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第3話 夜のハプニング

「本当に同じことに住んでたんだね……」


「そうですね……」


 西岡荘の前に立つ俺たちの間には、手を伸ばせば届くのに、どこか遠く感じられる、微妙な距離が空いていた。


 クラスメイトで、しかも彼氏のフリまでしている相手が、まさか隣の部屋の住人だったとは。



「じゃあ、また明日学校で」


「はい、今日は色々ありがとうございました」


「ううん、気にしないで。それじゃ」


 俺たちはそれぞれの部屋の鍵穴に鍵を差す。


 咲良さんが鍵を回すと、101号室の部屋の扉が開いた。


 本当にここに住んでるんだな……


 俺も鍵を回す。当たり前に扉が開く。


 いつも通りの俺の部屋だ。何も変わりはない。それでも、この壁の向こう側には、咲良さんがいる。


 そんな事実が、何の変哲もないこの部屋に不思議な雰囲気を醸し出していた。



 明日から気まずいなぁ。


 深く考えずに引き受けてしまった『彼氏のフリ』が、俺の心に重くのしかかる。これからどうしよう……?


 俺の平穏な高校生活は、今日一日で大分揺らいだ気がする。こんなはずじゃなかったんだけどな。


「考えても仕方ないか」


 小さく呟いてから、俺はベッドに飛び込んだ。


 森本咲良。まだどんな人か、はっきりとは分からない。俺の隣の部屋に住んでいて、学校では地味で目立たない女の子。そして、俺は彼女の彼氏のフリをしなければならない。


 これから関わっていかなければならないことは確かだ。ただ、俺も他の人と関わるのは得意ではない。


「まぁ、できることをするしかないよな――」


 深く考えるのを放棄した俺に、睡魔が襲った。



「あぁ、寝ちゃってたか」


 ベッドから起き上がる。時計は19時過ぎを指していた。そろそろ飯作るか……


 一人暮らしにもすっかり慣れた。


 適当に食材を買い込んで、適当に料理を作る。


 今日のメニューも、名前のない炒め物だ。


 ちなみに、お金はある。頼めばいくらでも親が出してくれる。でも、それには頼りたくなかった。じゃないと、わざわざ一人暮らしをしている意味がない。


 一人きりでの食事は俺の心を落ち着かせるオアシスだった。それはたとえ自分の家であっても学校であっても変わりはない。誰かと話しながらワイワイというのは性に合わない。



 晩飯をかき込んだ俺は、再び睡魔に襲われていた。シャワーでも浴びるか。


 男子高校生の一人暮らしに生活リズムなんてものはなかった。食いたい時に食って、寝たい時に寝る。


 ただ、今日は珍しく宿題が出ているので、睡魔の奴隷になるわけにはいかない。


 西岡荘はトイレとお風呂が分かれている。本当に、古いことだけを除けば、最高のマイホームだと思う。



 シャワー浴び終わった俺は、数学の課題を机に広げる。


「今日も簡単だな」


 中学まで私立の進学校に通っていた俺は、高校1年の内容はもう履修済みだった。私立に通ってて良かったのはこれくらいだろうか……



 課題を終えるのに20分もかからなかった。


「さぁ、今日はもう寝るか」


 今日2回目のベッドダイブを決めた俺。


 すぐに襲ってきた睡魔はドアをノックする音で掻き消された。


 こんな時間に誰だ……?



「はーい、どちら様ですか……って、咲良さん!?」


 ドアを開けた俺の目の前に立っていたのは、なぜかびしょ濡れ状態の咲良さんだった。


 着ているパーカーだけでなく、髪の先の方までも濡れている。


 一体どうしたんだ……


「一条君、夜遅くにごめん。ちょっとお願いがあるんだけどさ――」


「どうしたの?」


 咲良さんが俺に手招きする。俺が付いていくと、咲良さんが自分の部屋、101号室のドアを開けた。



「何これ?」


 俺の眼前に広がっていたのは、びっちょびちょに濡れた彼女の部屋だった。


「咲良さん、これ――」


「うん、お風呂入れようと思ったら、水が止まらなくて……」


 咲良さんは今にも泣きそうな顔でそう言った。


「それで、こんなことになった、と」


「はい、一応水は止まったんですけど、部屋中水浸しで」


 咲良さんの姿を見れば、相当格闘していたのはすぐに分かった。


「それで、大家さんの部屋に行ったんですけど、返事がなくて……」


 今は21時か。この時間だといつも、もう寝ちゃってるんだよなぁ


「私、どうしたらいいか分かんなくて、それで、一条君のところに……」


「分かった。一旦俺の部屋でシャワー浴びちゃいな。着替えは、俺ので良かったら貸すけど?」


「本当ですか! でも、ご迷惑じゃ……?」


「こんな状況ならしょうがないよ。もちろん、咲良さんがいいならだけど」


「じゃあ、お借りします」


 申し訳なさそうに頭を下げて、咲良さんが俺の部屋に上がる。


「タオルはそっちの棚にあるの使って。あと、これ、最近着てないやつだから綺麗だと思う」


「あっ、ありがとうございます。……本当にいいんですね?」


「うん、風邪引く前に入っちゃって」



 咲良さんがシャワーに入った。よし、片付けしよう。


 最近、片付けを怠けてしまっていた自分がいる。自分の部屋に女子を上げるなんて、人生で初めてだ。変に緊張している自分が妙に恥ずかしかった。


 これくらいで大丈夫かな?


 俺が一通りの片付けを終えると同時に、咲良さんがシャワーを終えたようだ。


「あのー、服、ありがとうございます」


 咲良さんが俺のTシャツを着て出てきた。


 袖が少し余っていて、やたら大きく見える。


 ……なんか変にドキドキする。


 咲良さんが眼鏡を外して髪を拭いている。その顔を見て、俺は少しだけ驚いた。


 ……あれ?

 咲良さん、なんか学校と印象違うかも?


「じゃあ、私は戻りますね……」


「あっ、ねえ、そういえばお願いって――」


「あっ、もう大丈夫です。これ以上迷惑はかけられないので」


「咲良さん、そんなの気にしないで。俺に手伝えることだったらなんでも言ってよ」


 なかなかお願いを口にするのを渋る咲良さん。そんなに頼みづらいことなんだろうか。


「……実は、部屋、ベッドも全部濡れてて」


「それじゃ寝れないじゃん」


「っ、はい」


「……」


 咲良さんは困ったように俯いた。


「やっぱり、大丈夫です。迷惑でしょうし」


 咲良さんが俺の部屋から出て行こうと一歩踏み出した時、俺は無意識に彼女の手を掴んでいた。


「……あ」


 小さく声が漏れる。


 咲良さんの手は、驚くほど冷たかった。


「あの、さ。今日だけなら、うち泊まる?」


「えっ?」


 咲良さんが俺の目を真っ直ぐに見つめる。


 やばい、俺、大分キモイこと言ってるか……


「ごめん、今のは変な意味じゃなくて、その――」


「本当に泊まってもいいんですか?」


 え?


 咲良さんの小さな呟きに、俺はまた少し言葉に詰まってしまう。


「うん、いいけど……」


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 咲良さんが申し訳なさそうに、もう一度俺の部屋の中に入ってくる。


 あれ? これもしかして本当に俺の部屋に泊まる感じか……?


 自分で提案しておきながら、少し困ってしまう。


 別にやましいことは何もない。ただ、俺の部屋に咲良さんがいるというこの異質な状況を飲み込めていないだけだ。


 いや待てよ、でも俺はわざわざ部屋の掃除をした。ていうことは、俺は咲良さんが俺の部屋にもっといることを期待していたということか……


 あぁ、もう分からない。


 咲良さんはやっぱり申し訳なさそうに、部屋の隅の方に立っていた。


 ……放っておけるわけがない。


 俺はもう一度咲良さんを見つめる。


 この時はまだ知らなかった。


 このたった一晩が、俺の平穏な一人暮らしを終わらせることになるなんて。

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