第14話 この声で、頼みたい
「ならば、そこへは帰さぬ」
鎧の男が、こまの行く手を塞いだ。
昨日、稽古で聞いた台詞だった。
けれど今は、客席いっぱいの人間が見ている。男の背後にあるはずの出口まで、ずっと遠く感じた。
逃げたい。
早く幕の後ろへ戻って、人形になってしまいたい。
こまは袖を握った。
「それは、嫌です」
鎧の男が、口の端を上げた。
「ほう。持ち主に逆らう人形など、聞いたことがないぞ」
「あたしは、女房に逆らえねえけどな」
客席の後ろから、声が飛んだ。
笑い声が、どっと広がった。
こまの肩が跳ねた。
何を、笑われたのだろう。
自分の立ち方か。声か。こんな、今にも逃げ出しそうな顔か。
鎧の男は客席をじろりと見た。
「我が城にも、あの男の女房が要るな」
「やめとけ! 城を取られるぞ!」
また、笑いが起きた。
こまは、ぽかんとした。
役者は笑わず、恐ろしげな顔のままだ。その眉が、ほんの少しだけ上がる。
昨日も見た顔だった。
待ってくれている。
こまは、握った指を緩めた。
自分を笑っていたのでは、なかったのだ。
「……通してください」
稽古で言った言葉を、相手の顔へ向ける。
「私、帰りたいです」
「通れるものなら、通ってみよ」
男の扇が横へ動いた。
舞台脇に、薄い光の幕が広がる。
そこを、こまと同じ姿の娘が走った。
風斎が映している、音と光の芝居だった。
「待て!」
鎧の男が、そちらへ向き直る。
今だ。
こまは反対側の袖へ、一歩を踏み出した。
板が、足の裏で鳴る。
二歩、三歩。
「そっちじゃねえぞ!」
客席から声が上がった。
こまは息を詰めた。
ばれた。
けれど、その隣から、別の声が飛んだ。
「教えるなよ。逃がしてやんな!」
こまは振り返りかけた。
袖の向こうで、鈴太が手を伸ばしていた。
こまも手を出した。
指が触れ、鈴太がそっと引いてくれる。
幕の陰へ入った途端、背中から力が抜けた。
舞台では、鎧の男が、消えてしまった娘の幻を探している。
「おのれ。どこへ消えた!」
反対の袖から、姫役だった役者が顔を出した。
「帰ったんじゃありませんか」
「どこへだ!」
「待っている人のところへ」
拍子木が鳴った。
幕が、左右から閉じていく。
手を打つ音が聞こえた。
一つ、二つ。
やがて、いくつあるのか分からなくなった。
「人形の仕掛け、どうなってんだ!」
面白がるような声も、幕の向こうから聞こえた。
こまは鈴太の手を握ったまま、閉じた幕を見つめた。
「終わった、んですか」
「おう」
「私……ちゃんと、戻ってこられましたか」
「ここにいるだろ」
鈴太が笑った。
こまはうなずこうとして、涙を落とした。
人間の前で、声を出した。
怒鳴られなかった。追い払われなかった。
逃がしてやれと、言ってくれた人もいた。
「こま?」
「……もう少しだけ、手を」
鈴太の指に、少し力がこもった。
「おう」
*
「声は届いた。だが、逃げる前に肩だけ先へ向けすぎだね。どちらへ走るか、客に教えていた」
風斎が、扇の先で自分の肩を示した。
こまは狸の姿へ戻り、座布団に腹をつけていた。姫役の役者が、そばへ水を置いてくれる。
「それと、私の幻が現れる前から、鈴太殿の方を見ていた」
「……すみません」
「次に直せばよい」
次。
こまは顔を上げた。
風斎は、手のひらに包んでいた銭を、こまの前へ置いた。
「今日、舞台に立った分だ」
「私も、頂いてよいんですか」
「稽古は要るが、客の前で働いた。私たちが見ていたのだから、そこは疑わなくてよろしい」
こまは銭を見つめた。
人間の前へ出るなんて、嫌だった。
途中で笑い声が上がったときは、立っていられなくなりそうだった。
それでも、最後まで、あの板の上にいたのだ。
「ありがとうございます」
前足をそろえて頭を下げた。
若旦那に、このことも書きたかった。
大きな声を出せたこと。失敗したこと。手を叩いてもらったこと。
顔を上げると、さっきまで鎧を着ていた役者が、水を飲んでいた。
もう、怖い顔ではない。
こまと目が合うと、口元を緩めた。
「助かったよ。昨日からの座長の注文が、ようやく一つ減った」
「一つ?」
「嫌な顔をしろ、の分」
風斎が扇を開いた。
「次は、負けた顔だね。今日の君は、女房の話をされた後が一番よかった」
「あれは本当に、どう返そうか困ったんですよ!」
こまの口から、小さく笑いが漏れた。
*
本芝居は、舞台袖の陰から観た。
掛け直された城門の下へ、姫役が追い詰められる。さっき人形を逃がしてくれた役者なのに、今度はこの人が逃げられるか、心配になった。
鎧の男の笑う顔を見て、こまは思わず前足を握った。
もっと先を、観たかった。
最後の客を送り出した頃には、日が傾いていた。
こまは風斎の前へ座った。
横には、姫役と鎧役の二人もいる。
「父からの、お願いなのですけれど」
返事を聞く前から、前足がこわばった。
舞台を助けたから、引き受けてもらえる。
そう思われたくはなかった。
こまは、父の書状ではなく、三人の顔を見た。
「今日、私が言葉に詰まったとき、待ってくださいました。お客さんが声をかけてきても、お芝居が続いて……」
うまく、言えない。
風斎たちは、黙って聞いてくれていた。
「怖い人が、怖いままで、おかしくなりました。人形が逃げられるように、声をかけてくださる方もいました」
こまは前足へ力を入れた。
「皆さんのお芝居を、祭りでも、観ていただきたいです。狸がすごいと知ってもらうだけではなくて……続きを観たくなるような、あのお芝居を」
姫役が、隣の役者を見た。
鎧役が、少し照れたように鼻の脇をかいた。
風斎が、書状を膝へ置いた。
「一座を丸ごと出すことは、できない」
胸が縮んだ。
今も、通りの方では、明日の芝居の札を掛け直している。
ここには、待っている客がいるのだ。
こまは、うなずいた。
「はい」
「短い芝居を一つ。役者を二人。祭りの場所と日取りが決まったら、改めて相談する。それなら、どうだろう」
こまの顔が上がった。
姫役が腕を組んだ。
「ここでの出番を空けられる日ならね。それと、着物や道具を運ぶ銭まで、こっち持ちは困るよ」
「演目も、こちらで作らせてもらいたい」
鎧役が言った。
「大きな名前の方が、好きに台詞を足すのは、なしで」
こまは、父の似顔絵を見た。
父さんは、足しそうだ。
「……そのことも、ちゃんと、伝えます」
鈴太が、荷袋から紙と筆を出してくれた。
風斎は三人で話した条件を書き留め、こまへ読んで聞かせた。
出演料。旅と道具の運搬にかかる銭。稽古の日数。
具体的な段取りが決まるまでは、一座全員の協力が決まったと知らせないこと。
「こちらは、あくまで相談に応じるという返事だ。父上と話を詰めるのは、これからになる」
「はい。まだ、全部のお約束ができたわけではないんですね」
「そうだ」
風斎が筆を置いた。
こまは、その紙を両方の前足で押さえた。
皆、違うことを望んでいた。
父の願いを伝えて、返事を持ち帰る。
その間に、相手の願いも、こんなにたくさん聞くのだ。
「大切に、お預かりします」
頭を下げると、風斎がもう一枚、紙を引き寄せた。
「それと、私個人の話なのだが」
「はい」
「この先、私も一緒に行こうと思う」
こまは顔を上げたまま、固まった。
鈴太が、隣で風斎を見た。
「ここの芝居は、どうするんだよ」
「当面の本芝居は、書き上げてある。稽古を見る役も、頼んでいく」
姫役が、ため息をついた。
「今朝から、帰りたい人形の話を三つも書いてるんだよ。もう、次を探しに行きたい顔をしてた」
「三つ?」
こまの耳が持ち上がった。
「帰る先が違えば、芝居も変わる。道中で、人や道具の話を聞きたいのだ。お父上にも、祭りで何を観せたいのか、直接聞ける」
風斎は、こまを見た。
「君の名代の旅へ、同行させてもらえないかね」
旅の仲間を迎える返事まで、自分がするのだ。
こまは鈴太を見た。
鈴太は何か言いかけ、それから口を閉じた。
「……こまが決めろよ」
こまは、前足をそろえ直した。
「私も、教えていただきたいことが、あります。よろしければ、ご一緒に」
「実にいい!」
風斎の扇が、ぱっと開いた。
それから、少しだけ声が小さくなった。
「ただ、一つ、頼みがある」
「何ですか」
「道は、できるだけ、低い所を通ってくれたまえ」
鈴太が、風斎の前の、まだ白い紙を見下ろした。
「先に言ってくれて、助かったよ」




