23:屋敷
メルが目を覚ますと、知らない天井が視界に映った。
藁ではない、柔らかな感触が背中を包んでいる。こんな寝床で眠った記憶はない。反射的に上体を起こした。身につけているのは清潔な青白い服で、肩にあったはずの傷は消えている。痛みもなかった。
「……は?」
理解が追いつかなかった。助かったのだろうか。部屋を見回す。広い部屋だった。木目の綺麗な家具、美麗な模様の絨毯、大きなベッド、どれもこれもが豪華だった。
あの後、どうなった。フォルクは。シャルは。ヴォルフは。そこまで考えた瞬間、不意に扉がこんこんと叩かれた。メルの身体がびくりと震える。
「っ……!」
反射的にベッドから飛び起き、扉を睨みつけた。
「だ、誰だ!」
思わず声が強張る。すると、扉の向こうから落ち着いた女の声が返ってきた。
「お目覚めになられたのですね。私はこの屋敷で雇われているメイドでございます。入ってもよろしいでしょうか?」
メルは返事をしなかった。代わりに窓際まで移動し、外を確認する。眼下には朝の街並みが広がっていた。かなり高い場所にある部屋らしい。飛び降りられなくはないが、無事では済まない高さだった。
「フォルク様から事情は聞いておりま──」
「フォルクは無事なのか!?」
反射的に大きな声が出た。扉の向こうで一瞬だけ間が空く。
「はい。メル様をここまで運んでこられたのは、フォルク様だと聞いております」
その言葉に、メルはわずかに肩の力を抜いた。
「他のやつらは……シャルは、ヴォルフはどうなったんだ」
「……こちらへ来られたのは、お二方だけだと聞いております」
メルは唇を噛んだ。
「……フォルクと会わせてくれ」
「分かりました。お連れしますので、少々お待ちください」
扉の向こうから足音が遠ざかっていく。助けられたのは事実だ。しかし、メルは誰も信用していなかった。ここは人間の街のどこかだ。人間なんて、信用できない。
「人間なんて……」
呟いた直後、勢いよく扉が開かれた。
「メル!?大丈夫か!?」
入ってきたのはフォルクだった。仕立てのいい服を着せられているが、見間違えるはずもない。不安そうな顔で、おずおずとこちらへ近づいてくる。
メルはほっと息を吐いた。
「あたしは大丈夫だ。フォルクも無事でよかった」
フォルクはメルの目の前まで来て立ち止まる。しかし、その表情は晴れない。
「……ほんとに大丈夫か?俺、あの時怖かったんだ。メルが……メルじゃなくなったみたいで」
メルは思い出す。肉を突き刺した感触。温かい血が手にまとわりつく感覚。視線を落とす。そこにあるのは、人間を殺した手だった。
そう、自分は敵を討ったのだ。復讐を果たした。フォルクも助かった。
なのに、胸の中は少しも晴れていなかった。残ったのは虚しさと、消えない人間への憎しみだけだ。
「メル……?」
心配そうにフォルクが覗き込んでくる。メルははっとして顔を上げた。
「あれから、どうなったんだ?」
メルがそう尋ねると、フォルクは少し視線を落とした。
「……あのあと、メルを背負って森を走ったんだ。どうにか助けたくて……そしたら途中でロッテっていう角人と会って、その人がメルを治療してくれたんだ」
「そうか……」
そこで言葉が止まる。本当は聞きたくなかった。だが、聞かなければならないことがあった。
「……隠れ家は、どうなったんだ?」
フォルクの肩がびくりと震える。目に見えて表情が暗くなり、そのまま俯いてしまった。メルは小さく息を吐く。フォルクも思い出したくないのだろう。無理に聞き出す気にはなれなかった。
「……ここはどこなんだ?そのツノビトの家か?」
無理やり話題を変えると、フォルクははっとしたように顔を上げた。
「あ、ああ。ロッテの主人のフェルディナント……さんの屋敷だ」
「主人?」
その単語に、メルの声が低くなる。フォルクは慌てたように両手を振った。
「お、落ち着いて聞いてほしいんだけど、ここには色んな種族の人がいるんだ。その……フェルディナントさんのところで働いてる」
一瞬、言葉を濁す。
「表向きは、奴隷ってことになってるけど……」
その瞬間、メルから漏れた殺気に、フォルクが思わず一歩下がった。
「だ、大丈夫だって!本当にひどいことされてないんだ!俺とメルのことだって助けてくれたじゃないか!」
事実だった。だが、それだけで割り切れるほど、メルの中の人間への憎しみは薄くない。フォルクは必死な様子で続ける。
「前にボスが言ってたんだ。この街で唯一信頼できる人間がいるって。いつもそこから情報を仕入れてるってさ」
「ヴォルフが……」
「だから、メルを助けてもらうならここしかないと思って、俺、この屋敷まで走ってたんだ」
ヴォルフの名前を聞き、胸の中の警戒がほんの少しだけ薄れる。
「それに、ボスが助けた獣人以外の奴隷も、ここで匿ってるらしいんだ。表向きは奴隷だけど、本当に信頼できる人間なんだと思う」
「……」
メルはすぐには返事をしなかった。フォルクは不安そうにこちらを見つめている。
「……俺と一緒に、フェルディナントさんと話してみないか?」
少し迷ったあと、メルは小さく頷いた。
「……わかった」
◇
フォルクに案内され、メルは屋敷の廊下を歩いていた。
磨かれた床は歩くたびに靴音を静かに響かせ、壁には見たこともない絵画や装飾品が並んでいる。こんな場所にいるだけで落ち着かなかった。
やがて、一つの大きな扉の前でフォルクが足を止める。中からは複数の気配が感じ取れた。それに混じって、腹をくすぐるような温かい匂いも漂ってくる。
フォルクが扉をこんこんと叩いた。しばらく待つ間もなく、静かに扉が開かれる。
出てきたのは、人間ではなかった。
長い耳。短く整えられた緑色の髪。メルより少し背の高い少女で、整った顔立ちに黒と白を基調としたメイド服を身につけている。
「おはようございます、フォルク様、メル様。お二人の朝食を用意しております。どうぞ中へ」
起きた時に扉越しで聞いた、あの落ち着いた声だった。
「ありがとう、マルガレーテ」
フォルクがそう礼を言うと、そのメイド──マルガレーテは柔らかく微笑む。
メルとフォルクが部屋へ入る。そこは食堂のようだった。広い部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、その周囲に三人の人影が座っている。
一人は、テーブルの奥に腰掛けている人間の男だった。黒髪を短く刈り揃えた初老の男で、落ち着いた雰囲気を纏っている。おそらく、この男がフォルクの言っていたフェルディナントなのだろう。
一人は、額から二本の角を生やした少女だった。空色の髪を突き破るように角が伸びている。メルよりもかなり小柄で、少女というより幼女と言ったほうがしっくりくる。ロッテという角人は、この子供のことなのかもしれない。
一人は、その二人から少し離れた場所に座っている背の低い男だった。長い髭を蓄え、右目には眼帯をしている。酒の匂いを漂わせながら椅子へふんぞり返っている。
「おはようございます、メル殿。体調のほうはいかがですかな?」
テーブルの奥に座る人間が、にこやかな表情で話しかけてきた。
「あんたが、フェルディナントか?」
警戒を隠さない声音だった。
その言葉遣いに、後ろに控えていたマルガレーテがわずかに反応する。しかし、フェルディナント本人は気を悪くした様子もなく、穏やかな態度のまま頷いた。
「いかにも。私がフェルディナント、この屋敷の主人であります」
そう言うと、彼はテーブルへ軽く手を向ける。
「立ち話も何ですし、まずは食事でもしながらお話ししませんかな?」
マルガレーテが静かに歩み寄り、用意されていた席の椅子を引いた。フォルクが先に腰を下ろし、その様子を見てから、メルもしぶしぶ席につく。
「話ってのは何だ?言っとくけど、あたしはあんたの奴隷になるつもりはないぞ」
敵意を隠そうともせず、きっぱりと言い切る。一瞬、食堂の空気が静まった。その直後、くくっと堪えきれないような笑い声が響く。
「残念だったのお、フェルディナント。何も言わんうちから振られてしもうたわ」
笑っていたのは、角の生えた幼い少女だった。小さな手で口元を隠しながら、面白そうに肩を震わせている。見た目に似合わず、妙に年寄りじみた口調だった。
「……あの、メル様。フェルディナント様への態度は、もう少し──」
マルガレーテが困ったように口を開く。しかし、フェルディナントは軽く手を上げてそれを制した。
「よいのです、マルガレーテ」
穏やかな声だった。
「メル殿の身に起きたことを考えれば、私に敵意を向けるのも当然でしょう。それでも、こうして話を聞いてくださっているだけで十分ですよ」
フェルディナントは穏やかな表情のまま、改めてメルへ向き直った。
「私のほうから、何かを強制するつもりはありません。ただ、一つだけお願いがあるのです」
「……なんだよ」
「メル殿には、しばらくこの屋敷で生活していただきたいのです」
メルは眉をひそめる。
「なんで、あたしなんだ?」
「私は、人間と異種族が共に生きられるようにしたいと考えております。もっとも、今の王国では理想論に過ぎませんが……」
フェルディナントは苦笑気味に肩をすくめた。
「自分で言うのも何ですが、私は王国でもそれなりに影響力を持つ貴族です。その立場を利用して、この屋敷では多くの異種族を雇っています」
視線をマルガレーテやロッテへ向ける。
「異種族とも信頼関係を築けるのだと、周囲へ示すためです」
そして、少しだけ真面目な声音になった。
「最終的には、異種族の奴隷制度そのものをなくしたい。そのために、メル殿にも協力していただければと思っているのです」
メルは黙り込む。
確かに、この男は異種族たちと自然に接していた。マルガレーテの態度からも、無理やり従わされているようには見えない。
それでも、どうしても譲れないものがあった。
「……治療してもらった分くらいは、ここで働いて返す」
フェルディナントは少し意外そうに目を瞬かせた。
「それはありがたい申し出ですが、そこまで気にしなくても構いませんよ。客人としてここにいてくださるだけでも、私としては十分です」
「施されるだけってのは、あたしが嫌なんだ」
きっぱりと言い切る。
それを聞いて、角の生えた幼い少女面白そうに視線をメルへと向けた。
「フォルク殿も似たようなことを言っておりましたな。“恩は返さないと落ち着かない”と」
「え?あ、ああ……そう、ですね」
フォルクがぎこちない敬語で頷く。フェルディナントは小さく笑ったあと、改めてメルへ問いかけた。
「ですが、ずっとここにいてくださるわけではないのですかな?」
「治療の分を返したら出ていく」
迷いのない返答だった。フェルディナントは少し考え込むように顎へ手を当てる。
「こう言っては何ですが、人間以外の種族がこの街で生きていくのは簡単ではありません。ここにいれば、安全も生活も保証できます。それでも、外へ出るつもりですかな?」
「そんなこと、分かってる」
メルはフェルディナントを真っ直ぐ睨み返した。
「でも、このままじゃ駄目なんだ」
胸の奥に焼き付いているのは、あの夜の光景だった。
ヴォルフですら歯が立たなかった人間──ナハトという騎士。あの圧倒的な強さを前に、自分は何もできなかった。ただ守られることしかできなかった。
「……もっと、強くならないといけない」
ルナを守れなかった。フォルクだって、ほんの少し状況が違えば死んでいたかもしれない。弱いままでは、また誰かを失う。その思いだけが、今のメルを突き動かしていた。
フェルディナントはしばらく黙ってメルを見つめていたが、やがて静かに頷く。
「なるほど。でしたら、一つ提案があります」
「提案?」
「ええ。この屋敷で働くことの対価として、メル殿が強くなるための援助をさせていただくというのはどうでしょうか?」
メルは眉をひそめた。
「援助って、何するんだ?」
フェルディナントはテーブルの端へ視線を向ける。そこには、小柄な男が椅子へ深く腰掛け、瓶を傾けて酒を飲んでいた。
酒の匂いがここまで漂ってきて、メルは思わず顔をしかめる。
「彼は私の護衛を務めているドワーフ、リベルタです」
紹介されたドワーフは、ちょうど瓶の中身を飲み干したところだった。満足そうに息を吐いたあと、盛大にげっぷをする。
メルの表情がさらに険しくなった。
「昔は衛兵の教官をしていた人物でしてな。戦い方を教えることには慣れているはずです。彼に、時間のある時にでもメル殿へ稽古をつけてもらおうかと」
リベルタは空になった瓶を机へ置き、次の酒へ手を伸ばす。しかし、その直前でマルガレーテが瓶を取り上げた。
「……フェルディナント様の護衛に支障が出ますよ」
「むう……」
不満そうに唸るドワーフを見ながら、メルは半眼になる。
「……本当に大丈夫なのか、こいつ」




