21:獣
ヴォルフは目の前の人間には勝てないと理解していた。
星空を閉じ込めたような剣閃が、夜の森を静かに切り裂く。その度にヴォルフの傷は増えていく。息も上がっていく。
だが、目の前の騎士──ナハトには、息の乱れすら見えない。自分以上の化け物だ、とヴォルフは思った。それと同時に、懐かしさも感じていた。母親を思い出す。
まだ小さかった頃。森の中で暮らしていた自分に、人間の国の話をしてくれた獣人の女戦士。傭兵として人間の国で戦っていた母は、ヴォルフに色々なことを教えてくれた。剣の振り方。戦い方。そして──人間の恐ろしさ。
ヴォルフは傷を負いながらも笑った。怖い。死ぬかもしれない。そう思うたびに、心臓が嫌な音を立てる。
ヴォルフは元々、奴隷ではない。
森の中で、仲間たちと静かに暮らしていた。ただそれだけだった。ある日、たまたま奴隷商の馬車を見つけた。泣き叫ぶ獣人の子供がいて。鎖につながれていて。
気が付けば、斧を振るっていた。
そこからだった。一人助ければ、また一人助けることになる。仲間が増えた。いつの間にか、ボスと呼ばれるようになっていた。本当は、人間は怖い。戦うのも怖い。リーダーになりたかったわけでもない。
だが、それでも。あいつらが自分を頼ってくれるのなら。
笑顔は恐怖を隠してくれる。
大声は自信のなさを誤魔化してくれる。
ナハトの剣が迫る。ヴォルフは身体をひねり、紙一重で回避した。頬が浅く裂ける。
ヴォルフは、戦い方を変えていた。勝つためではなく、時間を稼ぐための戦い。仲間を逃がすための戦いだ。
死ぬのは怖い。だが、失うのはもっと怖かった。
シャル。フォルク。メル。あの洞窟で笑っていた仲間たち。
ようやく見つけた居場所。それを失うほうが、ずっと恐ろしい。
ヴォルフは倒れそうになる身体を無理やり支えた。呼吸が荒い。魔力も、もうほとんど残っていない。それでも斧を握る。
戦斧が唸りを上げる。ナハトの剣がそれを受け流す。だが、その瞬間。ナハトの頬に、一筋の赤い線が走った。ナハトの目が、僅かに細まる。
ヴォルフは獰猛に笑った。まだ終わっていない。まだ二本の足で立っている
最後まで──死ぬまで戦うつもりだった。
◇
メルは地面を蹴っていた。考えるより先に身体が動く。
ルナの死体。血まみれの仲間たち。シャル。フォルク。
胸の中に渦巻く感情を、そのまま剣へ乗せて振り抜く。初めてだった。明確な殺意を持って、誰かを斬ろうとしたのは。
しかし、その一撃は空を切る。女は紙一重で身をひねり、まるで踊るような動きで後方へ下がっていた。
「いいですねぇ。その殺意」
仮面の奥から、愉快そうな声が漏れる。
「ぞくぞくしちゃいますよお。仲間を殺されて怒っちゃいましたかあ?」
挑発するような口調だった。殺気を向けられているにもかかわらず、怯えるどころか楽しんでいる。その態度が、さらにメルの神経を逆撫でした。無言のまま踏み込み、連続で剣を振るう。
喉。腕。足。急所や関節を狙って斬撃を放つが、そのすべてを女はひらりひらりと回避していく。
「あー、あなた弱いですねえ」
余裕のある声色でそう言って、笑う。
「さっきまでの獣たちのほうが、もう少し楽しめましたよお」
そんなことは分かっている。それでも。こいつだけは、どうしても許せなかった。
「……なんで、こんなことをする?」
「ん?」
女は不思議そうに首を傾げる。
「ああ、失礼しました。自己紹介がまだでしたねえ」
女は芝居がかった動きで裾を摘み、大げさに一礼した。
「私の名前はカタリナ。異種族排除派──」
最後まで聞く気はなかった。メルは地面を蹴り、真正面から剣を叩き込む。甲高い音が響いた。
ナイフ一本で受け止められている。女──カタリナは衝撃を流すように後ろへ飛び退き、距離を取った。
「野蛮ですねえ。挨拶の途中で攻撃してくるなんて」
仮面の奥から、くすくすと笑い声が漏れる。
「やはり所詮は獣ですか」
「死ね」
メルが踏み込もうとした瞬間、カタリナの腕がしなる。
ナイフが一直線に飛んできた。咄嗟に首を傾ける。銀の刃が頬のすぐ横を掠め、後ろの木へ突き刺さった。
「まだまだ行きますよお」
カタリナがクロークを翻す。その内側には、無数のナイフが仕込まれていた。
次々と刃が放たれる。木々の隙間を縫うように飛んでくる凶器を、メルは必死に回避した。
一本がすぐ横の幹へ突き刺さる。目を向けると、刃には粘ついた液体が塗られていた。
毒。
かすっただけでも危険だと、本能で理解する。メルは息を整えながら、カタリナを睨みつけた。さっきの打ち合いで分かった。単純な力だけなら、自分のほうが上だ。
だが、正面からでは当たらない。しかも、あちらには投擲武器がある。距離を離されるほど不利になる。
どちらが先に一撃を通せるか。これはそういう勝負だった。
メルは低く身を沈めると、一気に木へ飛び乗る。枝を蹴り、さらに別の木へ。木々の上を飛び移りながら、メルは攻撃の隙を窺う。
「その動き、本当に獣ですねえ」
カタリナが愉快そうに笑った直後、またナイフが放たれた。
しかし、すでにそこにメルの姿はない。枝を蹴り、別の木へ飛び移っている。
カタリナはメルの移動先を読んで偏差撃ちしてきた。だが、それでも当たらない。獣人特有の身体能力と、森で育った感覚。その両方が、辛うじて刃を避けさせていた。
やがて、カタリナが面倒くさそうに肩をすくめる。
「こんなんじゃ楽しくありませんよ。あなたも楽しくないでしょう?動き、鈍ってきてますし」
図星だった。いつかは当たる。だが、あのナイフも無限ではない。確実に、ここで仕留める。メルは木の上から、じっとカタリナを睨み続けた。
「はあ……もういいです」
カタリナが呟き、ふいにメルから視線を外す。その先にいたのは──フォルクだった。
シャルの身体を抱え込み、その場に座り込んでいる。メルの顔色が変わった。
「フォルク!」
一気に木から飛び降りる。同時に、ナイフが放たれた。フォルクが動く気配はない。
何とか間に合う。剣で最初の一本を弾き飛ばす。だが、二本目までは防ぎ切れなかった。
「っ!」
鋭い痛みが左肩を貫く。ナイフが深々と突き刺さっていた。まずい。傷そのものより、毒のほうが危険だ。
「うーん。納得はいきませんが、終わりにしましょうか」
カタリナがゆっくり歩み寄ってくる。
「ヨハネスは先に帰ってしまったみたいですし」
「……メル?」
後ろからフォルクの不安そうな声が聞こえた。しかし、その声が妙に遠い。
メルは、自分の平衡感覚が狂い始めているのを理解する。視界が揺れる。距離感が上手く掴めない。
「お、おい……メル、肩から血が……」
フォルクの声が震えていた。メルは荒く息を吐く。
「……あたしが、時間を稼ぐ……お前は、早く逃げろ……」
どうせ殺されるなら。最後くらいは。メルは覚悟を決め、カタリナを睨みつけた。
その眼を見た瞬間、カタリナが歓喜したように肩を震わせる。
「ああ!いいです!その表情!その殺気!最高ですよ!」
カタリナがナイフを投げ放つ。メルは雄叫びを上げながら、その刃へ真正面から突っ込んだ。
相打ち覚悟だった。時間がゆっくり流れる。
飛来するナイフ。こちらを見つめるカタリナの歪んだ笑み。
そして──後ろから、か細い呟き声が聞こえた。次の瞬間。
空中で、ナイフが静止する。
まるで見えない手で掴まれたかのように。
カタリナの動きが僅かに止まった。
「シャル!?」
フォルクの叫び声が響く。
何が起きたのか、メルには分からなかった。だが、今しかない。
メルは全身の力を右腕へ込め、剣を上段から叩き落とした。カタリナが咄嗟にナイフで受ける。だが、耐え切れない。
鈍い音を立ててナイフが砕け、そのまま剣が獣の頭蓋骨めいた仮面へ食い込んだ。
仮面が割れ素顔が現れる。
「っ……!獣風情が!」
額から血を流しながら、カタリナがふらつく。致命傷ではない。それでも、確実に動きは鈍っていた。顔が苦痛に歪んでいる。
「覚えておくのですね……!いつか必ず──」
そこまで言いかけた瞬間だった。カタリナの視線が、メルの後方へ向く。
次の瞬間、剣が一直線に飛んできた。フォルクが投げたのだろう。カタリナは危なげに剣を回避する。だが、大きく体勢を崩した。
フォルクが何かを叫んでいる。だが、もうメルにはよく聞こえなかった。
殺さなくては。
その一心だけが、身体を動かしていた。
剣を構えようとして──重い。指先に力が入らない。
メルは剣を捨てた。代わりに、肩へ刺さったナイフを引き抜く。熱い血が噴き出す。
目の前では、カタリナが恐怖の表情を浮かべていた。何かを喋っている。しかし、聞こえない。
カタリナが足をもつれさせ、地面へ転がった。
メルはその上へ馬乗りになる。
そして、ナイフを振り下ろした。
突き立てる。突き立てる。突き立てる。
何度も。何度も。
血が飛び散り、温かい感触が腕へまとわりつく。
意識が暗転する中、最後に目へ映ったのは自分を止めようとする、泣いているフォルクの姿だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて第一章終了となります。
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完結を目指して引き続き執筆して参りますので、今後とも『グリモワール』をよろしくお願いいたします。




