第11話 便りを、ください
「その座布団は、一枚でお願いします」
母のお福が、父の膝の下から二枚抜いた。
翌朝、大和屋の奥の小部屋で、こまは小さくなっていた。今は人間の娘に化け、父と母の間に座っている。鈴太も人間の姿で、戸口に近い所へ膝をついていた。
「先方より低くては、頭領の威厳が」
「ご挨拶に来たんですよ。背比べではありません」
父は座り直してから、赤い羽織の裾を左右へ広げた。
肩に乗った自分の髪まで、指先で払う。
「こま。わしの名を紹介するときは、少し間を取れ」
「間、ですか」
「鳴神、と言って一息置く。皆がこちらを見てから、六右衛門だ」
こまは膝の上で、袖を握った。
普通に、ご挨拶したい。
その願いが届くより先に、戸が開いた。
「お待たせしました」
若旦那が茶を運ぶ手代とともに入ってきた。手には、まだ薄く布が巻かれている。
こまが口を開こうとすると、父がすっと背筋を伸ばした。
間を取るところから、自分で始めるつもりらしい。
「わしが、鳴神――」
「娘がお世話になりました。母のお福です」
母が頭を下げた。
父は口を開けたまま、母を見た。
「……六右衛門だ」
「大和屋の茂右衛門です。お目にかかれて、何よりです」
若旦那は父の前へ座ると、両手をついて頭を下げた。
「こまさんには、命を助けていただきました」
父の指が、羽織の裾から離れた。
「顔を上げてくれ」
先ほどまでの、よく響く声ではなかった。
「そちらも、娘を助けてくれたそうだな」
「山で会ったときのことでしたら、できることをしただけです」
「それができぬ者もおる」
父は一度、こまを見た。
人間に追われ、泣きながら山へ逃げ帰ったことを、父も知っている。
あのときのことを、考えているのだろうか。
「礼を言う。あの子を、手当てしてくれて」
父が頭を下げた。
こまは袖を握っていた指を緩めた。
その隣で、鈴太も深く頭を下げる。
「幼馴染の、鈴太です。……こまを助けてくれて、ありがとうございました」
若旦那が顔を向けた。
「一緒に旅をしてくれるんだね。こまさんから聞いています」
「俺がついてる。危ない目には――」
鈴太は、そこで言葉を切った。
膝の上で握った拳を、ゆっくり開く。
「……気をつけます」
こまは鈴太を見た。
昨日、困ったときにはお願いすると伝えた。その返事を、覚えていてくれたのだろうか。
父が、若旦那の手へ目を落とした。
「次に何か起きたときも、娘が身を張ることになっては困る」
胸が、ひやりとした。
「父さん。あれは、私が――」
「うむ。お前が決めたのは聞いておる」
父はこまを遮ってから、若旦那へ向き直った。
「だが、また頼られては、断れぬかもしれん」
こまは口を閉じた。
父の声は静かだった。けれど、若旦那の返事を待つ目は、少しも笑っていなかった。
この人を、責めないでほしかった。
でも、火傷を見た母の顔も、背中へ伸ばしかけた父の手も、覚えている。
「私も、あのような思いはさせたくありません」
若旦那が答えた。
「店の者とも、火が出たときは、品物より先に人を逃がすと話しました。私も、一人で何とかしようとせず、皆に頼みます」
布を巻いた手を、膝へ戻す。
「こまさんにも、無理はしないでほしい」
まっすぐ見つめられ、こまはうなずいた。
「はい。……若旦那様も、です」
「うん」
「お忙しくても、ご飯は食べてください。手が痛むときは、ちゃんと手代さんにお願いして」
言いながら、こまは父の方を見た。
若旦那だけが、無茶をしたわけではない。自分も、まだ痛むのに、すぐに働こうとしていた。
「私も、疲れたら休みます。鈴太さんにも、お願いしますから」
若旦那が、ほっとしたように笑った。
「では、約束だね」
手代が茶を置きながら、口を挟んだ。
「こまさん。できましたら、もう一度、食事のところを」
「……今朝も、召し上がっていないんですか」
若旦那が目をそらした。
こまは、思わず身を乗り出した。
「先に、食べてください」
「はい」
返事が、弾んだ。
父の眉が寄った。
「今、叱られたのだぞ」
「そうですね」
若旦那は、なぜか嬉しそうだった。
母が、そっと茶を飲んだ。
*
朝飯を終えた若旦那が、小部屋へ戻ってきた頃には、こまは狸の姿で休んでいた。
父と母は、先に山へ帰った。店の外まで見送りに行った鈴太も、すぐに戻ってきた。
旅立ちは、明朝に決まった。
父から預かった書状を幕裏へ届け、まずは役者たちの都合を聞く。返事を持ち帰るまで、どれほどかかるかは、まだ分からない。
「道を、書いてもらいました」
こまが前足で紙を押さえると、若旦那はその隣へ、もう一枚の紙を置いた。
「こちらも、持っていってくれる?」
折った紙の表に、文字があった。
こま様。
自分の名だった。
「私に、ですか」
「うん。幕裏の芝居小屋へ、品物を届ける商人を知っているんだ。その人の店の名と、場所を書いた。困ったら、訪ねてごらん」
こまは紙へ鼻先を寄せた。
知らない町にも、訪ねてよい場所が一つできた。
「ありがとうございます」
「それと、その店からなら、こちらへ便りを預けられる」
こまは顔を上げた。
若旦那は、紙の端を指で押さえ直した。
「着いたら、知らせてくれないかな。無事かどうか、気になるから」
「はい」
「仕事の返事を待っている間のことでもいいんだ。どんな人に会ったとか、何を食べたとか」
若旦那の指が、紙から離れた。
「こまさんの話を、聞きたい」
こまは、すぐには返事ができなかった。
旅から帰るまで、待たなくてもいいのだ。
遠くにいても、この人へ話してよい。
耳が持ち上がり、尾の先が畳を叩いた。
「……書きます」
声まで弾んでしまった。
「ちゃんと、私が見たことを。若旦那様に、分かるように」
「楽しみにしているよ。私からも、返事を書こう」
こまは、紙を汚さないように前足をそろえた。
鈴太が黙って、二人の間の紙を見ていた。
*
翌朝、町を出た所で、こまは歩みを止めた。
人間の姿で、大和屋へ出立の挨拶をしてきたところだ。若旦那が店先で手を振る姿は、曲がり角を過ぎて、もう見えなくなっていた。
「疲れたか」
鈴太が振り返った。
「……少し」
こまは、胸元の紙を確かめた。
父の書状と、若旦那からもらった紙。どちらも、鈴太が持ってくれる荷袋へ、丁寧に収める。
道の脇の茂みへ入り、狸の姿に戻った。
「籠に、入れてください」
「おう」
鈴太は背負い籠を下ろし、敷いた布を直した。
こまが中へ入ると、紙を入れた荷袋も、そばへ置いてくれる。
「苦しくねえか」
「はい。とても、柔らかいです」
「なら、よかった」
籠が持ち上がった。
縁から顔を出すと、いつもより高い所から道が見えた。畑の向こうへ、見知らぬ屋根が続いている。
鈴太が歩き始めた。
しばらくして、低い声がした。
「……あの人、いい人だな」
こまは耳を向けた。
「若旦那様、ですか」
「ほかに誰の話をしてんだよ」
鈴太の顔は、ここからは見えない。
こまは荷袋へ前足を添えた。
「はい。とても」
返事をすると、鈴太は少し黙った。
「鈴太さん」
「何だ」
「幕裏に着いたら、紙を買うところも、教えてください」
籠が、一度だけ小さく揺れた。
「……分かった」
鈴太は歩きながら、背負い紐を持ち直した。
「まずは、そこまで無事に着こうぜ」
「はい」
こまは顔を上げた。
道の先を見つめながら、便りの最初の一行を、そっと口の中で練習した。
「若旦那様。私、着きました――」
「まだ山の下だぞ」




