↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/17

第9話 待っていても、いいかな

『そっちは、袖だよ』


 前掛けに言われ、こまは手を止めた。


 腰へ回したつもりの紐に、着物の袖まで巻き込んでいる。


「……すみません」


 紐をほどくと、背後で若旦那が小さく笑った。


「手伝ってもいい?」


 こまは振り返りかけ、また袖を引っ掛けた。


「お、お願いします」


 火事から、十日あまりが過ぎていた。


 傷はふさがり、手当てをしてくれた男にも、少しずつ普段の暮らしへ戻ってよいと言われた。今朝は久しぶりに、人間の娘へ化けている。


 人の姿で過ごすのは、まだ短い時間だけだ。それでも、足に痛みを感じず立てることが、嬉しかった。


 うなじで結んだ黒髪を前へよける。


 若旦那が、こまの背で紐を結んだ。


 借りた店先に並ぶ品物は、以前よりずっと少ない。仲間の商人から分けてもらった皿や箒を、奉公人たちが一つずつ整えていた。


 こまの前掛けも、古い布を仕立て直してもらったものだ。


 若旦那が火事の前に取りに行った品は、焼けてしまっていた。


「きつくない?」


「はい。……あ、少しだけ、緩めてください」


「このくらい?」


「ちょうど、いいです」


 若旦那の手が離れた。


 こまは前掛けの裾を両手でつまみ、そっと広げた。


 大和屋で働くための、自分の前掛け。


『今度は、袖まで結ばないでおくれね』


「気をつけます」


「何か言っているの?」


「その……結び方を、教えてくれています」


 若旦那が口元を押さえた。


 こまは丸い頬を赤くし、前掛けの端をきちんとそろえ直した。


     *


 昼前、修理を終えた看板が届いた。


 焼けた所には新しい板が継がれ、欠けた字も書き直されていた。古い部分との色の違いは、はっきり見える。


 けれど、もう一度、「大和屋」と読めた。


「少し右へ。……はい、そこで」


 手代の声に合わせ、奉公人たちが看板を掛けた。


『やれやれ。やっと通りが見える』


 こまは思わず、両手を胸の前で握った。


 以前とは違う店先だ。


 それでも、あの看板の下から、若旦那が客を迎える。


「いらっしゃいませ」


 その声を聞いて、ようやくこまも息を吐いた。


 戻ってきた。


 大和屋が、また商いを始めたのだ。


 こまも隣へ立とうとして、指先の痺れに気づいた。


 人間の姿を保てる時間が、終わりに近づいている。


「若旦那様。少し、休ませてください」


「うん。ありがとう。前掛けは、そこへ掛けておくよ」


 こまは紐をほどいた。


 今度は、袖を巻き込まなかった。


 店の奥へ戻り、空いた小部屋の戸を閉める。狸の姿へ戻って横になると、表から客と話す声が聞こえてきた。


 少し眠ったあと、母のお福が迎えに来た。


 今日は、一度家へ帰る約束だった。


 父の頼みを、直接聞くために。


     *


 もう一度人間の姿になり、こまは店先へ出た。


 藍色の小袖を着た母が、通りの端で待っている。


「では、行ってまいります」


 頭を下げると、若旦那がこまの前掛けを畳んでいた。


「お父上のお仕事、旅になるかもしれないんだね」


「はい。まだ、詳しいことは……」


 よその狸たちに会いに行く。


 それだけは、母から聞いている。


 旅のお役目を引き受けたら、しばらく店へ通えないかもしれない。


 どこへ行き、いつ戻るのか。自分に何ができるのか。考えるほど、畳まれていく前掛けから目を離せなくなった。


「寂しくなるなあ」


 若旦那が言った。


 こまは顔を上げた。


「……私が、来られなくなると、ですか」


「うん。こまさんが」


 胸の奥が温かくなった。


 同時に、帰りたくなくなった。


 店の片隅へ座って、もっと声を聞いていたい。けれど、ようやく商いを再開した人を、困らせたくなかった。


「私は、寂しくありませんから」


 言ってから、両手で口を押さえた。


 違う。


 今のは、嘘だ。


 腹が、むくりと膨らんだ。


 ぽん。


 手が勝手に下がり、着物の上から腹を叩いた。


「寂しいです!」


 自分の声が、店先へ響いた。


 言い直した途端、手も腹鼓も止まった。


 こまは腹を抱えたまま、若旦那を見上げた。


 若旦那も、畳みかけの前掛けを持ったまま、こちらを見ている。


 通りの向こうで、母が手拭いを口元へ当てた。


 聞かれた。


 母にも、聞かれた。


 頬から耳まで、熱くなった。


「……本当は、とても」


 今度は、自分で言った。


 若旦那は前掛けを畳み終え、両手で持ち直した。


「もし旅に出ても、帰ってきたら、また来てくれる?」


 こまはすぐにうなずきかけた。


 けれど、父の話をまだ聞いていない。約束を守れるかどうかも、今は分からなかった。


「お仕事の話を聞いたら、いつ来られそうか、お知らせします」


「ありがとう」


 若旦那は、少し照れたように笑った。


「待っていても、いいかな」


 こまの指が、着物の袖をつかんだ。


 前掛けは、若旦那の腕にある。


 自分がいない間も、ここへ置いてもらえるのだ。


「……はい」


 声が小さくなったので、もう一度、顔を上げた。


「帰ってきたら、私の話も、聞いてください」


「もちろん。楽しみにしているよ」


 こまは深く頭を下げた。


 顔を上げると、若旦那の後ろで、看板が揺れていた。


『道に気をつけるんだよ』


「はい。行ってきます」


     *


 山道の途中で狸へ戻り、こまは母と並んで家へ向かった。母も、町を離れた所で元の姿に戻っていた。


 家の屋根に、赤い幟が三本も立っていた。


 どれにも、大きな字で「鳴神六右衛門」と書いてある。


 こまの父の名だった。


「……父さん、何をしているんですか」


「帰ってきた娘を迎える支度だそうだよ。幟の字は、ここから読めるかって、三度も確かめさせられた」


 母が、疲れた声で答えた。


「こまよ! そこで止まれ!」


 頭上から声が降った。


 屋根の上に、父が立っていた。


 今は人間の男に化け、赤い羽織を風にはためかせている。鋭い目と太い眉。黙っていれば、近寄りがたい姿だ。


 鳴神六右衛門。


 狸の忍びたちを率いる頭領であり、こまの父である。


「一歩、右だ。そう、そこなら幟とわしが一緒に見える」


 こまが言われたとおり動くと、父は胸を反らした。


「鳴神六右衛門、愛娘の帰還を迎えるため、ここに――」


「下りておいで」


 母が言った。


「まだ名乗りの途中だぞ」


「娘は、あんたの名前を知ってるよ」


 父は構わず片腕を広げた。風がやみ、羽織の裾が腕に引っ掛かった。


「む。風が足りん。こま、もう一度、あの杉の所から歩いてこい。今度は羽織が広がったところで見上げるのだ」


 父は、人に注目されるのが大好きだった。家族の出迎えでさえ、自分の姿が格好よく見えるまで、やり直したがる。


「父さん。お話があると、聞いてきたんですけれど……」


「おお、そうであった」


 父はようやく腕を下ろした。それでも、下りる前に幟の向きを直すのは忘れなかった。


 こまの前へしゃがむと、先ほどより低い声になる。


「傷は、どうだ」


「もう、痛みません」


 父の手が伸び、こまの背を、触れるか触れないかのところで止まった。


「そうか」


 短い返事だった。


 こまは父の顔を見た。父は一度うなずいてから、家の戸を開けた。


「入れ。お前に頼みたいことがある」


 こまは前足をそろえた。


「はい」


「最初に行ってもらいたいのは、人間の町にある芝居小屋だ」


「……人間の町、ですか」


「そこで暮らす、役者の狸たちに会ってほしい」


 父はこまへ向き直った。


「わしの代わりに、頼みを届けてもらいたい。お前を名代にする」


 忍びの頭領の名を記した幟が、頭上で、ばさりと鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。