第15話 台詞は、増やせません
「父さんの台詞は、増やせません」
こまが言うと、父の筆が止まった。
幕裏を出て山の家へ戻り、ようやく返事を渡したところだった。こまは人間の娘に化け、父の前へ座っている。隣には鈴太と、旅支度をした風斎がいた。
父は風斎の書いた条件を読み終えるなり、余白へ自分の名乗りを書き始めていた。
「まだ、二行しか足しておらぬぞ」
「足す前に、役者さんたちと、ご相談してください」
「名乗るだけだ」
紙には、鳴神六右衛門という名の前に、長い言葉がいくつも連なっていた。
こまは、そこを指した。
「……私が、お預かりしてきたお返事なので」
指先が、少し震えた。
父を困らせたくはない。
けれど、皆が言っていたことを、自分の所で変えてしまいたくなかった。
「この紙には、書き足さないでください」
父は筆の先を見た。
風斎が、扇を膝へ置いた。
「名乗りだけで客を振り向かせるのは、難しいものです。立ち姿や、声の間も要りますね」
「ほう。わしは、立ち姿には少々心得がある」
父が膝を立てた。
茶を運んできた母のお福が、その肩を押して座らせた。
「今は娘の報告を聞いてください」
こまは、ほっとして紙を引き寄せた。
「祭りの日と場所、それに、こちらのお芝居の予定を確かめてからです。役者さんは二人。短いお芝居を一つ。旅の銭と、道具を運ぶ銭は、別に相談したいそうです」
「一座すべてではないのだな」
「はい。ここで待っているお客さんを、置いていくことはできないと」
父は、しばらく黙った。
こまは膝の上で指を重ねた。
もっと大勢に、もっと大きな返事をもらってくるべきだったのだろうか。
「分かった」
父が筆を置いた。
「それを踏まえて、改めて頼みを出そう。向こうの都合を聞いてきたのだな」
「……はい」
「ようやった」
こまは顔を上げた。
父は、こまの持ち帰った紙を、今度は何も書かずに畳んだ。
間違えずに、渡せた。
前足ではない自分の指を、こまはそっと緩めた。
「それで、こちらの天狗殿も、旅をともにしてくださると」
「風斎です。道中で話を集め、新しい芝居を書きたいと思っています」
「ならば、わしの話などどうだ。若き日の修行から――」
「人の話を聞かず、誰よりも目立とうとする頭領。よい人物になりそうですね」
母が茶碗を置く手を止めた。
父は胸を張った。
「よく分かっておるではないか!」
こまは、父と風斎を交互に見た。
同じ芝居を、思い描いているのだろうか。
*
茶を飲み終えると、父は新しい書状を取り出した。
「次に訪ねてほしい所がある。木渡という、舟や橋を造る狸たちの仲間だ」
こまは背筋を伸ばした。
「大きな催しには、人と品物を運ぶ舟が要る。まず、源蔵という職人に会って、話を聞いてきてくれ」
「どこまで、運ぶんですか」
「荷を集める港までだ。いずれ畿内で、阿波の芸や品を見せる祭りを開きたい。受け入れ先や日取りは、これから詰める」
海の向こう。
こまは父の顔を見た。
大きな催しとは聞いていた。けれど、山を下りた先の町よりも、ずっと遠くへつながる仕事だったのだ。
「舟の大きさや、いつまでに何を運ぶか。聞かれるでしょうね」
風斎が言った。
父はうなずき、書状を開いた。
「今、こちらで考えている荷と人数は書いてある。造れるか、どれほど手間がかかるか、まずは確かめたい」
こまは紙へ目を落とした。
父の名前は、今度も大きかった。
その下の文字を、端から読んでいく。
「分からなかったら、聞いてきても、よいですか」
「無論だ」
「その場で、お返事できないことは、持ち帰ります」
父が、こまを見た。
「うむ。それでよい」
こまは、両手で書状を受け取った。
鈴太がそばの荷袋を開いた。紙をしまう場所を空け、こまが入れ終えるまで、持っていてくれた。
*
その晩、こまは灯りのそばで筆を握った。
昼間より短い間だけ、人間の姿になっている。
まず、若旦那の名前を書いた。
次の行で、止まる。
書きたいことが、たくさんあった。
人形になった。姫にはなれなかった。怖い顔をする役者が、本当はよく笑う人だった。
どれから書けば、伝わるだろう。
見ていたように、そのまま話せたらいいのに。
こまは口元を押さえ、それから、もう一度筆を動かした。
幕裏の町へ、無事に着きました。
お芝居を、少しだけ手伝わせていただきました。人間のお客さんの前で、声を出しました。
とても怖かったですが、手を叩いてくださいました。
一行ずつ、確かめながら書いた。
父への報告で一度山へ戻ったこと。次は木渡という町へ行くこと。風斎という天狗が、一緒に旅をしてくれること。
書き終える頃には、指先がじんと痺れていた。
こまは紙を畳み、筆を置いた。
「もう、休みなさい」
母が、寝床を整えてくれた。
「はい。あの……明日、町へ行く方は、いらっしゃいますか」
「母さんが行くよ。買い出しがあるからね」
こまは、畳んだ紙を両手で差し出した。
「大和屋へ、届けていただけますか」
母の目が、宛名へ落ちた。
「若旦那に、お便りかい」
「着いたら、知らせてほしいと、言ってくださったので」
「そう。渡してくるよ」
受け取ってもらえて、こまは肩を下ろした。
木渡へ向かう道は、大和屋の町とは違う方へ延びている。今度は、これまでより長く、顔を見に行けなくなる。
それでも、あの人の所へ、自分の言葉は届く。
「……お願いします」
母の手の中で、紙の端が、かすかに鳴った。
*
翌朝、山を下りる道で、風斎は三度立ち止まった。
一度目は、道端の大きな切り株を見たとき。
「ここへ腰掛けて、誰かを待つ役がよいね」
二度目は、枯れ枝が落ちてきたとき。
「追っ手が来たかと思わせて、ただの枝。使える」
三度目は、木々の切れ目から、谷が見えたときだった。
「……この道は、ずっと、この幅かね」
「さっきの二つと、声が違うぞ」
鈴太が言った。
こまは狸の姿で、鈴太の籠から顔を出していた。荷袋の中には、木渡への書状が収まっている。
鈴太が足を止め、道の山側へ寄った。
「こっち歩けよ。谷は見なくていいから」
「助かる」
風斎が、鈴太の背に隠れるように進む。
扇は、脇へしっかり挟まれていた。
「風斎様」
「何かね、こま殿」
「怖いときは、言ってください。止まっていただくのは、私も、お願いするので」
風斎が、こちらを見た。
「では、早速だが、次の曲がり角で少し止まりたい」
「曲がる前からかよ」
「先が見えないのだよ!」
こまは籠の縁へ鼻先を伏せ、少し笑った。
誰かに待ってもらうのは、自分ばかりではなかった。
山道を下り切った頃には、日が高くなっていた。
川の音が聞こえる。
木渡へは、この先の渡し場から、向こう岸へ渡るのだという。
鈴太の肩越しに、大きな川が見えた。
岸に杭が打たれ、舟をつなぐ綱が揺れている。笠をかぶった男が、舟の上で櫂を拭いていた。
「あの方に、渡していただくんですね」
こまが言ったときだった。
舟の脇の水が、大きく盛り上がった。
緑色の腕が、二本。
太い指が舟底をつかむ。
舟が、持ち上がった。
こまは籠の中で、ひっくり返りそうになった。
舟の下から現れたのは、丸い皿を頭に載せた、大男だった。濡れた肩も、胸も、こまの知る人間よりずっと厚い。
背中には、大きな甲羅があった。
「よし。岸へ上げるぞ!」
「待て待て待て!」
舟の上の男が、櫂を放り出して舷へしがみついた。
「俺が下りてからにしろ! 泳げねえんだぞ!」
大男は、舟を頭の上へ差し上げたまま、こちらを向いた。
目が合った。
「おう。お前らも、渡りたいのか!」




