃがみ込む。持っていた荷物を静かに下ろした。呼吸が浅い。


 メルは少し眉をひそめた。


「大丈夫かよ」


「はい……すぐ戻りますから」


「戻るって……」


 無理やり笑おうとしているのが分かる。メルはため息をつくと、地面に置かれた荷物をまとめて持ち上げた。


「え、メルちゃん?」


「持つ」


「いや、でも——」


「いいから。あたしのほうが力はあるんだ」


 グレーテが少し困ったように笑う。


「……ありがとうございます」


 しばらくして、二人はゆっくり歩き出した。少しだけ、人混みを避けるように。しばらく無言が続く。市場の喧騒だけが遠く聞こえていた。


 やがて、グレーテが小さく口を開く。


「メルちゃんは……平気なんですか?ああいうのを見るのは」


 メルは少し考える。


「平気ではねえな。正直、悔しいよ」


 視線を前に向けたまま答えた。


「助けられるなら助けたい。でも、今のあたしじゃどうにもならないのも分かってる」


 少し間を置く。


「だから強くなろうとしてる。強くなれば、助けられるかもしれないからな」


 グレーテがわずかに目を細めた。


「メルちゃんは強いんですね」


「……まだ弱いだろ。助けたいって思ってるだけで、結局なにもできてねえし」


 グレーテは静かに首を横に振った。


「それでも、悔しいと思えるのは強さですよ」


 その声音は穏やかだった。けれど同時に、どこか遠くを見るようでもあった。


「私は……そういうことを、感じないようになってしまいましたから」


 メルはちらりと隣を見る。グレーテはいつものように微笑んでいる。優しくて、柔らかい笑顔。なのに、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。


「まあ、どう思うかは人それぞれだろ」


 空気を変えるようにメルが言う。


「フォルクなんか、完全に人間にビビっちまったしな」


 メルが稽古に誘っても、フォルクは首を縦に振らなかった。無理もない。心の支えだったヴォルフが、人間に一方的に叩き伏せられるところを見てしまったのだ。


「あたしは、奴隷だった期間も短かったし——」


 そこまで言って、メルは口を閉ざした。グレーテの過去を連想させるようなことを、わざわざ言うべきではない気がした。


「……いや、なんでもない」


 誤魔化すように前を向く。少しの沈黙のあとで、グレーテが小さく笑った。


「気を遣わなくても大丈夫ですよ」


 穏やかな声だった。


「私は、そこまで酷いことをされたわけではありませんから」


 その言い方が、逆に痛々しかった。酷いことを“されなかった”わけではないのだと、メルにも分かってしまう。


 グレーテは少し遠くを見るように目を細めた。


「私はもともと、人間と一緒に暮らしていたんです。帝国の魔法学院で、魔法の研究をしていました」


「学院?」


「はい。人間のお友達もたくさんいましたよ」


 少し意外だった。けれど、確かにグレーテの性格なら友達はたくさんできそうだ、とも思う。


「王国と帝国の戦争が終わってから、異種族狩りみたいなものが流行り始めて……その時に、私も捕まりました」


 異種族狩りという言葉に、メルは眉をひそめる。グレーテは淡々と続けた。


「私は魔法が使えたので、それなりに価値があったんでしょうね。奴隷としては、比較的いい扱いだったと思います」


 比較的という言葉が妙に引っかかった。


「でも……」


 グレーテは少しだけ俯く。


「学院に通っていた頃のことが、忘れられなかったんです」


 声が少し弱くなる。


「だから、どうしても比べてしまって」


 グレーテは小さく息を吐いた。


「……耐えられませんでした」


 重苦しい沈黙が落ちる。市場の喧騒はまだ聞こえているのに、ここだけ切り離されたみたいだった。


 けれど、グレーテはすぐにいつもの笑顔を作った。


「でも、今は普通に暮らせていますから」


 そう言って、少しだけメルとの距離を詰める。


「こうして、お友達とお話もできていますし。私は今、満足してるんです」


 肩が軽く触れ合う。甘えるようなその仕草に、メルは思わず顔をしかめた。


 いつもなら振り払っていたかもしれない。けれど今は、そんな気になれなかった。いつもは頼りになるグレーテが、今だけ少し子供みたいに見えたのだ。


 だから、文句を言うのをやめた。


「……まあ、あたしも今の暮らしは悪くないとは思ってる」


 ぶっきらぼうに言う。


「人間にも、悪いやつばっかじゃないってのは分かってきたし」


 グレーテが少し嬉しそうに笑う。


「フェルディナント様のおかげですね」






 メルの頭の中には、別の人間の顔が浮かんでいた。


 赤いクローク。無愛想な顔。面倒そうにしながら、それでも自分を助けた人間。


 あいつは、どうだったんだろう。奴隷として生きて、どうやってあんな風になったのか。どうして、あんな生活をしていたのか。


 ふと、そんなことが気になった。





「……なあ、グレーテ」


「はい?」


「もし、もしもだぞ?例えばの話だからな。……友達と喧嘩みたいなことをして、そのまま別れたとしたらどうすればいいと思う?」


 グレーテは少しきょとんとしたあと、柔らかく笑った。


「ずいぶん急なお話ですね」


「別に、深い意味はねえよ」


 メルは視線を逸らしながら答える。自分でも、なぜこんな話をしているのかよく分からなかった。


 グレーテは少し考えるように顎へ指を当てた。


「そうですね……喧嘩の内容にもよると思います。お互い怒鳴り合っただけなら、時間を置けばなんとかなることもありますし……」


 少し困ったように笑う。


「片方が一方的に悪い場合は、ちゃんと謝ったほうがいいですね」


「……」


 自分が悪かったのだろうか。いや、悪かった部分はあると思う。一方的に怒鳴って、剣を向けた。


「メルちゃんが本当に仲直りしたい相手なら、ちゃんと話したほうがいいと思います。悪いと思っていても、思っていなくてもです」


 グレーテが静かに続ける。


「……話す」


「はい。思っていることをちゃんと話すべきです。言わなくても分かってほしい、って難しいですから」


 その言葉は、どこか実感がこもっていた。メルは少し黙る。


 面倒そうな顔をしながら、文句を言いながら、それでも最後には助けてくれた。ルナのことも助けようとしていたのは感じていた。


 何を考えていたのか分からない。あの人間は、自分のことをまったく話さなかった。


「……あたし、あいつのこと全然知らねえな」


 ぽつりと漏れる。





「大切な人なんですね」


「はぁ!?」


 思わず変な声が出た。グレーテがくすくす笑う。


「もしもの話だって言ってるだろ!」


「はい。分かってますよ」


 グレーテはそういうとメルの持っていた荷物の片方を持った。


「少し話過ぎたかもしれないですね。皆さんを心配させないうちに帰りましょう」


 太陽は隠れ始めている。メルとグレーテは早足で屋敷へと向かった。


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