20:星剣
暴風が森を揺らす。
ヴォルフの戦斧が振るわれるたびに、騎士たちは吹き飛ばされ、木々が軋んだ。
騎士が体勢を立て直す前に、ヴォルフは地面を踏み砕く勢いで踏み込み、戦斧を横薙ぎに振るう。凄まじい風圧が騎士をまとめて飲み込み、二人の騎士が木へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
鎧が軋み、骨の折れる嫌な音が響く。
ヴォルフは止まらない。吹き飛ばされた騎士の一人へ肉薄すると、そのまま戦斧を振り下ろした。騎士は咄嗟に剣を差し込むが、耐えきれない。轟音と共に地面が陥没し、騎士の身体が土煙へ沈んだ。
残った騎士の顔に、明確な恐怖が浮かぶ。
「化け物め……!」
「今さら気づいたのか!」
ヴォルフが獰猛に笑う。その横を、シャルが負傷した獣人を肩へ担ぎながら駆け抜けていった。
「ボス!子供たちは確保したわ!」
「ああ!先に行け!」
シャルの後ろでは、他の獣人たちが怯える奴隷たちを連れて撤退を始めている。
ヴォルフは周囲へ視線を走らせた。立っている騎士は、残り一人。それも満身創痍だ。肩で荒く息をしながら、それでも剣だけは落としていない。
勝った。
そう判断した、その時だった。遠くから、馬の蹄の音が響く。ヴォルフの耳がぴくりと動いた。
聞こえる音は一頭分のみ。人間たちの援軍にしては少なすぎる。それが返って不気味だった。
「……二人ともよくやった!あとは俺に任せて皆と一緒に先に返れ!」
ヴォルフは未だに撤退しないメルとフォルクに向けて言った。
「ボス?」
フォルクが駆け寄ってくる。
「でも、もう勝てるだろ?こっちに来てるのだって一人みたいだし」
「ああ!だが仲間はもう開放した!これ以上戦う意味はない!」
「逃げるなら、ボスも一緒に逃げよう!」
フォルクが必死に説得する。だが、ヴォルフは答えない。その視線は、街道の先へ釘付けになっていた。
夜の闇の中を、一頭の馬が駆けてくる。乗っているのは、金髪の女騎士だった。白銀の鎧。藍色のマント。腰には細身の剣。
距離はまだ遠い。なのに、ヴォルフの背筋を冷たいものが走っていた。本能が警鐘を鳴らしている。
女騎士は感情のない目で、こちらを見据えていた。まるで最初から、誰を斬るべきか決まっているかのような視線だった。
メルもその異様さを感じ取っていた。
「……なんだ、あいつ」
空気が変わった。それまでの騒がしい戦場が、一瞬で静まり返ったように感じる。ヴォルフは短く息を吐くと、メルへ視線を向けた。
「メル!」
「な、なんだよ」
「フォルクを連れて逃げろ!」
メルが目を見開く。
「何言ってんだ!一緒に──」
「行け!」
その声音に、メルは言葉を失う。ヴォルフは、あの豪快な笑みを消していた。ヴォルフは、近くにいたフォルクとメルを後方へ突き飛ばす。
「ボス!」
「フォルク」
ヴォルフはちらりとだけ視線を向けた。
「仲間を守れ」
その言葉に、フォルクの顔が歪む。怒鳴るわけでもない。だが、逆らえない声だった。
「で、でも……!」
その時。最後まで立っていた騎士が、安堵したように叫ぶ。
「ナハト隊長!」
女騎士──ナハトが馬から降りる。無駄のない動作だった。土を踏む音だけが静かに響く。
「よく耐えた」
ナハトが淡々と言う。
「あとは私に任せろ」
騎士が、救われたような顔を浮かべる。ナハトはゆっくりと腰の剣へ手をかけた。
刃が現れた瞬間、メルは息を呑んだ。
星空を、そのまま切り取ったような刀身だった。夜空のように深い蒼。その中で、無数の星が瞬いている。剣の中に、夜が閉じ込められていた。
ナハトが一歩踏み込む。次の瞬間には、もう剣がヴォルフの眼前まで迫っていた。
「っ!」
ヴォルフは咄嗟に戦斧を持ち上げる。だが、衝撃は来ない。
ナハトの剣は戦斧へ触れる寸前で軌道を変え、するりと刃の横を滑っていた。夜風のように静かな剣筋が、ヴォルフの肩口を浅く切り裂く。
血が舞った。ヴォルフは即座に距離を取る。しかし、その動きに合わせるようにナハトも前へ出る。
速い。だが、それ以上に無駄がない。堅実で、冷たく、まるで夜の冷気そのものが刃になったような剣舞。
ヴォルフが戦斧を振るう。暴風をまとった一撃が木々を揺らしながら唸りを上げた。しかし、ナハトは真正面から受けない。
最小限の動きで刃を滑らせ、力を横へ逃がす。戦斧は空を裂き、後方の木を粉砕した。その隙へ、ナハトの剣が入り込む。
脇腹。太腿。肩。
浅い。だが確実な傷が増えていく。ヴォルフが舌打ちする。
金属音が響かない。それが不気味だった。
本来なら、武器同士がぶつかれば音が鳴る。しかしナハトの剣は、一度としてまともに戦斧を受けていない。
流している。すべて最適な角度で。最小限の力で。まるで、最初からヴォルフの動きが分かっているかのように。
「はっ!」
ヴォルフが吠えながら踏み込む。戦斧を連続で振り回し、暴風ごとナハトを飲み込もうとした。普通の戦士なら、まともに受ければ肉片になるほどの威力だ。
だが、ナハトは静かだった。夜空の剣が淡く軌跡を描く。そのたびにヴォルフの攻撃は逸らされ、空を切り、地面を砕くだけで終わる。そして必ず、その隙へ反撃が返ってきた。
「……っ!」
ヴォルフの頬へ浅い裂傷が走る。息が荒くなる。
一方で、ナハトには疲労の色がまるでない。呼吸すら乱れていなかった。ただ静かに、機械のように剣を振るい続けている。傷が増えていくのはヴォルフだけだった。
フォルクは、その光景を呆然と見つめていた。
「ボス……」
信じられなかった。
ヴォルフは最強だった。誰より強くて、誰より頼りになって、笑いながら人間を吹き飛ばす存在だった。
そのヴォルフが、押されている。いや、追い詰められている。
フォルクの足が震える。何かしなければ。
そう思うのに、身体が動かなかった。その腕を、メルが強く掴む。
「行くぞ!」
「で、でも!」
「今のあたしたちが行っても死ぬだけだ!わかってるだろ!」
メルが無理やり引っ張る。しかし次の瞬間、フォルクはその手を振り払って駆け出した。
向かった先には、先ほど吹き飛ばされて倒れていた騎士の一人がいる。まだ意識があった。
フォルクは震える手で剣を抜き、その騎士の首筋へ押し当てる。
「う、動くな!」
声が震えていた。
「動いたら、こいつを殺すぞ!」
騎士が目を見開く。
フォルクは必死だった。こうすれば、ナハトも止まると思った。
だが──ナハトは、一度たりともそちらを見なかった。
視線はヴォルフだけを捉えている。
剣が閃く。ヴォルフの腕へ、新たな傷が走った。
「なっ……」
フォルクの顔から血の気が引く。
人質を取ったのに。仲間の命を握っているのに。なぜ止まらない。
ナハトはただ淡々と剣を振るい続けていた。まるで最初から、誰が死のうと関係ないかのように。
その冷たさに、フォルクは初めて本物の恐怖を覚える。メルが再びフォルクの腕を掴んだ。
「行くぞ!」
「で、でもボスが……!」
「ヴォルフはあたしたちを逃がそうとしてるんだろ!」
フォルクが言葉を詰まらせる。
「ここでお前が死んだら、意味ないだろ!」
メルは半ば怒鳴るように言った。フォルクの目が揺れる。
後ろでは、再びヴォルフの血が宙へ散った。その光景を見て、フォルクは唇を噛み締める。
そして──震える手から、剣が下がった。
メルはその隙を逃さず、フォルクの腕を引いて森の中へ駆け出す。
「待って……!ボス……!」
フォルクの声が、夜の森へ響いた。
◇
森の中を、メルは駆けていた。
枝葉をかき分け、湿った地面を蹴り、転びそうになるフォルクの手を強く引く。向かう先は隠れ家だ。
後ろから追ってくる気配はない。ヴォルフの相手で手一杯なのだろう。
ヴォルフはどうなったのか。考えようとすると胸の奥がざわつく。隣を走るフォルクを見ると、何度も後ろを振り返っていた。
「……ボス」
漏れた声には、不安が滲んでいる。
当然だった。フォルクにとってヴォルフは、恩人で、憧れで、英雄なのだ。置いて逃げろと言われたからといって、すぐに割り切れるはずがない。
それでも、メルはフォルクの手を離さなかった。
今度こそは、絶対に守る。
歯を食いしばり、さらに速度を上げる。やがて風向きが変わった。その瞬間だった。
鼻を刺すような臭いが漂ってくる。血だ。しかも、かなり濃い。
メルの足が止まる。隣のフォルクも同時に表情を強張らせた。
「……なんだ、これ」
嫌な汗が背中を伝う。
匂いのするほうへ恐る恐る視線を向ける。木々の隙間。その先に、何かが倒れていた。
獣人だった。
撤退していた仲間の一人。胸から腹にかけて深く斬り裂かれ、ぴくりとも動かない。
そのすぐ近くには、保護したはずの奴隷の子供が倒れていた。小さな身体は血で汚れ、開いたままの目が虚空を見つめている。
「……ぁ」
フォルクの喉から、声にならない息が漏れた。
その先にも死体があった。
木にもたれかかるように崩れている者。逃げようとして背中から斬られた者。地面には赤黒い血が広がり、鉄臭い匂いが森中へ染みついている。
撤退していた仲間たちだった。シャルたちが助け出したはずの奴隷たちだった。
メルの喉が引きつる。頭の中で、最悪の想像がゆっくり形になっていく。
隠れ家が──。
「シャル……?」
フォルクが震える声で呟き、倒れているシャルへ近づこうとした。その時だった。
「おや?」
女の声が響く。
びくりと、メルとフォルクの身体が同時に震えた。
木々の奥。暗闇の中から、黒いクロークをつけた人物がゆっくり姿を現す。
細身の身体。獣の頭蓋骨のような面をしており、口元だけがわずかに見えている。手には血のついたナイフが握られていた。
まるで死神のようだった。
「おやおやおや。まだ獣の生き残りがいましたか」
その女は小首を傾げながら、楽しそうに笑った。
「これは失態ですねぇ。エッカルトやヨハネスに怒られてしまいます」
メルは反射的にフォルクを背中へ庇い、剣を抜く。
女はそれを見て、くすくすと喉を鳴らした。
「いい反応ですねぇ。狩りがいがあります」
くるり、と指先でナイフを回す。
「獣は殺処分です」




