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第12話 悪役が足りません

「もっと嫌な顔をしたまえ!」


 芝居小屋の奥から、声が飛んだ。


 こまは、開けかけた戸の陰へ引っ込んだ。背後で、鈴太の足も止まる。


「今でも十分、嫌な顔でしょうが!」


「それは、嫌なことを言われた顔だ。人を苦しめて喜ぶ顔が欲しいのだよ!」


 誰かが困っている。


 けれど、どう助ければよいのか、こまにも分からなかった。


 町を出た日の昼過ぎだった。途中で何度か休み、鈴太に道を教わって、ようやく目的の芝居小屋に着いた。


 裏口の戸には「本日休み」とある。それでも、幕の向こうからは、何人もの声と足音が聞こえていた。


「稽古だろ。入って大丈夫だ」


 鈴太に言われ、こまは袖を握り直した。少し手前の木陰で休んでから、人間の娘に化けている。


「あの……ごめんください」


 声が、板を踏む音に消えた。


 もう一度言おうとしたとき、幕が横へ引かれた。


 鼻の高い、細身の男が立っていた。髪を後ろへ結び、山伏めいた衣を着ている。手には、使い込まれた扇。


「客人かね。すまないが、今日は――」


「鳴神六右衛門の、名代で参りました。娘の、こまと申します」


 今度こそ言えた。


 こまは両手で、父の書状を差し出した。


 男が受け取り、広げる。


 大きな父の名と、赤い羽織の似顔絵が現れた。


「……実にいい」


 こまの肩から、少し力が抜けた。


「この眉。この、人の話を聞きそうにない口元。悪役に欲しい顔だ」


 力を抜くのは、早かった。


     *


 男は風斎と名乗った。


「この小屋で芝居をまとめている。狸ではないがね。天狗だ」


 裏口を閉め、声を落として教えてくれた。


 舞台には、鎧姿の役者や、女の着物を着た役者がいた。今は皆、人間の姿だという。


 人の町で芝居をして暮らす、狸たち。


 ここが、父の言っていた幕裏だった。


「それで、祭りに芝居を、と」


 風斎は書状を畳んだ。


「はい。何人の方に出ていただけるか、どのくらい日数やお金が要るか、お聞きしてくるようにと」


「どんな芝居を?」


「狸の技や、暮らしが伝わるものを……皆さんと、ご相談して」


 風斎の目が、舞台へ向いた。


「我々の芝居を、観たことはあるかね」


「……ありません」


「では、まず観てもらおう。何を頼みたいかは、その後だ」


 返事をしてもらえなかった。


 こまは、膝の上で両手を重ねた。


 父に頼まれたことを、間違えずに伝えればよいと思っていた。けれど、目の前の役者たちが、どんな芝居をするのかも知らないのだ。


「お父上の名が大きく書いてあっても、明日の客を置いて出かけるわけにはいかないのでね」


 風斎は扇で、書状の父の名を軽く示した。


「断るのか」


 鈴太が言った。


 こまは袖へ手を伸ばしかけ、止めた。


 自分で、聞こう。


「お芝居を……観せていただけますか」


 風斎がこちらを見た。


「どんなことをなさるのか、ちゃんと、知りたいです」


「よろしい」


 扇が、ぱちりと開いた。


「ただし稽古だ。先ほどから、肝心の悪役が善人に見えて困っている」


「聞こえてますよ、座長!」


 鎧姿の男が、舞台から叫んだ。


     *


 こまは舞台脇へ座り、鈴太がその隣へ腰を下ろした。


 舞台の奥には、板に描かれた大きな城門が、二本の綱で吊られている。その下を、姫役の狸が裾を引いて歩いていた。


「そこだ。姫を逃がしたと知り、追っ手を差し向ける」


 風斎が扇を振った。


 薄い光の幕が、舞台の横へ広がった。


 そこに、黒い馬に乗った武士が映る。


『門を閉じよ。一人たりとも逃がすな!』


 蹄の音まで、板敷きを震わせるようだった。


 こまは鈴太の袖をつかんだ。


「映した芝居だよ。そこに馬はいない」


 風斎が扇を閉じると、武士も馬も消えた。


「私の術で、別の演じ方を見せているのだ。今の声には、何があった?」


「……怒って、いました」


「うむ。では、怒りながら笑っていたのは、なぜだろうね」


 こまは、消えた武士のいた場所を見た。


 怖かった。


 けれど、あの武士が何をするのか、少しだけ、続きも気になった。


 そのときだった。


『切れる!』


 頭上から、細い悲鳴がした。


 こまが見上げた途端、城門の左上を吊っていた綱が弾けた。


 どん、と板敷きが鳴った。


 城門の左下が舞台へ落ち、右上は綱に吊られたまま、斜めに揺れる。


「離れろ!」


 鈴太が飛び出した。


 姫役が逃げようとして、床へ手をつく。着物の裾が、落ちた城門の角に挟まっていた。


 鈴太が城門の枠をつかむ。


 けれど、片方だけ吊られた大きな板は、鈴太の方へ倒れかけていた。


「こっちを、持ってくれ!」


 二人の役者が駆け寄った。


 こまは立ち上がったまま、動けなかった。


 大きな音が、まだ耳の中にある。


 火のそばで、若旦那が窓から下りてくるのを待ったときのことが、急に蘇った。


 このままでは、誰かが下敷きになる。


『持ち上げないで! 右まで外れる!』


 今度は、城門の枠が叫んだ。


 こまは顔を上げた。


「持ち上げないでください!」


 声が、舞台へ響いた。


「下の角を動かすと、右上の、綱を掛けた所まで外れるそうです!」


 風斎が枠を見上げ、顔色を変えた。


「金具が浮いている……。そのまま支えろ。先に裾を抜く!」


「私、棒に化けられます」


 こまの声は、震えていた。


「でも、一人では、支えられません。皆さんで持っていてください」


 風斎がうなずいた。


「倒れないよう、脇から支えるのだね。長さは、このくらいだ」


 広げた両腕を見て、こまは足元へ目を落とした。


 知っている形を、思い浮かべる。


 次の瞬間、舞台脇に一本の太い木の棒が転がった。


 風斎が拾い上げた。こまを斜めに立て、上端を城門の丈夫な枠へ、下端を床に留められた横木へ当てる。


「急に手を離すな。皆で、押さえたまま!」


 重さがかかった。


 折れたら、城門が倒れる。


 けれど、火の中の梯子になったときとは違った。


 鈴太たちが、今も支えている。風斎の手も、こまがずれないように押さえてくれていた。


「裾が抜けた!」


 姫役が這い出した。


 風斎は、空いた役者を右の綱へ回らせた。


「そちらで綱を緩める。こちらはゆっくり倒すぞ。足元を空けろ!」


 城門が、少しずつ下りていく。


 こまの上端から、重さが抜けた。


 鈍い音を立て、城門が舞台へ横たわった。


     *


 狸の姿へ戻ったこまは、舞台脇で水を飲んだ。


「どこも、痛くねえか」


 鈴太に聞かれ、こまはうなずいた。


「はい。皆さんが、支えてくださったので」


 姫役の狸が、人間の姿のまま、何度も頭を下げてくれた。


 誰も、大きな怪我はなかった。


 それを聞いて初めて、こまは水の椀から口を離せた。


「あの上の金具を、付け直さねばな」


 風斎が足場の梯子を見上げた。


 一段、足を掛ける。


 すぐに下ろした。


「……そこの君。頼めるかね」


「座長、二段目にも上がってませんよ」


「見えている。言わなくてよろしい」


 扇が、細かく震えていた。


 こまが見つめていると、風斎は咳払いをした。


「天狗だが、高い所は駄目なのだ」


「……そう、なんですか」


「そうなのだよ」


 それだけ言うと、風斎はこまのそばへしゃがんだ。


「助かった。こま殿」


 こまは前足をそろえた。


「お怪我がなくて、よかったです」


「ところで、あの枠が何か言ったのかね」


「はい。私、物の声が聞こえるんです」


 風斎の目が、こまから城門へ移った。


 それから、ゆっくり、こまへ戻ってきた。


「物になれる。声も聞ける。そして、人間の娘にも化けられる」


「まだ、短い間だけですけれど……」


 風斎が扇を開いた。


 先ほど、父の似顔絵を見たときと、同じ顔になった。


「こま殿。一つ、試してみたくはないかね」


「何を、ですか」


「芝居を」


 こまの耳が、ぺたりと伏せた。


 風斎は、もう舞台を振り返っていた。


「姫が身代わりの人形に化け、追っ手を欺く。人形が本物の姫になるところまで、客の目の前で見せられるではないか!」


「待て。こまは、頼みを伝えに来たんだぞ」


 鈴太が言った。


「そうとも。まずは我々の芸を知ってもらう。読むだけの稽古からだ。引き受けるかは、その後に決めればよい」


 差し出された台本を、こまは見つめた。


 物の姿から、人間の娘へ。


 若旦那の前でも、まだうまくできないことだった。


 けれど、ここでなら、教わることができるのだろうか。


「……読むだけ、でしたら」


 風斎の笑顔が、ぱっと広がった。


「実にいい。最初の台詞は、ここだ」


 扇の先が、一行を指した。


 ――私は、この城の姫でございます。

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