10:王国騎士団
メルが意識を失ったあと、グリムは小さくため息をついた。メルはかろうじて呼吸をしている。浅く、不安定な呼吸だ。右腕と左足には目立つ損傷があり、このまま放置すれば長くはもたないことは明らかだった。
グリムは視線を横へ向ける。倒れているハンマーの男。砕けた石畳。崩れた壁。
どうすれば、こんな相手と戦うことになるのか。あれだけ重い武器を持った相手なら、逃げ切ること自体は難しくなかったはずだ。わざわざ足を止め、正面から戦う理由などない。
「……馬鹿か」
ぼそりと呟く。
グリムに、メルを助けるつもりはなかった。そもそも、この傷をまともに治療するだけの金がない。今のグリムの生活は、日雇い仕事を続けてようやく成り立っている程度だ。余計な厄介事を抱える余裕などない。
そのうち巡回の衛兵が来るだろう。この損壊の跡と、死体と負傷者が転がっていれば、嫌でも気づく。面倒になる前に家へ戻るべきだ。そう判断し、グリムは踵を返しかけた。
その時だった。足音が聞こえる。
複数。一定のリズムで近づいてくる。グリムはフードを深く被り直し、振り向いた。
路地の奥に、数人の影が見える。
一瞬、衛兵かと思った。だが、近づくにつれて違和感に気づく。装備が違う。衛兵よりも、遥かに質がいい。銀を基調とした甲冑。過剰な装飾はない。だが、細部まで丁寧に作り込まれているのが分かる。胸元には王国の紋章が刻まれていた。
王国騎士団。
深い藍色のマントを揺らしながら、その一団はゆっくりと近づいてくる。その中から、一人の騎士が前へ出た。
若い女だった。だが、幼さは感じない。切れ長の目は冷静で、感情を表に出していない。相手を測るような視線だけが真っ直ぐ向けられている。肩口まで伸びた金髪。戦場に立つ者とは思えないほど整った顔立ち。だが、その立ち姿には隙がなかった。
「この辺りで、奴隷を殺して回る男がいると通報があった」
凛とした声が路地へ響く。
女騎士は倒れている男と、地面に横たわるメルを交互に見た。
「……貴殿が、この男を仕留めたのか?」
視線がグリムへ向く。グリムは短く答えた。
「ああ。家の前で暴れられたからな」
それだけ言って黙る。女騎士はグリムをじっと見つめていた。沈黙が落ちる。
騎士たちの間にも緊張が走っているのが分かった。倒れているハンマーの男の惨状を見れば当然だ。あれを正面から制圧した相手が、目の前に立っている。しかも、息一つ乱していない。
女騎士はやがて視線を外し、後ろの騎士へ何か小声で確認する。短いやり取りのあと、再びグリムへ向き直った。そして、小さな布袋を差し出してくる。
「本来なら、我々が対処すべき案件だった。感謝する」
グリムは無言のまま袋を受け取る。思ったより重かった。わずかに開いた袋の口から、金色が覗く。金貨だった。しかも一枚や二枚ではない。
「謝礼と、その獣人への補償だ。受け取ってほしい」
グリムは一瞬だけ視線をメルへ向ける。どうやら騎士たちは、メルをグリムの所有する奴隷だと思ったらしい。同じ赤いクロークを羽織っていたこと。そして家の前で倒れていたこと。その辺りから、勝手にそう判断したのだろう。
明らかに貰いすぎだった。日雇い仕事を一年続けても、こんな額にはならない。
後ろの騎士たちが動く。気絶しているハンマーの男を持ち上げ、拘束を始めていた。
「あとは我々が処理する。貴殿は下がって構わない」
女騎士がそう告げる。グリムは何も返さなかった。騎士たちはそのまま男を連行し、路地の奥へ消えていく。足音が遠ざかる。
静寂が戻った。
グリムはしばらく、その場へ立ち尽くしていた。視線を落とす。メルが倒れている。呼吸はまだある。だが、このままでは危ない。
グリムは手の中の金袋を見る。この金があれば、治療くらいはできる。そして――受け取ってしまった以上、ここで死なれると面倒だった。
「……はぁ」
深いため息が漏れる。面倒事が増えた。
グリムはしゃがみ込み、メルを抱え上げる。軽い。
赤いクロークの裾が揺れる。グリムはそのまま家の扉を開け、無言で中へ入っていった。
グリムはメルを家へ運び込み、ベッドへ寝かせると、そのまま外へ出た。治療に必要な物を揃えるためだった。
教会へ行けば、金を払うことで回復魔法を受けられる。
だが、この国では獣人に治療を施すことは、宗教的な理由から禁じられていた。表向きは“人ではないものに神の奇跡は与えられない”という理屈だ。
そのため、グリムは教会には向かわなかった。代わりに、回復用のポーションを購入する。
回復魔法のように即効性はないが、致命傷でなければ治る。逆に致命傷だったならば、回復魔法を受けるしか助かる方法はないのだが。
ついでに衣服や靴も買う。メルが着ていたものは、もうまともに使える状態ではなかった。泥と血で汚れ、裂け、ところどころ乾ききった臭いが染みついている。
さらに、<クリーン>の魔法が込められた簡易魔道具も購入した。家へ運び込んだ時、あまりにも臭いが酷かったからだ。
汗。血。泥。長く洗われていなかった体臭。部屋の中に充満したそれは、慣れているグリムですら眉をしかめるほどだった。
ポーションも、魔道具も、高い。
日雇い仕事を続けるグリムにとって、本来なら簡単に手を出せる値段ではなかった。しかし、騎士団から渡された金袋は、ほとんど重さが変わらなかった。
中に入っている金貨の量が、それだけ異常だったのだ。グリムは歩きながら、小さく息を吐く。これだけあれば、しばらくは工事区へ行かなくても生きていける。
朝から晩まで建材を運ぶ必要もない。そう考えると、メルの治療もそこまで面倒には思えなかった。
──少なくとも、金の面では。




