第13話 姫では、ありません
「私は、この城の姫で――」
ぽん。
「狸です!」
こまの声が、芝居小屋に響いた。
人間の姿に化け直し、台本を持って立ったばかりだった。
姫ではないことは、皆が知っている。書かれた文字を読むだけなら、嘘にはならないと思ったのだ。
けれど、膨らんだ腹を、手が勝手に叩いていた。
「この城の姫ではありません! 山から来た、狸のこまです!」
ようやく、手が止まった。
台本は足元に落ちていた。
鈴太が口を開けている。風斎も、扇を開きかけたまま固まっていた。
舞台の奥で、誰かが吹き出した。
こまは顔を伏せた。
頬が熱い。耳の奥まで、じんじんする。
せめて台本を拾わなくてはと思うのに、膝が曲がらなかった。
「……すみません」
やっと出た声は、さっきよりずっと小さかった。
「私、嘘をつくと、こうなってしまうんです。人間になる力を、頂いた代わりに……」
「芝居の台詞でもかね」
「今、初めて、分かりました」
風斎が顎へ手を当てた。
「ふむ。名乗った途端に腹鼓で正体を明かす姫。これは、喜劇なら――」
「こまの顔を見ろよ」
鈴太の声が、低くなった。
こまは袖で口元を隠した。
人に見られたくなかった。ここにいるのは狸たちだと知っているのに、笑い声を聞いた途端、山へ逃げ帰ったときの気持ちになっていた。
風斎の扇が閉じた。
「……先走った。すまない」
落ちた台本を拾い、そばの箱へ置く。
「稽古は、ここまでにしよう」
ほっとした。
それなのに、終わりだと言われると、胸の奥が痛くなった。
棒にはなれた。
人間の娘にもなれた。
けれど、皆ができることが、自分にはできない。
「私、姫には、なれません」
言っても、腹は膨らまなかった。
*
舞台脇へ下がると、姫役の狸が水を持ってきてくれた。
「さっき笑ったの、あたし。ごめんね」
こまは椀を受け取り、首を振った。
「急に、あんな音がしたので……」
「うん。驚いた。でも、あんたが嫌な顔をしてるのに、笑っていいことじゃなかった」
姫役は隣へ腰を下ろした。化粧を拭いた顔には、鼻の脇に小さなほくろがあった。
先ほど、裾を城門に挟まれていた役者だった。
「あたしだって、最初からできたわけじゃないよ。初舞台では、隠れる相手を間違えた」
「間違えた……?」
「助けに来た侍を蹴って、悪代官の後ろへ逃げ込んだの」
こまは椀を持ったまま、顔を上げた。
「それは、あの……」
「悪代官が一番困ってた。かばうわけにも、斬るわけにもいかないからね」
想像して、こまの口元が、少し緩んだ。
姫役も笑った。
今度は、顔を伏せなくて済んだ。
風斎が少し離れた所から声をかけた。
「こま殿。芝居をする話は、断って構わない。父上への返事にも、響かせるつもりはないよ」
こまは箱の上の台本を見た。
父の仕事のために、引き受けなければならない。
そう考えていたわけではない。
物から人へ変わるところを見せられる、と言われて、思い浮かべた顔があったのだ。
「……人間の姿で、ちゃんと、お話できるようになりたかったんです」
風斎がこちらへ来た。
「誰と?」
「お世話になった方と」
若旦那の前掛けを結ぶ手を思い出した。
話の途中で休みに行かずに済むように。
嬉しいときも、顔を伏せずにいられるように。
「帰ってきたら、私の話を聞いてくださいって、お約束したので」
鈴太が、こまの隣に置いた荷袋へ目を落とした。
若旦那からもらった紙が、入っている。
「なるほど」
風斎は、台本を一度開き、また閉じた。
「では、姫になるのはやめよう」
「……はい」
「姫の身代わりにされた人形が、自分も帰りたいと言い出す。それなら、どうだろう」
こまは首をかしげた。
風斎は、足元の舞台板を扇で示した。
「置いていかれるのが嫌で、帰る場所がある。そこを演じるのだ。こま殿が口にしてよい言葉を、一つずつ確かめよう」
「全部、私が、本当に思っていることを……?」
「言葉はそうなるね。相手の言葉を聞き、いつ返し、どこへ目を向けるかは、これから稽古だ」
風斎は、舞台の真ん中で腕を組んでいる鎧の役者を呼んだ。
「君は人形を奪う者だ。逃げ道を塞ぎ、帰る所などないと言い渡す」
「また悪役ですか」
「先ほどより、ずっと嫌がっている。今の顔を覚えておきたまえ」
「座長のせいですよ!」
姫役が肩を震わせた。
こまも、今度は少し笑った。
*
「お前を待つ者など、どこにもおらぬ」
鎧の役者が、低い声で言った。
こまは舞台の上で、指を握った。
短い休みを挟みながら、声を出す稽古をしていた。
帰る所などない。
そう言われると、火事のあと、母に迎えを頼もうとした夜を思い出す。
何もできなければ、そばにはいられないと思っていた。
でも、若旦那は、いてほしいと言ってくれた。
「……帰るところは、あります」
腹は、膨らまなかった。
「私の話を、待ってくださる方が、いるんです」
言い終えて、こまは自分の腹を見た。
手は、着物の袖を握ったままだった。
「言えました」
思わず風斎を見た。
「うむ。次は、その人を見て言うのだよ」
扇が、向かいの役者を指した。
「客には、言葉を言い終えたこま殿まで見える。途中で私を確かめに来ては、人形が帰りたがっている場面が終わってしまう」
「……はい」
もう一度、向き合った。
役者が、ゆっくり顔をしかめる。
こまは、逃げずに見つめた。
「帰るところは、あります」
次の言葉を待つ間、役者の目が動いた。
こまも、息を止めてしまいそうになる。
「ならば、そこへは帰さぬ」
怖い声だった。
さっきと違う台詞が来た。
こまの足が、一歩下がる。
「それは、嫌です」
声が出た。
役者が口元を歪めた。
嫌な顔だ、と分かった。
この人は、人形が困るのを面白がっている。
「……いいね」
風斎が小さく言った。
こまは今度こそ、そちらを見ずにいられた。
*
翌日の昼、こまは舞台袖で、木の人形になっていた。
本芝居の前に演じる、短い一幕。
昨日の稽古を終えてから、こまは自分で、やってみたいと答えた。
人形のこまを舞台へ運ぶのは、姫役だった役者。鈴太は袖で、出番を終えたこまを迎えてくれる。
風斎とは、人間の姿でいる場面を短くすると決めていた。人形のうちは動かず、決めた合図で娘に変わる。
何度も、確かめた。
それでも、幕の向こうのざわめきを聞くと、帰りたくなった。
人間の声だった。
笑い声。咳払い。隣へ席を詰める音。
この人たちが、一度に、こちらを見る。
「こま」
鈴太の声がした。
「袖には、俺がいるからな」
「……はい」
役者の両手が、こまを持ち上げた。
幕の内側へ運ばれ、舞台の中央へ置かれる。
拍子木が鳴った。
幕が開いた。
客席に、人の顔が並んでいた。
こまは、動かずにいた。
動かなくてよい。それだけが、今はありがたかった。
姫役の役者が人形を置いて去り、鎧の男が近づいてくる。
「主に捨てられた人形が。お前を迎えに来る者など、もうおらぬわ」
昨日、何度も聞いた声。
男が、前に置かれたこまを扇で示した。
合図だった。
こまは、人間の手と足を思い浮かべた。
板の感触が、足の裏へ戻る。
客席で、声が上がった。
「おっ」
「娘になったぞ」
客が、何人も身を乗り出した。
こまは袖を握った。
口を開く。
声が、出なかった。
正面の男が、聞き取ろうとするように眉を寄せた。
「何だって?」
喉が、ぎゅっと縮んだ。
笑われたら。
怒鳴られたら。
役者が、こまの顔を見た。次の台詞へ進まず、待ってくれている。
袖の端に、鈴太の握った手が見えた。
こまは、胸いっぱいに息を吸った。
あの前掛けは、まだ、大和屋にある。
「帰るところは、あります」
今度は、前の席まで届いた。
「私の話を、待ってくださる方が――いるんです」




