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グリモワール  作者: えんぺら
第二章:消えない傷
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26:治療

 午後の仕事を終えたあと、メルは屋敷の廊下を歩いていた。


 掃除に洗濯、料理の手伝い。やることは多かったが、不思議と嫌ではない。身体を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。


 ただ、一つだけ気になっていることがあった。自分を治療したという角人──ロッテのことだ。どれだけ働けば治療費を返せるのか、それを確認しておきたかった。


 メルはグレーテに教えられた部屋の前で立ち止まり、軽く扉を叩く。


「開いておるぞー」


 中から気の抜けた声が返ってきた。


 部屋へ入ると、少女が椅子に座りながら分厚い本を読んでいた。机の上には見慣れない薬草や瓶が散乱しており、独特な薬品の匂いが鼻をくすぐる。


 角人の少女は本から目を離すと、メルを見上げた。


「獣人の娘か。どうした?」


「あんたが、あたしを治したロッテなんだよな?」


「そうじゃな。散歩しておったら、おぬしたちを見つけての。ついでに回復魔法で治してやった」


「ついでって……」


 何でもないようにロッテは言った。メルは少しだけ言いづらそうに視線を逸らす。


「その……ありがとな」


 ロッテがきょとんと目を瞬かせた。


「ほう?意外じゃな。素直に礼を言うとは」


 くすくすと喉を鳴らして笑う。


「もっと噛みついてくるかと思っとったわ」


「そんなガキじゃねえよ」


 ロッテは楽しそうに肩を揺らした。その様子を見ながら、メルは小さく息を吐く。


「あと、聞きたいことがあるんだ」


「なんじゃ?」


 メルは腕を組み、少し真面目な顔になった。


「あたしの治療代って、どれくらいなんだ?どのくらいここで働けば返せる?」


 ロッテは少し考え込む。


「解毒と肩の治療を合わせて……まあ、一年くらい働けばよいんじゃないか?」


「い、一年!?」


 思わず大きな声が出た。


「高すぎだろ!?そんなに働かなきゃいけねえのか……?」


「おぬし、ほぼ死にかけじゃったんじゃぞ?命が助かったなら安いもんじゃろ」


 ロッテはけろりとしている。


「そ、そうなのか?」


 目に見えてメルのテンションが下がる。獣耳と尻尾が力なく垂れていた。


「まあ、それくらい回復魔法というのは貴重なんじゃよ」


「そんなにすごいのか?」


「まず、魔法使い自体が少ない。さらにその中でも、回復魔法を扱える者はかなり限られる」


 ロッテは本を閉じ、机の上へ置いた。


「魔法というのはな、魔法陣を構築して、そこへ魔力を流し込むことで発動する。魔力自体は誰しも持っとるが、魔法陣を扱うには才能が必要なんじゃ」


「魔法陣?」


 メルは首を傾げる。


「魔力をそのまま使えばいいんじゃねえのか?」


 リベルタに教わったことを思い出す。身体へ流す。武器へ流す。それだけでも十分強くなれると言っていた。


 ロッテは頷いた。


「もちろん可能じゃ。じゃが、それでは効率が悪い。魔法陣を通すことで、魔力をより複雑な現象へ変換できるんじゃよ」


「ふーん……」


 正直、半分くらいしか分からない。


「例えば、おぬしは身体能力を強化するくらいしかできんじゃろ?」


「まあ……そうだな」


「じゃが魔法陣を使えば、火を出したり、雷を落としたり、傷を治したりできる」


「便利だな」


「便利じゃが、その分だけ大量の魔力を消費する」


 ロッテは指を一本立てる。


「特に回復魔法は消費が激しい。回復魔法の使い手が少ないのは、そのせいじゃ」


「魔力が足りないのか?」


「そういうことじゃな。それに加えて、魔法陣の構築も他の魔法と比べて難しい。おぬしみたいに、全身へ毒が回った状態を治療できる人間はまずおらん」


「なるほど……でも、なんでロッテはそんなすごい回復魔法が使えるんだ?」


 見た目だけなら、自分より年下にしか見えない。とても高位の魔法使いには思えなかった。


「ふむ。実は、おぬしに使った解毒魔法は、わしの魔力量では本来使えん」


「うん?どういうことだ?」


 メルは眉をひそめる。


「魔法陣へ流し込むことができるのは、魔力だけではないのじゃ」


「……?」


 ますます分からなくなる。


「生命力でもよい」


 メルの眉がぴくりと動いた。


「生命力って……」


「寿命じゃな」


 さらりと言った。


「寿命を削って魔法を発動することもできる。むしろ、昔はそちらのほうが主流じゃった」


「いや、代償が重すぎるだろ……」


「その分、効率は良いからの。我らのような長命種なら、そこまで大きな問題でもない」


「長命種って……お前いくつなんだ?」


 ロッテはにやりと笑った。


「女に年齢を聞くものではないぞ?」


「絶対年寄りだろ。その喋り方」


「失礼な娘じゃのう」


 ロッテは呆れたように肩をすくめる。


「まあ、治療費のことは分かった。絶対に働いて返すからな」


「律儀じゃのお。エルフの娘とも、おぬしを運んでいた獣人とも違う気質じゃ」


「そうか?二人ともここで働いてるだろ?」


「ここにおる奴隷のほとんどは、“ここで住まわせてもらう代わり”に働いておるんじゃよ」


 ロッテは机の上の瓶を指先で転がした。


「食事がある。寝床がある。殴られもせん。異種族がそんな環境で生きていける場所など、この国ではそう多くないからの」


「……」


 メルは少し視線を落とす。


 確かに、その通りだった。少なくともここには、奴隷商も、獣人を見るなり石を投げてくるような連中もいない。


「おぬしみたいに、外へ出ようとする奴は珍しい。普通はここへ残りたがる」


「それは……そうだろうな。人間の街で一人で生きるより、ここにいたほうが安全だ」


「……皆、心が折れておるのだ」


 ロッテは静かに言った。


「たとえフェルディナントの野望が果たされて、奴隷制度がなくなったとしても……人間と共に生きようと思えるものが、果たしてどれほどおるかのう」


 メルは少し視線を落とす。確かに、皆が前を向いて生きられるわけではない。メル自身、人間と一緒に暮らしたいとは思えなかった。


「ロッテはどうなんだ?」


「む?」


「自由に生きたいとか、思わないのか?」


 ロッテは少し考えるように首を傾げたあと、小さく笑った。


「そうじゃな……自分で言うのもなんじゃが、わしは利用価値が高すぎる」


 指先で瓶を転がす。


「ここから出ていけば、すぐ捕まるじゃろうな。奴隷制度があるかどうかなど関係なく」


 肩をすくめるように笑う。


「回復魔法の使い手、それも角人。欲しがる人間はいくらでもおる。戦場でも、貴族でも、裏社会でもの」


 冗談めかした口調だった。けれど、その目はあまり笑っていなかった。


「……逃げようとは思わなかったのか?」


「思ったことくらいはあるぞ」


 ロッテは瓶を軽く揺らした。中の液体が、ちゃぷりと小さく音を立てる。


「じゃが、無理に危険を冒す理由もない。ここにおれば、少なくとも生きてはいける。フェルディナントもわしに無茶はさせんしのう」


 あっさりとした言い方だった。


「……そのわりには、散歩とかしてるんだな」


「はっはっは。角さえ隠しておれば、そう簡単にはばれんよ。そんな遠くへ行くわけでもないしの」


 ロッテは笑ったあと、不意にじっとメルを見つめてきた。


「……おぬしが、わしになにか返したいと思っておるなら」


「?」


「あのエルフの娘を、少し気にかけてやってくれ」


「グレーテのことか?」


 メルは首を傾げる。


「あいつ、全然平気そうだけどな。怒ると怖いし」


「まあ、そうなんじゃが」


 ロッテは苦笑した。


「隠しておるだけじゃよ」


 その言葉に、メルは少し黙る。


「あやつがここへ来たばかりの頃は、なかなか手を焼いたわい」


 ロッテは遠いものを見るように目を細めた。


「回復魔法は、心までは治せんからのう」


 真剣そうなロッテのもの言いにメルはうなずく。


「……まあ、わかった」


「頼むぞ」


 ロッテはそこで、ふと思い出したようにニヤニヤとしながら言った。


「まあ、あの獣人の小僧のほうは心配いらんじゃろ。おぬしがここにおるならな」


「それも、よく分かんねえな。あたしが関係あるか?」


「ん?」


 ロッテが首を傾げる。


「おぬしら、付き合っとるんじゃないのか?」


「は?」


 思わず変な声が出た。ロッテはきょとんとした顔のまま続ける。


「いや、あまりにも必死じゃったからのう。“メルを助けてくれ、大切な人なんだ”と、泣きつかんばかりの勢いで頼み込んできおったし」


「付き合ってねえよ。あいつは仲間思いなやつなんだ」


「ふむ、そうか」


 ロッテは納得したように頷いたあと、くつくつと笑う。


「あの小僧も不憫じゃな、勝手に話に出されて振られてしもうたわ」


 メルは呆れたように眉をひそめた。

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