25:酒瓶
豪華な昼食を食べ終えたメルは、メイド服のまま屋敷の裏庭へ向かっていた。あのドワーフの戦士に呼び出されたのである。
大きな屋敷は移動するだけでも時間がかかる。マルガレーテに「廊下は走ってはいけません」と念を押されているため、メルは不機嫌そうに早足で廊下を進んでいた。
しばらくして裏庭へ辿り着く。芝は短く整えられ、雑草一つ見当たらない。木々も綺麗に剪定されており、中央には木製の人形や訓練用の的まで並んでいる。屋敷の裏庭というより、小さな訓練場だった。
その中央で、右目に眼帯をつけたドワーフ──リベルタが酒瓶を傾けていた。メルに気づくと、ぐいと瓶を持ち上げ、一気に飲み干してしまう。
「来よったか。獣人の娘っ子」
「また飲んでるのかよ。グレーテに見つかったら怒られるぞ?」
朝食の時も昼食の時も、グレーテに酒瓶を没収されているのをメルは見ていた。
「そりゃいかんのお。こっそり持ち出してきたんじゃ、このことは内緒にしといてくれい」
悪びれた様子もなく言うと、リベルタは近くに立てかけてあった剣を一本放り投げてくる。メルは反射的に受け取った。刃は潰されている。訓練用の剣らしい。
「フェルディナントから、お前さんに稽古をつけろと言われとる。毎日昼食後はここで鍛えるぞ。まずは腕を見せてみい」
メルは剣を握り直した。
「……本気でやっていいのか?」
「安心せい。そこらの若造よりは丈夫じゃ」
リベルタは酒瓶を、まるで剣のように構えた。足元も少しふらついている。
「おいおい、それで戦うつもりか?酔ってるからって手加減はしないぞ」
「大丈夫じゃ。こんなの酔ったうちには入らん」
本当に大丈夫なのだろうか。半ば呆れながらも、メルは地面を蹴った。一気に距離を詰め、横薙ぎに剣を振るう。
しかし、攻撃は空を切った。
力任せに弾かれたわけではない。いつの間にか、酒瓶が剣の側面へ優しく添えられていた。ほとんど音もなく軌道を逸らされ、そのまま体勢まで崩される。
「手加減はせんでよいぞ?」
直後、酒瓶が額へ軽く当てられた。
「っ……!」
メルはすぐ距離を取り、再び踏み込む。
一撃、二撃、三撃。
連続で振るうが、すべて受け流される。最小限の動きで軌道だけを逸らされ、気づけば喉元へ酒瓶を突きつけられていた。
「なるほどの。大体の力量は分かったわい」
酒瓶を下ろし、長い髭をしごきながらリベルタは言う。
「くそっ、当たらねえ……」
メルも剣を下ろし、悔しそうに顔をしかめた。リベルタは鼻を鳴らす。
「力任せじゃな。獣人らしいっちゃらしいが、それだけでは強さに限界がある」
メルは舌打ちした。
「これまでは身体能力だけで何とかなっとったんじゃろう。じゃが戦士としての技術を身につけんとな」
確かに、これまでは感覚だけで剣を振ってきた。流れるような連撃も、攻撃を受け流す技術も知らない。
「それとお前さん、魔力の扱いがちょいと雑じゃな。武器にも流しておらんだろう?」
「魔力?」
「ふむ、今まで無意識にやっていたんじゃな」
リベルタは少し意外そうに眉を上げた。
「まあ、感覚で扱う奴も多い。魔力を身体に流して、身体能力を強化できるんじゃよ。お前さんが踏み込みや反応速度が妙に良いのはそのせいじゃな」
言われてみれば、戦っている時だけ身体が妙に軽くなる感覚はあった。
「魔力ってのは、本来目には見えん。じゃが、誰しもが持っている力じゃ。身体に流すこともできるし、武器に流すこともできる」
そう言うと、リベルタは再び酒瓶を構えた。
「魔力の使い方を教えちゃる。全力で打ち込んでみい」
「……じゃあ遠慮なくいかせてもらうぜ」
メルは深く踏み込み、剣を両手で上段から振り下ろした。リベルタがただ者ではないことは、もう理解している。だからこその全力だった。
リベルタは避けようとしない。ただ酒瓶を、剣の軌道へ差し込むだけだ。まずい、瓶を砕いてしまう。だが、もう止められない。
次の瞬間。響いたのは、甲高い金属音だった。
「……え?」
剣が、酒瓶に受け止められている。ガラスのはずの瓶は砕けていない。
メルは目を見開く。
「このように、防御の瞬間に魔力を集中させれば、本来受けられん攻撃も受けられる。逆に、攻撃の瞬間に一気に流し込めば、相手の防御を崩すこともできる」
「……すげえ」
思わず本音が漏れた。リベルタは満足そうに髭を撫でる。
「今のお前さんは、無意識に垂れ流しとるだけじゃ。強くなりたいなら、意識して扱えるようにならんとな」
「そうは言っても、どうすれば使えるようになるんだ?」
リベルタは少し考え込むと、手に持っていた酒瓶をメルへ放ってよこした。
「まずは感覚を掴むところからじゃな。両手で持ってみい」
メルは怪訝そうな顔をしながら酒瓶を両手で持つ。まだ少し酒臭いし、微妙に酒が残っている。
「魔力っちゅうのは、水みたいなもんじゃ」
リベルタは自分の胸を指で叩いた。
「お前さんの中にも、ちゃんと溜まっとる。ただ、今は無意識に漏れとるだけじゃ」
「……よく分かんねえな」
「難しく考えんでよい。まずは、この瓶を自分の力で満たすイメージをしてみい」
「力で……満たす……」
「その瓶に水を注ぐようにな。身体の奥にある魔力を、腕を通して流し込むんじゃよ」
メルは酒瓶を見下ろす。戦っている時に感じる、あの妙な熱。踏み込みの瞬間、身体が軽くなる感覚。あれを流し込めばいいのか。
「力まなくてよい。自分の内側に意識を向けるんじゃ」
メルはゆっくり息を吸った。目を閉じる。すると、身体の奥で何かが微かに揺れている感覚があった。熱にも似た、不思議な感覚。
それを腕へ流す。指先から、酒瓶へ。水を注ぐように。
しばらく集中していると──ちゃぷん、と音がする。
メルが目を開く。瓶に僅かに残っていた酒が、波紋のように静かに揺れていた。
「おお」
リベルタが感心したように眉を上げる。
「い、今の……」
「ちゃんと流れとる。魔力が瓶に触れた証拠じゃ。しかし、驚いたのお。こんなに早くに感覚をつかめるとはなあ」
メルは少し得意げに胸を張る。するとリベルタがうんうんと頷いた。
「わしの教え方がうまかったんじゃな」
メルは半目でリベルタを見た。別に褒めてほしいわけではないのだが、腑に落ちない。
「あとはこれを戦っとる最中に出来るようになればよい。しばらくはその瓶に魔力を流しながら、的でも殴っとれ。魔力を流せていれば、割れないはずじゃ」
「割れたら?」
「わしが酒を飲んで補充すればよい」
わっはっは、と上機嫌に笑う。メルは呆れたようにため息を吐いた。
「……グレーテに聞かれたら、今度こそ本気で怒られるぞ」
「私がどうかしましたか?」
背後から聞こえた声に、メルの肩がびくりと跳ねた。振り向くと、いつの間にかグレーテが立っている。にこやかな笑顔はいつも通りだ。だが、なぜか妙な圧があった。
「ここでお二人が稽古をしていると聞いたので、お水を持ってきたのですが……」
メルは本能的に危険を察し、一歩後ろへ下がる。
「おお、エルフの娘っ子。ちょうどよかったわい。稽古に酒が大量に必要なんじゃが、用意してくれんかの?」
その瞬間、空気がさらに冷えた気がした。
メルは無言でもう一歩下がる。グレーテは笑顔のまま、ゆっくりリベルタへ視線を向けた。
「……リベルタ様。その件につきましては、後ほどゆっくりお話いたしましょう」
「お、おう……」
先ほどまで余裕そうだったリベルタが、わずかに目を逸らす。そしてグレーテは、今度はメルへ向き直った。
「それと、メルちゃん?」
「は、はい!」
思わず背筋が伸びる。
「メイド服のまま訓練するのはやめましょうね。破れたら大変ですので」
メルは自分の格好を見下ろした。動きやすいとは思っていたが、確かに裾はかなり汚れている。
「ごめんなさい……」
「あとで着替えを持ってきますので、次からはそちらを使ってくださいね?」
穏やかな口調だった。穏やかなはずなのに、逆らってはいけない気がした。
「わ、わかりました……」
メルの今日の一番の学びは、グレーテを怒らせてはいけないということだった。




