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グリモワール  作者: えんぺら
第一章:赤く染まる
21/30

21:獣

 ヴォルフは目の前の人間には勝てないと理解していた。


 星空を閉じ込めたような剣閃が、夜の森を静かに切り裂く。その度にヴォルフの傷は増えていく。息も上がっていく。


 だが、目の前の騎士──ナハトには、息の乱れすら見えない。自分以上の化け物だ、とヴォルフは思った。それと同時に、懐かしさも感じていた。母親を思い出す。


 まだ小さかった頃。森の中で暮らしていた自分に、人間の国の話をしてくれた獣人の女戦士。傭兵として人間の国で戦っていた母は、ヴォルフに色々なことを教えてくれた。剣の振り方。戦い方。そして──人間の恐ろしさ。


 ヴォルフは傷を負いながらも笑った。怖い。死ぬかもしれない。そう思うたびに、心臓が嫌な音を立てる。




 ヴォルフは元々、奴隷ではない。




 森の中で、仲間たちと静かに暮らしていた。ただそれだけだった。ある日、たまたま奴隷商の馬車を見つけた。泣き叫ぶ獣人の子供がいて。鎖につながれていて。


 気が付けば、斧を振るっていた。


 そこからだった。一人助ければ、また一人助けることになる。仲間が増えた。いつの間にか、ボスと呼ばれるようになっていた。本当は、人間は怖い。戦うのも怖い。リーダーになりたかったわけでもない。


 だが、それでも。あいつらが自分を頼ってくれるのなら。



 笑顔は恐怖を隠してくれる。


 大声は自信のなさを誤魔化してくれる。



 ナハトの剣が迫る。ヴォルフは身体をひねり、紙一重で回避した。頬が浅く裂ける。


 ヴォルフは、戦い方を変えていた。勝つためではなく、時間を稼ぐための戦い。仲間を逃がすための戦いだ。


 死ぬのは怖い。だが、失うのはもっと怖かった。


 シャル。フォルク。メル。あの洞窟で笑っていた仲間たち。


 ようやく見つけた居場所。それを失うほうが、ずっと恐ろしい。


 ヴォルフは倒れそうになる身体を無理やり支えた。呼吸が荒い。魔力も、もうほとんど残っていない。それでも斧を握る。


 戦斧が唸りを上げる。ナハトの剣がそれを受け流す。だが、その瞬間。ナハトの頬に、一筋の赤い線が走った。ナハトの目が、僅かに細まる。


 ヴォルフは獰猛に笑った。まだ終わっていない。まだ二本の足で立っている


 最後まで──死ぬまで戦うつもりだった。




     ◇




 メルは地面を蹴っていた。考えるより先に身体が動く。


 ルナの死体。血まみれの仲間たち。シャル。フォルク。


 胸の中に渦巻く感情を、そのまま剣へ乗せて振り抜く。初めてだった。明確な殺意を持って、誰かを斬ろうとしたのは。


 しかし、その一撃は空を切る。女は紙一重で身をひねり、まるで踊るような動きで後方へ下がっていた。


「いいですねぇ。その殺意」


 仮面の奥から、愉快そうな声が漏れる。


「ぞくぞくしちゃいますよお。仲間を殺されて怒っちゃいましたかあ?」


 挑発するような口調だった。殺気を向けられているにもかかわらず、怯えるどころか楽しんでいる。その態度が、さらにメルの神経を逆撫でした。無言のまま踏み込み、連続で剣を振るう。


 喉。腕。足。急所や関節を狙って斬撃を放つが、そのすべてを女はひらりひらりと回避していく。


「あー、あなた弱いですねえ」


 余裕のある声色でそう言って、笑う。


「さっきまでの獣たちのほうが、もう少し楽しめましたよお」


 そんなことは分かっている。それでも。こいつだけは、どうしても許せなかった。


「……なんで、こんなことをする?」


「ん?」


 女は不思議そうに首を傾げる。


「ああ、失礼しました。自己紹介がまだでしたねえ」


 女は芝居がかった動きで裾を摘み、大げさに一礼した。


「私の名前はカタリナ。異種族排除派──」


 最後まで聞く気はなかった。メルは地面を蹴り、真正面から剣を叩き込む。甲高い音が響いた。


 ナイフ一本で受け止められている。女──カタリナは衝撃を流すように後ろへ飛び退き、距離を取った。


「野蛮ですねえ。挨拶の途中で攻撃してくるなんて」


 仮面の奥から、くすくすと笑い声が漏れる。


「やはり所詮は獣ですか」


「死ね」


 メルが踏み込もうとした瞬間、カタリナの腕がしなる。


 ナイフが一直線に飛んできた。咄嗟に首を傾ける。銀の刃が頬のすぐ横を掠め、後ろの木へ突き刺さった。


「まだまだ行きますよお」


 カタリナがクロークを翻す。その内側には、無数のナイフが仕込まれていた。


 次々と刃が放たれる。木々の隙間を縫うように飛んでくる凶器を、メルは必死に回避した。


 一本がすぐ横の幹へ突き刺さる。目を向けると、刃には粘ついた液体が塗られていた。


 毒。


 かすっただけでも危険だと、本能で理解する。メルは息を整えながら、カタリナを睨みつけた。さっきの打ち合いで分かった。単純な力だけなら、自分のほうが上だ。


 だが、正面からでは当たらない。しかも、あちらには投擲武器がある。距離を離されるほど不利になる。


 どちらが先に一撃を通せるか。これはそういう勝負だった。


 メルは低く身を沈めると、一気に木へ飛び乗る。枝を蹴り、さらに別の木へ。木々の上を飛び移りながら、メルは攻撃の隙を窺う。


「その動き、本当に獣ですねえ」


 カタリナが愉快そうに笑った直後、またナイフが放たれた。


 しかし、すでにそこにメルの姿はない。枝を蹴り、別の木へ飛び移っている。


 カタリナはメルの移動先を読んで偏差撃ちしてきた。だが、それでも当たらない。獣人特有の身体能力と、森で育った感覚。その両方が、辛うじて刃を避けさせていた。


 やがて、カタリナが面倒くさそうに肩をすくめる。


「こんなんじゃ楽しくありませんよ。あなたも楽しくないでしょう?動き、鈍ってきてますし」


 図星だった。いつかは当たる。だが、あのナイフも無限ではない。確実に、ここで仕留める。メルは木の上から、じっとカタリナを睨み続けた。


「はあ……もういいです」


 カタリナが呟き、ふいにメルから視線を外す。その先にいたのは──フォルクだった。


 シャルの身体を抱え込み、その場に座り込んでいる。メルの顔色が変わった。


「フォルク!」


 一気に木から飛び降りる。同時に、ナイフが放たれた。フォルクが動く気配はない。


 何とか間に合う。剣で最初の一本を弾き飛ばす。だが、二本目までは防ぎ切れなかった。


「っ!」


 鋭い痛みが左肩を貫く。ナイフが深々と突き刺さっていた。まずい。傷そのものより、毒のほうが危険だ。


「うーん。納得はいきませんが、終わりにしましょうか」


 カタリナがゆっくり歩み寄ってくる。


「ヨハネスは先に帰ってしまったみたいですし」


「……メル?」


 後ろからフォルクの不安そうな声が聞こえた。しかし、その声が妙に遠い。


 メルは、自分の平衡感覚が狂い始めているのを理解する。視界が揺れる。距離感が上手く掴めない。


「お、おい……メル、肩から血が……」


 フォルクの声が震えていた。メルは荒く息を吐く。


「……あたしが、時間を稼ぐ……お前は、早く逃げろ……」


 どうせ殺されるなら。最後くらいは。メルは覚悟を決め、カタリナを睨みつけた。


 その眼を見た瞬間、カタリナが歓喜したように肩を震わせる。


「ああ!いいです!その表情!その殺気!最高ですよ!」


 カタリナがナイフを投げ放つ。メルは雄叫びを上げながら、その刃へ真正面から突っ込んだ。


 相打ち覚悟だった。時間がゆっくり流れる。


 飛来するナイフ。こちらを見つめるカタリナの歪んだ笑み。


 そして──後ろから、か細い呟き声が聞こえた。次の瞬間。







 空中で、ナイフが静止する。






 まるで見えない手で掴まれたかのように。


 カタリナの動きが僅かに止まった。


「シャル!?」


 フォルクの叫び声が響く。


 何が起きたのか、メルには分からなかった。だが、今しかない。


 メルは全身の力を右腕へ込め、剣を上段から叩き落とした。カタリナが咄嗟にナイフで受ける。だが、耐え切れない。


 鈍い音を立ててナイフが砕け、そのまま剣が獣の頭蓋骨めいた仮面へ食い込んだ。


 仮面が割れ素顔が現れる。


「っ……!獣風情が!」


 額から血を流しながら、カタリナがふらつく。致命傷ではない。それでも、確実に動きは鈍っていた。顔が苦痛に歪んでいる。


「覚えておくのですね……!いつか必ず──」


 そこまで言いかけた瞬間だった。カタリナの視線が、メルの後方へ向く。


 次の瞬間、剣が一直線に飛んできた。フォルクが投げたのだろう。カタリナは危なげに剣を回避する。だが、大きく体勢を崩した。


 フォルクが何かを叫んでいる。だが、もうメルにはよく聞こえなかった。


 殺さなくては。


 その一心だけが、身体を動かしていた。


 剣を構えようとして──重い。指先に力が入らない。


 メルは剣を捨てた。代わりに、肩へ刺さったナイフを引き抜く。熱い血が噴き出す。


 目の前では、カタリナが恐怖の表情を浮かべていた。何かを喋っている。しかし、聞こえない。


 カタリナが足をもつれさせ、地面へ転がった。


 メルはその上へ馬乗りになる。


 そして、ナイフを振り下ろした。


 突き立てる。突き立てる。突き立てる。


 何度も。何度も。


 血が飛び散り、温かい感触が腕へまとわりつく。


 





 意識が暗転する中、最後に目へ映ったのは自分を止めようとする、泣いているフォルクの姿だった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

これにて第一章終了となります。


少しでも「続きを読みたい」「面白い」と感じていただけましたら、☆、リアクション、ブックマーク、感想などで応援していただけると、とても励みになります。


完結を目指して引き続き執筆して参りますので、今後とも『グリモワール』をよろしくお願いいたします。

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