第17話 舟を先に、橋のために
「泳いで渡った方が、早かったな」
鈴太が、向こう岸を見た。
渦吉は、もう岸へ上がっていた。水を切った大きな手で、こちらへ手招きをしている。
「一人ずつ運んでもらえば、よかったのかね」
「船頭の前で、その相談をするなよ」
風斎に言い返しながら、弥一が櫂を動かす。
舟の真ん中で、こまは籠へ鼻先を伏せた。
小さな舟なのに、川へ出ると岸が遠い。下を見ないようにしていた風斎も、いつの間にか、舟底ばかり見ていた。
岸へ着くと、渦吉が綱を受け取ってくれた。
「引き上げなくていいぞ。水に浮かべたままで、止めてくれ」
弥一に言われ、渦吉は両足を踏ん張った。
今度は、舟が揺れずに止まった。
*
川沿いを進むと、木を打つ音が聞こえてきた。
人間の町の端だった。
川へ向けて長い屋根が張り出し、その下に、舟の骨組みや、大きな梁が並んでいる。削った木の匂いが、通りまで流れてきた。
ここで働く狸たちを、木渡と呼ぶのだという。
こまは町へ入る前に休み、人間の娘へ化けた。
父の書状を胸元へ入れ、工房の戸口に立つ。
「源蔵様は、いらっしゃいますか」
「ここだよ。その板の端を、押さえておくれ」
返事をしたのは、日に焼けた頬に、細かな木屑をつけた男だった。短く刈った髪に白いものが混じり、袖を肘までまくっている。
こまは慌てて、長い板の端へ両手を置いた。
男の手元で、鉋が、すうっと滑った。
薄い木の帯が、くるりと丸まる。
「……きれい」
思わず、声が出た。
男が、顔だけこちらへ向けた。
「木目に逆らわなきゃ、こう削れる。で、あっしに何の用だい」
「鳴神六右衛門の名代で参りました。娘の、こまです」
「ああ。頭領の所の」
源蔵は工房の奥へ目をやり、少し声を落とした。
「あっしも狸だよ。今は、人の出入りがあるから、この姿でね」
こまはうなずいた。
源蔵が鉋を置いてから、書状を差し出す。
目を通す間、こまは川側の作業場を見た。
一艘の大きな荷舟が、丸太を並べた斜面の上に据えられていた。幅が広く、底が浅い。縁の一部には、まだ新しい板が当てられている。
『川の音は、毎日聞いてるんだがね』
低い声がした。
こまの目が、舟へ向いた。
『まだ、そこを走ったことがない』
「あの舟は――」
「棟梁!」
背後から、大きな声が飛んだ。
こまの手が、板の上で跳ねた。
戸口に、藍の前掛けをした男が立っていた。額に汗を浮かべ、片手に、何枚もの紙を握っている。
「橋は、どうなった。米屋の荷車が今日も遠回りだ。薬の荷まで、川下から運んでるんだぞ」
「庄助さん。今、材を削ってるところだよ」
「分かってる。分かってるが、いつまでだ。……その娘さん、注文の客か?」
男の目が、こまへ向いた。
喉が、詰まった。
人間だ。
自分も同じ姿なのに、そう思った途端、返事が細くなる。
「私、は……」
「舟の話だよ。今すぐ仕事を増やすと決めたわけじゃない。まず、こっちの橋を見に行こう」
源蔵が書状を畳んだ。
こまは、何も続けられなかった。
*
工房から川下へ少し歩くと、修理中の橋が見えた。
橋の真ん中の板が外され、下の骨組みがむき出しになっている。両岸には柵が置かれ、人は渡れなかった。
対岸に、荷車と、米俵を積んだ人が待っていた。
「あの方たちは……」
「渡せる荷から、小舟で回してるんだ。だが、荷車ごとは乗らない。橋が要るのさ」
源蔵が言った。
こまは、川岸の荷を見た。
父の舟を急いでもらう間、この人たちは、待ち続けることになるのだ。
庄助が橋の下を指した。
「ここの太い木を、新しいのに替える。材は、もうあるんだろう。なら、明日には――」
「梁はある。だが、運んで、据えて、上の板を戻す。全部済んでから、確かめるんだ」
「分かった。皆には、明日渡れると知らせておく」
「それは言っていないよ」
源蔵の声は、変わらなかった。
庄助が口を閉じた。
「急いでいるのは、分かってる。だが、渡ってよいという返事をするのは、橋を確かめた後だ」
「……じゃあ、いつだ」
「まずは梁を運ぶ。今日、どこまで進んだかは、夕方に知らせるよ」
庄助は、紙を握り直した。
その顔を見て、こまは目を伏せかけた。
困らせたくなくて、はいと言いそうになる。
けれど、源蔵は、言わなかった。
「舟の話は、それからにしてくれ」
庄助はこまへ言い、対岸へ声をかけに行った。
こまは両手を握った。
急がなくてよいとは、言えない。父も、きっと待っている。
でも、こちらの橋も、後でよい仕事ではなかった。
*
工房へ戻る道で、こまの指先が痺れ始めた。
源蔵に小さく伝えると、工房の脇の小屋を空けてくれた。
鈴太と入り、戸を閉めてから狸へ戻る。
それだけで、肩へ入っていた力が、少し抜けた。
源蔵が人を遠ざけてくれた小屋で、こまは水を飲み、改めて舟の話を聞いた。
「頭領の言う数を造るなら、橋の仕事とは一緒にできない。手が足りないよ」
川側では、渦吉が荷袋をそばへ置き、太い材を積み直すのを手伝っていた。
「渦吉さんが、運ぶのを手伝っても……ですか」
「ありがたいが、継ぎ目を合わせて、舟を組む手も要る。橋の梁を据えるのも、力だけじゃ済まないのさ」
こまは、下げた鼻先を、自分の前足へ寄せた。
父には、何と言えばよいのだろう。
橋の修理があるから、できませんでした。
それも、父へ伝える返事なのだろう。けれど、まだ聞いていないことがあった。
小屋の戸の隙間から、荷舟が見えた。
すぐそばを、川が流れている。
「あの舟に、買う方は、決まっていますか」
「まだだよ。注文の合間に造っていたんだ。あと少し、仕上げが残ってる」
「橋の、大きな木は、どうやって運ぶんですか」
「筏に組んで流すか、舟へ載せる。あそこにある小舟では、載せられないがね」
こまは顔を上げた。
父へ渡す舟。
橋へ運ぶ梁。
川の上で、一つにつながった気がした。
「あの舟を、先に、一艘だけ仕上げて……」
源蔵がこちらを見た。
「橋の梁を、運ぶのに使うのは、駄目でしょうか。そのあとで、父の所へ、渡していただくんです」
言い終えてから、こまは耳を伏せた。
何か、知らないことがあるかもしれない。
舟も橋も造ったことのない自分が、勝手に、できると思っているだけかもしれない。
源蔵は、荷舟を見つめていた。
風斎が、戸口から舟と橋の方を交互に見た。
「舟を先に仕上げることが、橋の仕事にもなるのだね」
「はい。残りの舟は、橋が直ってから……。父には、その順番で、お返事します」
源蔵が、小屋の外へ出た。
舟のそばの職人を呼び、短く話す。二人は継ぎ目を確かめ、岸へ積まれた梁を見に行った。
こまは、その間、何も言えずに待っていた。
やがて、源蔵が戻ってきた。
「舟幅と梁の重さは、いける。はみ出す分を、どう支えるかは決めねばならないが」
こまの耳が、持ち上がった。
「その順なら、できそうだ」
息が、ふっと抜けた。
こまは、鈴太を見た。
鈴太が、口元を緩めた。
「聞いてもらえたな」
「……はい」
ただ頼みを渡すだけではなくて、自分が見たことも、役に立った。
こまは、前足をきちんとそろえ直した。
「お願いします」
「庄助さんとも、この順番で話をするよ。まだ、橋がいつ開くかを決めたわけじゃない。頭領への返事にも、そこは書いておくれ」
「はい」
源蔵が、こまの顔を見た。
「明日は、舟を川へ下ろす。見ていくかい」
こまは、荷舟へ目を向けた。
まだ川を走ったことがないと、言っていた舟だ。
「見たいです」
今度は、すぐに答えられた。
小屋の外で、渦吉が声を上げた。
「舟を下ろすのか! なら、俺の出番だな!」
源蔵が戸口へ顔を出した。
「手は借りたいが、まず段取りからだよ」
「おう!」
渦吉は胸を張り、もう舟のそばへ歩いていた。
鈴太が、小さく言った。
「最後まで、聞いてたかな」




