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グリモワール  作者: えんぺら
第二章:消えない傷
30/30

30:全力

 夜の街道を、馬が駆けていた。


 手綱を握っているのはグレーテ。その後ろへ、メルが跨っている。冷たい風がクロークを揺らし、木々の影が足元を流れていく。やがて森の入り口が見えてきたところで、グレーテが速度を落とした。


「この辺りですね」


 馬を止める。二人は地面へ降り立った。湿った土の感触が靴裏へ伝わってくる。森の奥は暗かった。枝葉が月明かりを遮り、夜の闇がそのまま沈殿しているみたいだった。


「ここから先は歩いて行きましょう」


 グレーテが杖を握り直す。


「<ライト>」


 小さく呟いた瞬間、杖の先端へ淡い光が灯った。白い光が周囲を照らす。


 メルは腰へ下げた二本の剣を軽く確かめた。防具はつけていない。重い装備は動きを鈍らせる。森の中では、身軽さのほうが重要だと判断していた。


「……静かだな」


 メルが眉をひそめる。魔物の気配がない。鳥の鳴き声も、獣の足音も聞こえてこない。森そのものが息を潜めているようだった。


 グレーテは右目を手で覆いながら前を向く。


「ついてきてください。ロッテ様の反応はまだ動いていません」


 二人は慎重に森の奥へ進んでいく。


 途中、遠くから金属音のようなものが聞こえた。何かがぶつかり合う音。木々を揺らす轟音。誰かが戦っている。


 だが、グレーテは立ち止まらなかった。


「グレーテ、今の音……」


 メルが小声で呼びかける。


「止まっている暇はありません。ロッテ様を優先します」


「……だな」


 再び歩き出そうとした、その時だった。


 メルが突然グレーテの腕を掴む。強い力だった。グレーテが目を見開く。


「どうしましたか?」


「……っ!」


 メルの喉から、息が漏れる。言葉にならない。全身の毛が逆立っていた。


 何か、とんでもないものがこの先にいる。生物としての本能が警鐘を鳴らしていた。グレーテも、その異様な反応を見て周囲を警戒する。


 そして——空気を震わせるような咆哮が、森の静寂を引き裂いた。びりびりと鼓膜が揺れる。


 巨大な影が、月を覆い隠していた。メルとグレーテが反射的に空を見上げる。


 圧倒的な質量。巨大な翼。長い尾。それが森の上空を横切っていく。


「ドラゴン……!」


 グレーテが呆然と呟く。


 魔物の中でも、最強種として語られる存在。伝承や古い記録でしか見ないような怪物だった。メルは険しい顔のまま尋ねる。


「……ロッテはこの先にいるのか?」


「はい」


 グレーテは右目を押さえたまま頷く。


「このまま真っ直ぐです」


 そして、ドラゴンが飛んで来た方向を指差した。メルが顔をしかめる。


「あいつが来た方角かよ。最悪だな」


「もし誘拐犯がドラゴンを使役しているなら……正面から戦って勝てる相手ではありません」


 グレーテの声にも緊張が滲んでいた。だが、メルは舌打ちすると森の奥を睨む。


「だったら今がチャンスかもな」


「え?」


「あいつが戻ってくる前に、ロッテを助ける」


 グレーテは一瞬だけ言葉を失った。


 ドラゴンがいる。それも、おそらく敵側についている。本来なら撤退を考えてもおかしくない状況だった。だが、メルの目に迷いはない。


「……そうですね」


 グレーテは小さく息を吐く。


「行きましょう」


 二人は森の奥へ向かって駆け出した。枝葉をかき分け、湿った地面を蹴る。しばらく走ったところで、グレーテが急に足を止めた。


「……この先です」


 メルも速度を落とす。木々が途切れ、小さく開けた場所が見えてきた。


 洞窟がある。岩肌をくり抜いたような黒い入り口。


 その前に——巨大な影が立っていた。


「トロールかよ……」


 メルが顔をしかめる。


 棍棒を肩へ担いだ大型魔物。灰色の分厚い皮膚は岩のようで、全身の筋肉は異様なほど膨れ上がっていた。洞窟の入り口を塞ぐように、その巨体が立っている。


 グレーテが杖を握り直した。


「戦うしかないようですね」


 声に緊張が滲んでいる。


「メルちゃん。前衛をお願いしてもいいですか?私ができるだけ早く魔法で倒します」


 杖先の光がわずかに揺れる。


「なので、防御に専念してください」


「グレーテが倒せるって言うなら信じる」


 メルは腰の剣へ手をかけた。


「けど、時間はかけられないぞ」


「……最悪、私一人でも引きつけられます」


 グレーテが低く言う。


「逃げながら魔法を撃ち続ければ、いずれ倒せるはずです。その間に、メルちゃんは洞窟へ——」


 その時だった。


 遠くから、再び咆哮が響く。森全体を震わせるような轟音。続けて、何か巨大なもの同士がぶつかり合うような衝撃音が響いた。


 メルはドラゴンの飛んでいった方向を睨んだ。


「……だめだ。逃げ回りながら戦ったら、ドラゴンと鉢合わせるかもしれない」


 さらに続ける。


「それに、ここを離れたらロッテが別の場所へ連れていかれる可能性もある」


 メルは片方の剣を抜き放った。銀色の刃が、杖の光を反射する。


「ここで、二人で倒すぞ」


 グレーテは短く息を吐いたあと、小さく頷く。


「……分かりました。準備はいいですか?」


「おう。いつでもいいぜ」


 グレーテが杖を構える。


「<ファイアー・ボール>」


 杖先から火球が放たれた。夜の森を赤く染めながら飛翔し、トロールの頭部へ直撃する。轟音とともに炎が弾け、熱風が周囲へ吹き荒れた。


 その瞬間、メルが地面を蹴る。一気にトロールの懐へ飛び込んだ。


 トロールが咆哮し、巨大な棍棒を振り下ろす。メルは、紙一重で横へ跳んだ。地面へ叩きつけられた棍棒が土を爆ぜさせる。


 再び、火球が炸裂した。炎を浴びたトロールが、今度はグレーテの方を向く。鈍重な足音を響かせながら、そちらへ進み始めた。


「お前の相手は、あたしだ!」


 メルが背後から飛びかかる。無防備になった脚へ剣を叩き込んだ。肉を裂く感触。だが浅い。


 トロールは痛みに顔を歪めるものの、止まらない。傷口が蠢き、肉が再生していく。


 グレーテは距離を取りながら、次の魔法を構築していた。


 まずい。メルを脅威だと認識していない。これでは前衛の意味がない。


「このっ……!こっち向けよ!」


 何度も斬りつける。だが傷はすぐ塞がっていく。


 グレーテは逃げながら魔法を撃てている。しかし、このままでは時間がかかりすぎる。


「メルちゃん!先に行ってください!」


 グレーテが叫ぶ。


「私は一人でも大丈夫です!」


 その言葉に、メルの眉が吊り上がった。


「なめんな!」


 全身へ、一気に魔力を流し込む。乱暴なほど大量の魔力。身体が軋む。


 同時に、剣へも魔力を叩き込んだ。刃が悲鳴を上げる。ひびが走った。だが止めない。


「――っ!」


 踏み込み、一閃。銀色の軌跡が、夜を裂いた。


 トロールの右膝から下が、斬り飛ばされた。巨体が大きく揺らぐ。


 同時に限界まで魔力を流し込まれていた剣が、甲高い音を立てて砕け散った。破片が夜の森へ飛び散る。


「<ファイアー・ボール>」


 間髪入れず、グレーテの魔法が炸裂した。


 炎が足の切断面へ直撃する。肉の焼ける臭いが広がり、赤黒く炭化した断面から煙が立ち上った。


 トロールが苦痛の咆哮を上げる。地面を転がるように暴れ回るが、焼かれた右脚は再生しなかった。


「お手柄ですね、メルちゃん」


 グレーテが警戒を解かないまま近づいてくる。


「あ、ああ……」


 メルは息を荒げながら答えた。頭がくらくらする。急激に魔力を使いすぎた反動だった。視界が少し揺れる。


 それでも、まだ立てる。魔力も半分ほどは残っていた。


「このトロールは、しばらく動けなさそうですね。このまま放っておいて、先を急ぎましょう」


 グレーテがトロールを見ながら言う。


「メルちゃんは大丈夫ですか?」


「平気だ」


 メルは自分の頬を軽く叩いた。鈍い痛みで意識を無理やり引き戻す。


「洞窟に向かおう」


 砕けた剣の柄を放り捨て、腰のもう一本へ手をかける。


「それにしても、グレーテって強いんだな。本当に一人でも倒せそうだったし……」


 グレーテは少し困ったように笑った。


「メルちゃんこそ、すごかったですよ。特に最後の一撃」


「あれは、リベルタにやるなって言われてるんだけどな」


 洞窟の前まで来る。


「あたしが先に行く。グレーテは後ろからついてきてくれ」

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