11:労働
メルは、強い屈辱を味わっていた。
「……くそ」
「黙って食え」
不機嫌そうに吐き捨てるメルへ、グリムが淡々と言う。全身のあちこちへ包帯を巻かれたメルは、今、グリムに食事を食べさせられていた。
野菜の入った薄いスープ。グリムがスプーンで掬い、無言で口元へ運んでくる。
メルは顔をしかめながら、それを食べた。味は悪くない。だから余計に腹が立つ。まるで子供扱いだ。しかも相手は人間。それが、たまらなく気に食わなかった。
メルが意識を取り戻した時には、すでに治療は終わっていた。体の汚れは落とされている。服も新しいものへ替えられていた。あのハンマー男から受けた傷はまだ痛む。だが、命に関わる状態ではないことくらいは分かった。
問題は、まともに動けないことだった。両腕は上がらない。少し動かすだけで筋肉が軋む。左足へ体重をかければ、激痛が走る。グリムの話では、ポーションで治療をしたから、完全に治るまで時間がかかるらしい。
「しばらく大人しくしてろ」
そう言われ、メルはベッドへ転がされていた。
そして今に至る。
グリムが空になったスプーンを皿へ戻す。食事は終わりらしい。メルは小さく舌打ちしながら、部屋を見回した。
狭い部屋だった。ベッド。暖炉。机。クローゼット。必要最低限のものしかない。生活感は薄い。長く住んでいるというより、ただ寝るための場所という印象だった。
その中で唯一目を引くのが、壁へ立て掛けられている剣だった。かなり古い。刃は傷だらけで、鞘も擦り切れている。
まともに手入れされているようには見えなかった。
グリムは向かい側で、自分の食事を取っていた。家の中だからか、赤いクロークは外している。露わになった右側の火傷跡と白濁した目は、やはり見慣れない。最初に見た時ほど怖くはない。だが、普通ではないことだけは嫌でも分かった。
正直、助けられるとは思っていなかった。この数日で、グリムが優しい人間ではないことは理解している。困っている相手を放っておけない性格ではない。むしろ逆だ。他人へ興味を持たず、面倒事を嫌う。必要以上に関わろうとしない。そんな人間だった。
だからこそ、こうして助けられていることが逆に落ち着かなかった。何か裏があるんじゃないか、と考えてしまう。
「……あたしは、こんなことされても奴隷にはならないからな」
メルがじっとグリムを見る。グリムはスープを飲みながら、あっさり答えた。
「ああ。奴隷はいらん」
それから、面倒そうに続ける。
「家の前で死なれると困るから助けただけだ」
本当か?と、メルは思う。それだけでは納得できない。グリムの性格なら、放置していてもおかしくないはずだ。
「……ただ借りを作ったままってのは、あたしが嫌だ」
メルは布団を握る。
「絶対返す」
奴隷ではなく、対等でいたかった。一方的に施されるだけなのは、どうしても嫌だった。
グリムがこちらを見る。だが、すぐに視線を外した。
「別にいい。それより、これ以上面倒事を持ち込むな」
「うっ……それは……」
痛いところを突かれる。あの時は必死だった。意図していたわけじゃない。だが、結果としてハンマー男をここまで連れてきたのは事実だった。
「……ごめんなさい」
メルは素直に頭を下げた。グリムがわずかに目を細める。少し意外そうだった。メルがこんな風に謝るとは思っていなかったのかもしれない。
沈黙が落ちる。暖炉の火が小さく揺れた。やがて、メルが再び口を開く。
「でも、返すって決めたんだ」
真剣な顔だった。
「仕事もっと手伝って、今までよりたくさん食い物もらってくる」
「いや、あれ以上は食べきれないんだが……」
グリムが少し呆れたように言う。
メルは言葉に詰まった。それ以外に返し方が思いつかない。力仕事も必要なさそうだ。家事もやらなくていいと言われている。そもそも、奴隷はいらないと最初から言われている。
メルは唸る。本気で悩み始めた。その様子を見ながら、グリムが小さく息を吐く。
「……明日には少し動けるようになるだろ」
「ほんとか?」
「ああ」
グリムは立ち上がりながら続けた。
「何か礼がしたいなら、朝の稽古が終わったあと、俺についてこい」
メルが顔を上げる。
「……何するんだ?」
「仕事だ」
短く答える。
それ以上、説明する気はないらしい。グリムは空になった皿を持って流しの方へ向かう。メルはしばらく、その背中を見ていた。
よく分からない人間だ、と改めて思う。優しくはない。愛想もない。なのに、不思議と一緒にいると落ち着く。
少なくとも。檻の中にいた頃より、ずっと息がしやすかった。
グリムの言っていた通りだった。翌朝、目を覚ますと、体は問題なく動くようになっていた。痛みは残っている。だが、昨日のように腕が上がらないことも、足へ体重を乗せた瞬間に崩れ落ちることもない。
メルはベッドから降りると、机の上に置かれていた昨日の残りのスープと、硬いパンを食べた。冷めてはいるが、腹に入るだけで十分ありがたい。食べ終わると、そのまま外へ出ようとする。
「待て」
背後からグリムの声が飛んだ。
「耳が出てる」
言われて初めて気づく。慌てて頭を押さえるメルを見ながら、グリムはクローゼットを開いた。
中から取り出されたのは、見慣れた赤い布。赤いクロークだった。そのまま無造作に投げ渡される。メルは受け取りながら顔をしかめた。
「なんでこの色のやつを何枚も持ってんだよ……」
街を歩く上で便利なのは分かる。獣耳も尾も隠せる。だから着ること自体に抵抗はない。ただ、不思議だった。グリムに妙なこだわりがあるようには見えない。むしろ服装に興味がなさそうな男だ。
「これが一番安かった」
「……ああ、なるほど」
メルは納得した。確かに、この色は売れ残る。派手すぎるし、街で着れば目立つ。在庫処分で安く投げ売りされていたのだろう。グリムらしい理由だった。メルはクローク着用し、深くフードを被る。
それから二人で廃材置き場へ向かった。
朝の稽古を終えたあと。グリムについていくと、そこは工事現場だった。まだ朝だというのに、すでに人で溢れている。
怒鳴り声。
木材を打ち付ける音。
石を運ぶ鈍い衝撃音。
縄の軋む音。
様々な音が重なり合い、空気を震わせていた。耳の良い獣人には、少し頭が痛くなるような騒音だった。
だが、よく見ると、人間だけではない。何人か、獣人の姿も混じっている。荷物を運び、木材を支え、人間たちと同じように働いていた。
グリムとメルが現場へ入ると、がたいのいい男が近づいてきた。
「ああ、お前か。昨日はなんで来なかった?」
日焼けした顔。太い腕。現場監督のような男だった。どうやら、ここがグリムの働いている場所らしい。
グリムは特に答えない。男も深く追及する気はないようだった。
「……まあいい。それで、後ろのそいつは何だ?」
メルを見ながら眉を上げる。
「娘でも連れてきたのか?」
メルはむっとする。そのままフードを取った。この現場には他の獣人もいる。なら、自分だけ隠す必要もないだろう。
「獣人……お前の奴隷か」
「奴隷じゃ――」
「こいつもここで働かせてほしい」
メルの言葉を遮るように、グリムが口を開く。
「力仕事ならできる」
男はメルを上から下まで眺めた。細い。年も若い。まともに働けるようには見えないのだろう。
「本当なら断りたいが……お前が言うならいいだろう」
渋々、といった口調だった。それでも断らなかった。グリムはこの現場でそれなりに信用されているらしい。
「言っとくが、怪我しても責任は取らねえぞ。仕事はそいつに教えてもらえ」
最低限の説明だけを残し、そのまま去っていった。
「ついてこい」
グリムが短く言う。メルはその後を追った。
日が落ちる前に、仕事は終わった。グリムとメルたちは市場の通りを歩いていた。
「つ、つかれた」
メルは全身が痛かった。稽古とは別の疲労だった。単純な肉体労働が、ここまできついとは思わなかった。
グリムに教えてもらった仕事は、何のことはない。ただ建材を所定の位置まで運ぶ。それだけだった。しかし、朝から夕方までろくに休憩もせずに続けるとなると、話は違う。昼を過ぎたくらいから、だんだんと運ぶ足は遅くなり、夕方になるころには腕にろくに力が入らなかった。
一緒に現場にいた人間は、だいたいがメルと同じように疲労困憊の様子だった。平然としているのはグリムだけだった。
「その金で好きなものを買うといい。俺は先に帰る」
そう言うと、疲れを感じさせない足取りで先に行ってしまった。
仕事終わりに渡された銅貨は、小袋の中に入っている。人間たちは物々交換をせずにこれによって物を買ったり、売ったりをしているようだった。確かに、大きなものを持ち歩かなくていいのは便利だ。つまり、これを集めればグリムへの治療費として返せるだろう。後で何枚集めればいいのか聞かなくてはならない。
そう考えながら歩いていると、腹をくすぐるいい匂いが漂ってくる。──肉の焼ける匂いだ。ここにきてから、一度も口にしていない。ごくりと、のどが鳴る。知らぬうちに、足が動き、その匂いのする店の前まで来ていた。
メルに気が付いた店の男が話しかけてくる。
「いらっしゃい嬢ちゃん。一つ買っていかないかい?」
串焼きの屋台だった。炭火の上で肉が焼かれている。表面には照りのあるタレが塗られ、香ばしい焼き目がついていた。メルの視線が釘付けになる。
「……それ、いくらするんだ?」
「一本で銅貨五枚だ。でも三本買ってくれるなら銅貨十四枚にしとくよ。嬢ちゃんへのサービスだ」
メルは指をおって数える。まとめて買えば、銅貨一枚得をするということを理解する。袋の中を確認する。三十枚くらいはありそうだった。
「よし、三本くれ」
「まいどあり」
メルは銅貨を渡して、店主から三本の串肉をもらう。これだけの量があれば、お腹いっぱいになるだろう。しっぽが動きそうになるのを抑えながら、駆け足で市場を去っていく。
いつもの癖で、廃材置き場まできてしまった。串肉は道中で我慢できずに食べてしまい、残り二本になっていた。
グリムの家まで帰ろうとするが、そこで見覚えのある赤毛を目にした。あの獣人の少女だ。生きていたことに安堵して駆け寄った。
「おーい」
声に反応して、少女が振り向く。少女は表情を明るくさせて、こちらに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!」
そのまま、胸に飛び込んでくる。肉を落とさないようにしながら、少女の頭をなでる。
「お姉ちゃん、あのときはありがとう!」
「いいってことよ。あたしはあの人間くらい、楽勝だからな」
本当は死にかけたが、それは言わない。少女が尊敬の目を向けてくる。少し視線がくすぐったい。
「よかった……お姉ちゃんも生きてて」
その時、少女のお腹がぐう、と鳴った。顔を赤らめさせて、少し距離を取られた。
「これ、やるよ」
串肉を一本差し出す。
「いいの?」
「ああ、二本あるしな」
少女が目を輝かせて、串肉を受け取った。
「ありがとう!」
もぐもぐと少女は肉をほおばった。その様子を見てメルは考えた。この子はこの街で一人で生きていくのは、難しいかもしれないと。メルも散々な目にあって、運よくグリムに助けられただけだ。この子も運よくメルに助けられただけだ。
「……どうしたの?」
じっと見ていたせいか、少女が不思議そうに聞いてくる。
「お前、名前はなんていうんだ?」
「ルナっていうの。お姉ちゃんの名前は?」
「メルだ」
メルはしゃがみ込み、ルナと目線を合わせた。
「ルナ、今までどうやって暮らしてた?」
ルナは肉を飲み込んでから答える。
「えっと……人間が来ない暗いところに隠れてたの。でも、メルお姉ちゃんが心配で……」
だから、出会った場所で待っていたというわけだろう。
「……ここは滅多にひとは来ないから、隠れるならこの辺りがいいかもな」
少女はこくりとうなずく。
「あたしも、朝と夜にここに来る。その時、食べ物分けてやるよ」
「ほんと!?」
「ああ、本当だ」
ルナはメルと一緒だ。
グリムの家へ連れて行くのは、さすがに厚かましい。それくらいは、メルにも分かる。
だから今度は、自分が助ける番だ。
ルナが再び抱きついてくる。メルはしばらく、その頭を優しく撫で続けていた。
グリムの家へ戻ると、扉を開けた瞬間に声が飛んできた。
「遅かったな」
机の横にいたグリムがこちらを見る。その視線が、途中で止まった。
「……お前、クロークはどうした」
メルは一瞬だけ固まる。
「あ、あれ?」
目を逸らしながら頭を掻く。
「どっかに落としてきたなー?」
もちろん嘘だった。実際には、ルナへ渡している。あの子が一人で隠れて生きるなら、あったほうがいいと思ったのだ。だが、それを正直に話せば怒られる気がした。
グリムはしばらく無言だった。その沈黙が妙に怖い。やがて、小さくため息を吐く。
「……あと一つだけ残ってる」
クローゼットの方へ視線を向けながら言う。
「次なくしたら、もうないからな」
――まだあるんだ。
思わず口に出しかけた言葉を、メルは慌てて飲み込んだ。この男、本当に何枚持っているんだ。
メルは話題を逸らすようにベッドへ腰掛ける。そして、残していた串肉へかぶりついた。肉汁が口に広がる。疲れた体に染みる味だった。だが、グリムの視線が妙にこちらへ向いている。
「……なんだよ」
メルは肉を咥えたまま睨み返す。
「お前にはやらないからな。あたしが働いた金で買ったんだ」
少し誇らしげに言う。
「銅貨十四枚で三本な」
グリムが左手で顔を覆う。
そのまま、天井を見上げた。
「……騙されてる」
「え?」
メルの動きが止まる。
「普通、そんな値段しない」
沈黙。肉を咀嚼する音だけがやけに響く。遅れて理解が追いついた。
自分はぼったくられたらしい。
「…………」
怒り。羞恥。いろんな感情が一気に押し寄せる。耳まで熱くなるのが分かった。
グリムが小さく息を吐く。
「……先に帰るべきじゃなかったか」
「くそっ!」
メルが叫ぶ。尻尾がばしばしとベッドを叩いた。働いて稼いだ金だった。しかも、自分では“まとめ買いで得した”と思っていた。それが余計に恥ずかしい。
グリムはそんなメルを見ながら、どこか呆れたように口を開く。
「街で生きるなら、値段くらい覚えろ」
「うるさい!」
布団へ顔を埋めたまま叫ぶ。
「森じゃこんなのなかったんだよ!」
グリムはそれ以上何も言わなかった。ただ、小さく肩を竦める。その反応が、余計に悔しかった。




