第10話 行ってみたいです
「父さんのお名前しか、読めません」
広げられた書状の前で、こまは首をかしげた。
紙の真ん中に、「鳴神六右衛門」。
頼み事らしい文章は、その下へ小さく押し込まれている。
「最初に、誰の頼みか分からねばならんからな」
人間の姿のまま座った父が、胸を張った。
こまは狸の前足をそろえ、文字へ鼻先を近づけた。
「こちらの、端の方には……」
「わしの似顔絵だ。名前だけでは、顔を覚えてもらえぬ」
赤い羽織を着た父が、紙の端でも腕を組んでいた。
母のお福が、人間に化け直して茶を運んでくる。
「顔を覚えるより先に、用件を読んでもらいなさい」
父は不服そうに筆を取り、ようやく書状の中身を説明し始めた。
「いずれ、狸たちの芸や品物を、人間にも見せる大きな催しを開きたい」
芝居をする狸。舟や道具を造る狸。荷を運び、商いをする狸。
各地で暮らす狸たちに力を借り、その仕事を一つの催しへ集めるのだという。
「まず、役者たちに芝居を頼みたい。人間の町の芝居小屋で暮らす狸の仲間を、幕裏と呼ぶ。そこへ行ってほしい」
「どんな、お芝居を頼むんですか」
「狸の技や暮らしが伝わるものを、先方と相談する。わしが華々しく登場する場面も――」
「それは先方のお話を聞いてから」
母が茶碗を置いた。
父は一つ咳払いをした。
「何人出られるか。どれほど日数と銭が要るか。お前には、それを聞いてきてもらいたい」
こまは書状を見つめた。
父の頼みを、知らない相手へ伝える。
返事を聞いて、持ち帰る。
簡単なことのようで、足先が冷たくなった。
「私が行っても、よいんでしょうか」
「わしの娘だからと、向こうが何でも聞いてくれるわけではない。だが、話を聞くところから始めればよい」
「断られたら……」
「理由を聞いてこい。次を考えるのは、わしの仕事だ」
父は筆を置いた。
「狸だと隠し通さねば、人の町で働けぬ者もおる。山へ帰りたいのに、人間に引き留められている者もおる」
声から、先ほどの弾みが消えていた。
「わしは、狸が自分たちで暮らしを選べるようにしたい。そのために、まず各地の狸とつながりを作る」
こまは顔を上げた。
人の足音を聞くたび、寝床の隅で小さくなっていた頃を思い出す。
今も、知らない人は怖い。
けれど、人間の町には、若旦那のような人もいる。そこで暮らしている狸たちの話を、聞いてみたかった。
「でも、私、まだ人間の姿を長く保てません」
「それを覚える旅にもなる。人の中で暮らす狸なら、教えてくれることもあろう」
もっと長く、娘の姿でいられるようになる。
若旦那と話している途中で、休みに行かなくてもよくなるだろうか。
こまの耳が、少し持ち上がった。
「なぜ、私なんですか」
父はこまを見た。
「怖がりのお前が、人に助けを頼み、人を助けたと聞いた」
母が話したのだろう。
「力だけでは、梯子は掛からん。お前は、人と一緒に働けた。よその者の話を聞く役を、やってみてほしい」
胸の奥が、熱くなった。
父は、あの火事の話を、そこまで聞いてくれていた。
口を開きかけたとき、戸が勢いよく開いた。
「頭領。旅の支度、できました!」
*
大きな背負い籠を担いだ青年が、土間へ入ってきた。
人間の姿に化けた、幼馴染の鈴太だった。
こまと目が合うなり、籠を下ろしてしゃがみ込む。
「こま。足は。背中は、まだ痛むか」
「もう、大丈夫です」
「歩くときは?」
「痛く、ありません」
鈴太はようやく息を吐いた。
「ならよかった。……無茶すんなよ。火の中で梯子になるなんて」
声が、最後だけ低くなった。
こまは前足を寄せた。
「心配を、かけました」
「次は、俺を呼べ」
鈴太はそう言って、籠の蓋を開けた。
中には厚い布が敷かれていた。縁にも布を巻き、体が当たっても痛くないようにしてある。
「ほら。これなら道が悪くても平気だ」
「……私が、入るんですか」
「ほかに誰が入るんだよ」
鈴太は大真面目だった。
「荷は俺が持つ。人間に会ったら、俺が話す。こまは無理して化けなくていい」
こまは籠の中を見た。
布は柔らかそうだった。
鈴太といれば、道に迷うことも、知らない人に声をかけることも、ずっと減るだろう。
でも。
人と話すことまで頼んだら、自分は何をしに行くのだろう。
「では、明朝にでも――」
父の言葉に、こまは息を詰めた。
まだ、返事をしていない。
その声を出そうとして、父を見た途端、喉が縮んだ。
名代にすると言われ、鈴太も支度をしている。今さら、まだ迷っているとは言いにくかった。
「出る日は、こまの返事を聞いてからですよ」
母が静かに言った。
父の指が、書状の上で止まる。
「……そうだったな」
こまは、そろえていた前足を見下ろした。
籠へ入っていれば、安全かもしれない。
ここで断って、大和屋へ通い続けることもできる。
どちらも、逃げ道として思い浮かんだ。
けれど、知らない狸たちが、どうやって人間の町で暮らしているのか、知りたい。
自分も、もっと人と話せるようになりたい。
帰ってきたら、私の話も聞いてください。
若旦那へ言った言葉を、思い出した。
あの人に聞いてほしい話を、自分で見つけてきたかった。
「……行ってみたいです」
父と、鈴太の顔が上がった。
「怖いですし、うまくお話できるかも、分かりません。でも、まず、頼みを伝えてみたいです」
父が、大きくうなずいた。
「そうか。頼むぞ、こま」
こまは鈴太へ向き直った。
「道は、教えてください。疲れたら、籠にも入れてください」
「おう」
「でも、お話は、私にさせてください」
鈴太の返事が止まった。
こまは目を伏せかけ、もう一度見上げた。
「困ったら、助けてください。そのときは、お願いしますから」
鈴太は籠の縁へ目を落とした。
少し間を置いて、布を敷き直す。
「……分かった。隣には、いるからな」
「はい」
こまは、ほっとして尾の先を緩めた。
「それと、出発の前に、大和屋へ寄りたいです。若旦那様に、お仕事の話をしたら知らせると、お約束したので」
「大和屋?」
鈴太が顔を上げた。
「こまを助けた、あの人間の店か」
「はい。前掛けも、置いてくださっているんです」
帰ってきたら、また結べる。
そう思っただけで、こまの口元が緩んだ。
鈴太は、なぜか黙った。
「……お前、その人の話をするとき、そんな顔するんだな」
「ど、どんな顔ですか」
「いや」
鈴太は籠を背負い直した。
「俺も行く。命の恩人なら、ちゃんと礼を言わねえと」
父が、書状をこまの前へ差し出した。
こまがくわえやすいよう、紐で結んである。
「まずは大和屋へ。そのあと、旅立つ日を決めよう」
こまは頭を下げ、紐をそっとくわえた。
紙に大きく書かれた父の名が、目の下で揺れた。
「娘が世話になったのだ。わしからも、大和屋の茂右衛門殿へ挨拶をせねばな」
母が、父を見た。
「屋根には上がらないでくださいよ」
父の返事が、少し遅れた。




