26:治療
午後の仕事を終えたあと、メルは屋敷の廊下を歩いていた。
掃除に洗濯、料理の手伝い。やることは多かったが、不思議と嫌ではない。身体を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。
ただ、一つだけ気になっていることがあった。自分を治療したという角人──ロッテのことだ。どれだけ働けば治療費を返せるのか、それを確認しておきたかった。
メルはグレーテに教えられた部屋の前で立ち止まり、軽く扉を叩く。
「開いておるぞー」
中から気の抜けた声が返ってきた。
部屋へ入ると、少女が椅子に座りながら分厚い本を読んでいた。机の上には見慣れない薬草や瓶が散乱しており、独特な薬品の匂いが鼻をくすぐる。
角人の少女は本から目を離すと、メルを見上げた。
「獣人の娘か。どうした?」
「あんたが、あたしを治したロッテなんだよな?」
「そうじゃな。散歩しておったら、おぬしたちを見つけての。ついでに回復魔法で治してやった」
「ついでって……」
何でもないようにロッテは言った。メルは少しだけ言いづらそうに視線を逸らす。
「その……ありがとな」
ロッテがきょとんと目を瞬かせた。
「ほう?意外じゃな。素直に礼を言うとは」
くすくすと喉を鳴らして笑う。
「もっと噛みついてくるかと思っとったわ」
「そんなガキじゃねえよ」
ロッテは楽しそうに肩を揺らした。その様子を見ながら、メルは小さく息を吐く。
「あと、聞きたいことがあるんだ」
「なんじゃ?」
メルは腕を組み、少し真面目な顔になった。
「あたしの治療代って、どれくらいなんだ?どのくらいここで働けば返せる?」
ロッテは少し考え込む。
「解毒と肩の治療を合わせて……まあ、一年くらい働けばよいんじゃないか?」
「い、一年!?」
思わず大きな声が出た。
「高すぎだろ!?そんなに働かなきゃいけねえのか……?」
「おぬし、ほぼ死にかけじゃったんじゃぞ?命が助かったなら安いもんじゃろ」
ロッテはけろりとしている。
「そ、そうなのか?」
目に見えてメルのテンションが下がる。獣耳と尻尾が力なく垂れていた。
「まあ、それくらい回復魔法というのは貴重なんじゃよ」
「そんなにすごいのか?」
「まず、魔法使い自体が少ない。さらにその中でも、回復魔法を扱える者はかなり限られる」
ロッテは本を閉じ、机の上へ置いた。
「魔法というのはな、魔法陣を構築して、そこへ魔力を流し込むことで発動する。魔力自体は誰しも持っとるが、魔法陣を扱うには才能が必要なんじゃ」
「魔法陣?」
メルは首を傾げる。
「魔力をそのまま使えばいいんじゃねえのか?」
リベルタに教わったことを思い出す。身体へ流す。武器へ流す。それだけでも十分強くなれると言っていた。
ロッテは頷いた。
「もちろん可能じゃ。じゃが、それでは効率が悪い。魔法陣を通すことで、魔力をより複雑な現象へ変換できるんじゃよ」
「ふーん……」
正直、半分くらいしか分からない。
「例えば、おぬしは身体能力を強化するくらいしかできんじゃろ?」
「まあ……そうだな」
「じゃが魔法陣を使えば、火を出したり、雷を落としたり、傷を治したりできる」
「便利だな」
「便利じゃが、その分だけ大量の魔力を消費する」
ロッテは指を一本立てる。
「特に回復魔法は消費が激しい。回復魔法の使い手が少ないのは、そのせいじゃ」
「魔力が足りないのか?」
「そういうことじゃな。それに加えて、魔法陣の構築も他の魔法と比べて難しい。おぬしみたいに、全身へ毒が回った状態を治療できる人間はまずおらん」
「なるほど……でも、なんでロッテはそんなすごい回復魔法が使えるんだ?」
見た目だけなら、自分より年下にしか見えない。とても高位の魔法使いには思えなかった。
「ふむ。実は、おぬしに使った解毒魔法は、わしの魔力量では本来使えん」
「うん?どういうことだ?」
メルは眉をひそめる。
「魔法陣へ流し込むことができるのは、魔力だけではないのじゃ」
「……?」
ますます分からなくなる。
「生命力でもよい」
メルの眉がぴくりと動いた。
「生命力って……」
「寿命じゃな」
さらりと言った。
「寿命を削って魔法を発動することもできる。むしろ、昔はそちらのほうが主流じゃった」
「いや、代償が重すぎるだろ……」
「その分、効率は良いからの。我らのような長命種なら、そこまで大きな問題でもない」
「長命種って……お前いくつなんだ?」
ロッテはにやりと笑った。
「女に年齢を聞くものではないぞ?」
「絶対年寄りだろ。その喋り方」
「失礼な娘じゃのう」
ロッテは呆れたように肩をすくめる。
「まあ、治療費のことは分かった。絶対に働いて返すからな」
「律儀じゃのお。エルフの娘とも、おぬしを運んでいた獣人とも違う気質じゃ」
「そうか?二人ともここで働いてるだろ?」
「ここにおる奴隷のほとんどは、“ここで住まわせてもらう代わり”に働いておるんじゃよ」
ロッテは机の上の瓶を指先で転がした。
「食事がある。寝床がある。殴られもせん。異種族がそんな環境で生きていける場所など、この国ではそう多くないからの」
「……」
メルは少し視線を落とす。
確かに、その通りだった。少なくともここには、奴隷商も、獣人を見るなり石を投げてくるような連中もいない。
「おぬしみたいに、外へ出ようとする奴は珍しい。普通はここへ残りたがる」
「それは……そうだろうな。人間の街で一人で生きるより、ここにいたほうが安全だ」
「……皆、心が折れておるのだ」
ロッテは静かに言った。
「たとえフェルディナントの野望が果たされて、奴隷制度がなくなったとしても……人間と共に生きようと思えるものが、果たしてどれほどおるかのう」
メルは少し視線を落とす。確かに、皆が前を向いて生きられるわけではない。メル自身、人間と一緒に暮らしたいとは思えなかった。
「ロッテはどうなんだ?」
「む?」
「自由に生きたいとか、思わないのか?」
ロッテは少し考えるように首を傾げたあと、小さく笑った。
「そうじゃな……自分で言うのもなんじゃが、わしは利用価値が高すぎる」
指先で瓶を転がす。
「ここから出ていけば、すぐ捕まるじゃろうな。奴隷制度があるかどうかなど関係なく」
肩をすくめるように笑う。
「回復魔法の使い手、それも角人。欲しがる人間はいくらでもおる。戦場でも、貴族でも、裏社会でもの」
冗談めかした口調だった。けれど、その目はあまり笑っていなかった。
「……逃げようとは思わなかったのか?」
「思ったことくらいはあるぞ」
ロッテは瓶を軽く揺らした。中の液体が、ちゃぷりと小さく音を立てる。
「じゃが、無理に危険を冒す理由もない。ここにおれば、少なくとも生きてはいける。フェルディナントもわしに無茶はさせんしのう」
あっさりとした言い方だった。
「……そのわりには、散歩とかしてるんだな」
「はっはっは。角さえ隠しておれば、そう簡単にはばれんよ。そんな遠くへ行くわけでもないしの」
ロッテは笑ったあと、不意にじっとメルを見つめてきた。
「……おぬしが、わしになにか返したいと思っておるなら」
「?」
「あのエルフの娘を、少し気にかけてやってくれ」
「グレーテのことか?」
メルは首を傾げる。
「あいつ、全然平気そうだけどな。怒ると怖いし」
「まあ、そうなんじゃが」
ロッテは苦笑した。
「隠しておるだけじゃよ」
その言葉に、メルは少し黙る。
「あやつがここへ来たばかりの頃は、なかなか手を焼いたわい」
ロッテは遠いものを見るように目を細めた。
「回復魔法は、心までは治せんからのう」
真剣そうなロッテのもの言いにメルはうなずく。
「……まあ、わかった」
「頼むぞ」
ロッテはそこで、ふと思い出したようにニヤニヤとしながら言った。
「まあ、あの獣人の小僧のほうは心配いらんじゃろ。おぬしがここにおるならな」
「それも、よく分かんねえな。あたしが関係あるか?」
「ん?」
ロッテが首を傾げる。
「おぬしら、付き合っとるんじゃないのか?」
「は?」
思わず変な声が出た。ロッテはきょとんとした顔のまま続ける。
「いや、あまりにも必死じゃったからのう。“メルを助けてくれ、大切な人なんだ”と、泣きつかんばかりの勢いで頼み込んできおったし」
「付き合ってねえよ。あいつは仲間思いなやつなんだ」
「ふむ、そうか」
ロッテは納得したように頷いたあと、くつくつと笑う。
「あの小僧も不憫じゃな、勝手に話に出されて振られてしもうたわ」
メルは呆れたように眉をひそめた。




