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第16話 膝をついたら、負けです

「まず、その方を下ろしてください!」


 こまは籠から身を乗り出した。


 河童の頭の上で、舟が揺れている。舟の男は舷へしがみつき、足を宙でばたつかせていた。


「おう。そうだな!」


 河童は舟を抱え直し、岸の平らな砂地へ置いた。


 鈴太が駆け寄り、男の腕を支える。


 男は舟から下りるなり、膝に手をついて、長く息を吐いた。


「舟底の泥を落としたいとは言ったがよ……。乗ってるうちに持ち上げる奴があるか!」


「一緒に運べば、一度で済む」


「俺は自分で歩けるんだよ!」


 河童は目を丸くした。


「そうか」


 こまは、鈴太の下ろした籠から、おそるおそる前足を出した。


 近くで見ると、河童の腕は、こまの胴ほども太かった。水を払うだけで、周りの砂へ大粒の雫が飛ぶ。


 頭には、幅の広い皿が載っている。


「俺は渦吉だ。この川に住んでいる」


 大きな口が、にっと開いた。


「そっちの狸。さっきは、教えてくれて助かったぞ!」


 こまは尾を体へ寄せた。


「こまと、申します」


「俺は鈴太。こっちは風斎だ。木渡へ行きたいんだが」


「なら、向こう岸だな」


 舟の男が笠をかぶり直した。


「渡し守の弥一だ。底を確かめて、泥を落としたら出すから、少し待ってくれ」


 渦吉が舟の縁へ両手を掛けた。


「ひっくり返せばよいか」


「もう俺は乗ってねえな。よし。ゆっくりだぞ。ゆっくり!」


     *


 舟を伏せ終えると、渦吉は河原の一角へ歩いていった。


 小さな地蔵が立っていた。


 川を向いた石の顔には、苔がついている。足元の皿へ、渦吉は懐から胡瓜を一本出して供えた。


「今日も、舟が無事に渡るように」


 太い指がそろい、頭が下がる。


 さっきまで舟を振り回していた河童が、胡瓜の向きまで、そっと直していた。


 こまが見つめていると、渦吉がこちらへ来た。


「待っている間、相撲を取らんか」


 こまは、その腕を見上げた。


「……お相撲、ですか」


「おう。俺に勝ったら、荷を向こう岸まで運んでやる。木渡へ向かう川沿いの道も、知っているぞ」


「負けたら、どうなるんですか」


「俺が嬉しい!」


 渦吉が胸を張った。


 こまは、返事に困った。


 鈴太が前へ出た。


「勝負なら、俺が――」


 途中で止まり、こまを見た。


 渦吉も、鈴太ではなく、こまの返事を待っていた。


「嫌なら構わん。俺は、相撲が好きでな」


 勝てるとは、思えなかった。


 でも、荷を運んでもらえたら、鈴太も楽になる。知らない道を、教えてもらうこともできる。


 こまは、地蔵の前に並べられた胡瓜へ、もう一度目を向けた。


「化けても、よいですか」


「よいぞ!」


「叩いたり、投げたりは……」


「なしだ。押すだけ。膝をつくか、輪の外へ出た方の負けにしよう」


 渦吉は足で砂をならし、太い指で大きな輪を描いた。水際からは十分離れた、平らな場所だった。


「こまが痛いと言ったら、すぐ止めろよ」


 鈴太の声が、硬くなる。


 渦吉は真面目な顔でうなずいた。


「嫌になったら、それでも終わりだ。続けられるかは、こまが決める」


 風斎が扇を開いた。


「私が見届けよう。始める前に、もう一度、二人とも条件を確かめたまえ」


 こまは自分の前足を見た。


 力では、勝てない。


 けれど、今、ここで見たことなら、使えるかもしれない。


「……お願いします」


     *


 輪の中で向かい合うと、渦吉の影が、こまの上へ落ちた。


 大きい。


 前足が、砂へ沈む。


 やっぱり無理かもしれない、と言いかけた。


 そのとき、渦吉が両膝を少し曲げた。低い所にいるこまへ、目の高さを近づけようとしているのだ。


 待ってくれていた。


 こまは、さっき見た石の形を思い浮かべた。


「始め!」


 風斎の扇が下りた。


 渦吉が、一歩、踏み込んだ。


 こまは目を閉じた。


 丸い頭。閉じた目。胸の前で合わせた手。


 砂の上に、小さな地蔵が立った。


 太い両手が、目前で止まった。


「おっ――」


 影が、低くなる。


「お地蔵様!」


 ずん、と砂が鳴った。


 渦吉の両膝が、地面についていた。


 合掌した指の向こうで、頭が深く下がる。


 しばらく、川の音だけがした。


「……こま殿の勝ちだね」


 風斎が言った。


 渦吉が顔を上げた。


 こまは狸の姿へ戻り、同じ場所で前足をそろえた。


 痛い所は、どこもなかった。


「あの、膝が……」


 渦吉は自分の膝を見た。


 それから、こまを見た。


「今のは、お前だと、分かっていたんだ」


「はい」


「だが、お地蔵様のお姿が、目の前に現れたら……」


 渦吉は、もう一度手を合わせかけ、途中で止めた。


 鈴太が口元を押さえた。


 弥一は舟底へ手をついたまま、肩を揺らしていた。


 渦吉が、砂のついた膝を払った。


「負けだ!」


 こまは耳を伏せた。


 怒らせただろうか。


「見事だ。俺は、押すことしか考えていなかった!」


 渦吉は、嬉しそうに笑っていた。


 こまの耳が、ゆっくり戻った。


「お相手してくださって、ありがとうございます」


「こちらこそだ。次は、もっと長く取りたい!」


「まず、今の膝を何とかしねえとな」


 鈴太に言われ、渦吉は真剣にうなずいた。


     *


 舟の点検が終わると、弥一と渦吉が、二人で水へ戻した。


 今度は、誰も乗っていないことを確かめてからだった。


「約束だ。荷を貸せ」


 渦吉が腕を伸ばした。


 鈴太が、足元の籠を持ち上げかける。


 こまは籠の縁へ前足を掛け、顔を上げた。


「私の籠は、鈴太さんに、お願いします。お荷物の方を、持っていただけますか」


「おう」


 渦吉は大きな荷袋を軽々と担いだ。風斎の包みも、その隣へ収まる。


「向こう岸から先も、持ってやれるぞ」


 こまは顔を上げた。


「木渡へ、ですか」


「道は知っている。俺も、お前らと歩いてみたい。よその土地で、相撲を取れる奴に会えるかもしれんしな」


 鈴太が、渦吉の膝へ目を向けた。


「お地蔵様が、いねえといいな」


「道中の無事も願える。いらした方がよい!」


 風斎の扇が、口元を隠した。


 こまも、少し笑った。


 怖い相手かもしれないと思っていた。


 けれど、約束を守ってくれた。自分で決めてよいと言い、負けた後も、怒らなかった。


 こまは、渦吉の顔を見て言った。


「私たちの道を、教えてください。ご一緒に、お願いします」


「おう。任せろ!」


 渦吉が胸を張った。


 鈴太がその背へ、軽く手を置いた。


「助かる。よろしく――」


「ひゃっははははは!」


 河原に、ものすごい笑い声が響いた。


 渦吉の膝が崩れた。


 肩から荷袋が滑り落ち、傾いた岸を転がっていく。


「あっ!」


 こまが前足を伸ばした。


 届かない。


 袋には、父の書状がある。若旦那が書いてくれた紙も、入っている。


 渦吉は腹を抱えたまま、手を伸ばせずにいた。


 こまの足が、川へ向きかけた。


 水の深さは分からない。


「弥一さん! お荷物を!」


 声が出た。


 弥一が櫂を横へ差し出した。


 水際を塞いだ櫂の柄に、袋がぶつかった。弥一はそのまま、荷袋を岸の内側へ押し戻した。


 鈴太が拾い上げた。


 こまは、ようやく息を吐いた。


「助かった……。ありがとうございます」


 渦吉も、砂の上へ両手をつき、息を整えていた。


「触られると、駄目なんだ……。くすぐったくて、動けん」


 鈴太が、自分の手を見た。


「悪かった。軽く、置いただけだったんだが」


「それで駄目だ」


 風斎が扇を閉じた。


「それで、相撲が好きなのかね」


「好きなんだ!」


 渦吉が顔を上げた。


「好きなものを、どうしろというのだ!」


 こまは、その顔を見つめた。


 人間が怖いのに、人間のそばへ行きたかった自分を、少しだけ思い出した。


「……触る前には、聞きます」


 こまが言うと、渦吉は大きくうなずいた。


 弥一が、櫂を舟へ戻した。


「よし。じゃあ乗ってくれ。今度こそ、向こう岸へ出すぞ」


 こまが籠へ戻ると、鈴太が背負い直した。


 舟には、風斎が先に乗った。次に、鈴太が荷袋を積み、腰を下ろす。


 最後に、渦吉が足を掛けた。


 舟が、大きく傾いた。


「待て!」


 弥一の声に、渦吉が止まる。


「お前は泳いでこい!」

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