第9話 待っていても、いいかな
『そっちは、袖だよ』
前掛けに言われ、こまは手を止めた。
腰へ回したつもりの紐に、着物の袖まで巻き込んでいる。
「……すみません」
紐をほどくと、背後で若旦那が小さく笑った。
「手伝ってもいい?」
こまは振り返りかけ、また袖を引っ掛けた。
「お、お願いします」
火事から、十日あまりが過ぎていた。
傷はふさがり、手当てをしてくれた男にも、少しずつ普段の暮らしへ戻ってよいと言われた。今朝は久しぶりに、人間の娘へ化けている。
人の姿で過ごすのは、まだ短い時間だけだ。それでも、足に痛みを感じず立てることが、嬉しかった。
うなじで結んだ黒髪を前へよける。
若旦那が、こまの背で紐を結んだ。
借りた店先に並ぶ品物は、以前よりずっと少ない。仲間の商人から分けてもらった皿や箒を、奉公人たちが一つずつ整えていた。
こまの前掛けも、古い布を仕立て直してもらったものだ。
若旦那が火事の前に取りに行った品は、焼けてしまっていた。
「きつくない?」
「はい。……あ、少しだけ、緩めてください」
「このくらい?」
「ちょうど、いいです」
若旦那の手が離れた。
こまは前掛けの裾を両手でつまみ、そっと広げた。
大和屋で働くための、自分の前掛け。
『今度は、袖まで結ばないでおくれね』
「気をつけます」
「何か言っているの?」
「その……結び方を、教えてくれています」
若旦那が口元を押さえた。
こまは丸い頬を赤くし、前掛けの端をきちんとそろえ直した。
*
昼前、修理を終えた看板が届いた。
焼けた所には新しい板が継がれ、欠けた字も書き直されていた。古い部分との色の違いは、はっきり見える。
けれど、もう一度、「大和屋」と読めた。
「少し右へ。……はい、そこで」
手代の声に合わせ、奉公人たちが看板を掛けた。
『やれやれ。やっと通りが見える』
こまは思わず、両手を胸の前で握った。
以前とは違う店先だ。
それでも、あの看板の下から、若旦那が客を迎える。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いて、ようやくこまも息を吐いた。
戻ってきた。
大和屋が、また商いを始めたのだ。
こまも隣へ立とうとして、指先の痺れに気づいた。
人間の姿を保てる時間が、終わりに近づいている。
「若旦那様。少し、休ませてください」
「うん。ありがとう。前掛けは、そこへ掛けておくよ」
こまは紐をほどいた。
今度は、袖を巻き込まなかった。
店の奥へ戻り、空いた小部屋の戸を閉める。狸の姿へ戻って横になると、表から客と話す声が聞こえてきた。
少し眠ったあと、母のお福が迎えに来た。
今日は、一度家へ帰る約束だった。
父の頼みを、直接聞くために。
*
もう一度人間の姿になり、こまは店先へ出た。
藍色の小袖を着た母が、通りの端で待っている。
「では、行ってまいります」
頭を下げると、若旦那がこまの前掛けを畳んでいた。
「お父上のお仕事、旅になるかもしれないんだね」
「はい。まだ、詳しいことは……」
よその狸たちに会いに行く。
それだけは、母から聞いている。
旅のお役目を引き受けたら、しばらく店へ通えないかもしれない。
どこへ行き、いつ戻るのか。自分に何ができるのか。考えるほど、畳まれていく前掛けから目を離せなくなった。
「寂しくなるなあ」
若旦那が言った。
こまは顔を上げた。
「……私が、来られなくなると、ですか」
「うん。こまさんが」
胸の奥が温かくなった。
同時に、帰りたくなくなった。
店の片隅へ座って、もっと声を聞いていたい。けれど、ようやく商いを再開した人を、困らせたくなかった。
「私は、寂しくありませんから」
言ってから、両手で口を押さえた。
違う。
今のは、嘘だ。
腹が、むくりと膨らんだ。
ぽん。
手が勝手に下がり、着物の上から腹を叩いた。
「寂しいです!」
自分の声が、店先へ響いた。
言い直した途端、手も腹鼓も止まった。
こまは腹を抱えたまま、若旦那を見上げた。
若旦那も、畳みかけの前掛けを持ったまま、こちらを見ている。
通りの向こうで、母が手拭いを口元へ当てた。
聞かれた。
母にも、聞かれた。
頬から耳まで、熱くなった。
「……本当は、とても」
今度は、自分で言った。
若旦那は前掛けを畳み終え、両手で持ち直した。
「もし旅に出ても、帰ってきたら、また来てくれる?」
こまはすぐにうなずきかけた。
けれど、父の話をまだ聞いていない。約束を守れるかどうかも、今は分からなかった。
「お仕事の話を聞いたら、いつ来られそうか、お知らせします」
「ありがとう」
若旦那は、少し照れたように笑った。
「待っていても、いいかな」
こまの指が、着物の袖をつかんだ。
前掛けは、若旦那の腕にある。
自分がいない間も、ここへ置いてもらえるのだ。
「……はい」
声が小さくなったので、もう一度、顔を上げた。
「帰ってきたら、私の話も、聞いてください」
「もちろん。楽しみにしているよ」
こまは深く頭を下げた。
顔を上げると、若旦那の後ろで、看板が揺れていた。
『道に気をつけるんだよ』
「はい。行ってきます」
*
山道の途中で狸へ戻り、こまは母と並んで家へ向かった。母も、町を離れた所で元の姿に戻っていた。
家の屋根に、赤い幟が三本も立っていた。
どれにも、大きな字で「鳴神六右衛門」と書いてある。
こまの父の名だった。
「……父さん、何をしているんですか」
「帰ってきた娘を迎える支度だそうだよ。幟の字は、ここから読めるかって、三度も確かめさせられた」
母が、疲れた声で答えた。
「こまよ! そこで止まれ!」
頭上から声が降った。
屋根の上に、父が立っていた。
今は人間の男に化け、赤い羽織を風にはためかせている。鋭い目と太い眉。黙っていれば、近寄りがたい姿だ。
鳴神六右衛門。
狸の忍びたちを率いる頭領であり、こまの父である。
「一歩、右だ。そう、そこなら幟とわしが一緒に見える」
こまが言われたとおり動くと、父は胸を反らした。
「鳴神六右衛門、愛娘の帰還を迎えるため、ここに――」
「下りておいで」
母が言った。
「まだ名乗りの途中だぞ」
「娘は、あんたの名前を知ってるよ」
父は構わず片腕を広げた。風がやみ、羽織の裾が腕に引っ掛かった。
「む。風が足りん。こま、もう一度、あの杉の所から歩いてこい。今度は羽織が広がったところで見上げるのだ」
父は、人に注目されるのが大好きだった。家族の出迎えでさえ、自分の姿が格好よく見えるまで、やり直したがる。
「父さん。お話があると、聞いてきたんですけれど……」
「おお、そうであった」
父はようやく腕を下ろした。それでも、下りる前に幟の向きを直すのは忘れなかった。
こまの前へしゃがむと、先ほどより低い声になる。
「傷は、どうだ」
「もう、痛みません」
父の手が伸び、こまの背を、触れるか触れないかのところで止まった。
「そうか」
短い返事だった。
こまは父の顔を見た。父は一度うなずいてから、家の戸を開けた。
「入れ。お前に頼みたいことがある」
こまは前足をそろえた。
「はい」
「最初に行ってもらいたいのは、人間の町にある芝居小屋だ」
「……人間の町、ですか」
「そこで暮らす、役者の狸たちに会ってほしい」
父はこまへ向き直った。
「わしの代わりに、頼みを届けてもらいたい。お前を名代にする」
忍びの頭領の名を記した幟が、頭上で、ばさりと鳴った。




