27:話
メルが屋敷に来て、一週間が経った。
最初は落ち着かなかった生活にも、少しずつ慣れてきていた。朝は掃除。昼は洗濯や料理の手伝い。グレーテに指導されながらも、着実にこなせるようになってきている。
裏庭では、毎日のようにリベルタとの稽古がある。酒瓶を使っての訓練で、魔力の扱いは上達してきた。剣の振り方、攻撃のさばき方など、戦士の技術も身についてきている。強くなっている感覚はメルの心の支えになっていた。
夕方。メルはグレーテと一緒に買い出しへ出ていた。二人とも深くクロークを被っている。メルの獣耳も、グレーテの長い耳も布の下に隠れていた。
市場は人で溢れていた。野菜を並べる音。客引きの怒鳴り声。焼いた肉の匂い。荷車の軋む音。人間たちは、いつも通り生活している。
「買い出しも終わりましたし、戻りましょうか」
グレーテが袋を抱え直しながら言う。
「おう。今日はあたしが料理するからな。グレーテは見てなくても大丈夫だ。もう慣れたからな」
「少し不安ですね」
「あ?」
「この前は砂糖と塩を間違えてましたし……」
「うっ、文字が読めないから仕方なかったんだ。今日はちゃんと味見してから入れるようにする」
「ふふ。メルちゃんの料理を楽しみにしていますね」
グレーテがくすくす笑う。
その時だった。通りの向こうに、鉄格子付きの荷車が見えた。中には獣人たちが押し込められている。首輪。鎖。値札。
「力仕事向けだ!安いぞ!」
商人の声が響く。メルの顔から笑みが消えた。
「……ちっ。ほんと、人間って最低だよな」
吐き捨てるように言って、隣を見る。グレーテは立ち止まっていた。顔色が悪く、肩が小さく震えている。
「……おい、大丈夫か?」
「あ、すみません……」
グレーテは震えた声で答える。
「少し、休んでもいいですか」
道の端へ寄り、壁際へしゃがみ込む。持っていた荷物を静かに下ろした。呼吸が浅い。
メルは少し眉をひそめた。
「大丈夫かよ」
「はい……すぐ戻りますから」
「戻るって……」
無理やり笑おうとしているのが分かる。メルはため息をつくと、地面に置かれた荷物をまとめて持ち上げた。
「え、メルちゃん?」
「持つ」
「いや、でも——」
「いいから。あたしのほうが力はあるんだ」
グレーテが少し困ったように笑う。
「……ありがとうございます」
しばらくして、二人はゆっくり歩き出した。少しだけ、人混みを避けるように。しばらく無言が続く。市場の喧騒だけが遠く聞こえていた。
やがて、グレーテが小さく口を開く。
「メルちゃんは……平気なんですか?ああいうのを見るのは」
メルは少し考える。
「平気ではねえな。正直、悔しいよ」
視線を前に向けたまま答えた。
「助けられるなら助けたい。でも、今のあたしじゃどうにもならないのも分かってる」
少し間を置く。
「だから強くなろうとしてる。強くなれば、助けられるかもしれないからな」
グレーテがわずかに目を細めた。
「メルちゃんは強いんですね」
「……まだ弱いだろ。助けたいって思ってるだけで、結局なにもできてねえし」
グレーテは静かに首を横に振った。
「それでも、悔しいと思えるのは強さですよ」
その声音は穏やかだった。けれど同時に、どこか遠くを見るようでもあった。
「私は……そういうことを、感じないようになってしまいましたから」
メルはちらりと隣を見る。グレーテはいつものように微笑んでいる。優しくて、柔らかい笑顔。なのに、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「まあ、どう思うかは人それぞれだろ」
空気を変えるようにメルが言う。
「フォルクなんか、完全に人間にビビっちまったしな」
メルが稽古に誘っても、フォルクは首を縦に振らなかった。無理もない。心の支えだったヴォルフが、人間に一方的に叩き伏せられるところを見てしまったのだ。
「あたしは、奴隷だった期間も短かったし——」
そこまで言って、メルは口を閉ざした。グレーテの過去を連想させるようなことを、わざわざ言うべきではない気がした。
「……いや、なんでもない」
誤魔化すように前を向く。少しの沈黙のあとで、グレーテが小さく笑った。
「気を遣わなくても大丈夫ですよ」
穏やかな声だった。
「私は、そこまで酷いことをされたわけではありませんから」
その言い方が、逆に痛々しかった。酷いことを“されなかった”わけではないのだと、メルにも分かってしまう。
グレーテは少し遠くを見るように目を細めた。
「私はもともと、人間と一緒に暮らしていたんです。帝国の魔法学院で、魔法の研究をしていました」
「学院?」
「はい。人間のお友達もたくさんいましたよ」
少し意外だった。けれど、確かにグレーテの性格なら友達はたくさんできそうだ、とも思う。
「王国と帝国の戦争が終わってから、異種族狩りみたいなものが流行り始めて……その時に、私も捕まりました」
異種族狩りという言葉に、メルは眉をひそめる。グレーテは淡々と続けた。
「私は魔法が使えたので、それなりに価値があったんでしょうね。奴隷としては、比較的いい扱いだったと思います」
比較的という言葉が妙に引っかかった。
「でも……」
グレーテは少しだけ俯く。
「学院に通っていた頃のことが、忘れられなかったんです」
声が少し弱くなる。
「だから、どうしても比べてしまって」
グレーテは小さく息を吐いた。
「……耐えられませんでした」
重苦しい沈黙が落ちる。市場の喧騒はまだ聞こえているのに、ここだけ切り離されたみたいだった。
けれど、グレーテはすぐにいつもの笑顔を作った。
「でも、今は普通に暮らせていますから」
そう言って、少しだけメルとの距離を詰める。
「こうして、お友達とお話もできていますし。私は今、満足してるんです」
肩が軽く触れ合う。甘えるようなその仕草に、メルは思わず顔をしかめた。
いつもなら振り払っていたかもしれない。けれど今は、そんな気になれなかった。いつもは頼りになるグレーテが、今だけ少し子供みたいに見えたのだ。
だから、文句を言うのをやめた。
「……まあ、あたしも今の暮らしは悪くないとは思ってる」
ぶっきらぼうに言う。
「人間にも、悪いやつばっかじゃないってのは分かってきたし」
グレーテが少し嬉しそうに笑う。
「フェルディナント様のおかげですね」
メルの頭の中には、別の人間の顔が浮かんでいた。
赤いクローク。無愛想な顔。面倒そうにしながら、それでも自分を助けた人間。
あいつは、どうだったんだろう。奴隷として生きて、どうやってあんな風になったのか。どうして、あんな生活をしていたのか。
ふと、そんなことが気になった。
「……なあ、グレーテ」
「はい?」
「もし、もしもだぞ?例えばの話だからな。……友達と喧嘩みたいなことをして、そのまま別れたとしたらどうすればいいと思う?」
グレーテは少しきょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「ずいぶん急なお話ですね」
「別に、深い意味はねえよ」
メルは視線を逸らしながら答える。自分でも、なぜこんな話をしているのかよく分からなかった。
グレーテは少し考えるように顎へ指を当てた。
「そうですね……喧嘩の内容にもよると思います。お互い怒鳴り合っただけなら、時間を置けばなんとかなることもありますし……」
少し困ったように笑う。
「片方が一方的に悪い場合は、ちゃんと謝ったほうがいいですね」
「……」
自分が悪かったのだろうか。いや、悪かった部分はあると思う。一方的に怒鳴って、剣を向けた。
「メルちゃんが本当に仲直りしたい相手なら、ちゃんと話したほうがいいと思います。悪いと思っていても、思っていなくてもです」
グレーテが静かに続ける。
「……話す」
「はい。思っていることをちゃんと話すべきです。言わなくても分かってほしい、って難しいですから」
その言葉は、どこか実感がこもっていた。メルは少し黙る。
面倒そうな顔をしながら、文句を言いながら、それでも最後には助けてくれた。ルナのことも助けようとしていたのは感じていた。
何を考えていたのか分からない。あの人間は、自分のことをまったく話さなかった。
「……あたし、あいつのこと全然知らねえな」
ぽつりと漏れる。
「大切な人なんですね」
「はぁ!?」
思わず変な声が出た。グレーテがくすくす笑う。
「もしもの話だって言ってるだろ!」
「はい。分かってますよ」
グレーテはそういうとメルの持っていた荷物の片方を持った。
「少し話過ぎたかもしれないですね。皆さんを心配させないうちに帰りましょう」
太陽は隠れ始めている。メルとグレーテは早足で屋敷へと向かった。




