第18話 引かないでください
『今日こそ、川へ出るんだね』
荷舟の声に、こまはうなずいた。
翌朝、仕上げを終えた舟には、橋へ運ぶ太い梁が載っていた。舟幅より長いため、両端が左右へはみ出している。
人間の娘に化けて手伝っていたこまは、その端を見上げた。
これを運べば、橋の修理が進む。
橋の仕事が済んだら、この舟は父の頼みに応えてくれる。
「一艘からなら、話を進められる。頭領にも、そう書いておくよ」
源蔵に言われ、こまは胸の前で指を握った。
「ありがとうございます」
自分が考えた順番で、皆が動いている。
その嬉しさを、鈴太の顔を見て、もう一度確かめた。
けれど、そろそろ人間の姿を休ませたかった。朝から板を押さえたり、源蔵の話を聞いたりして、手足の先が重くなっている。
こまは鈴太を呼び、小屋へ戻った。
「箱に、化けてもいいですか。そばで、見ていたいので」
「おう。運ぶよ」
小さな木の道具箱になると、鈴太が取っ手を持って外へ出た。
船場の少し川下には、修理中の橋がある。舟を下ろすのも、橋が近いこちらの岸だった。
橋の近くの岸には、梁を吊り上げるための木組みと、川へ張り出す作業足場がある。滑車から綱が垂れ、そこへ舟を寄せて梁を上げる予定だった。
舟の上では、職人が一人、梁を留めた縄を確かめていた。
岸では、風斎と別の職人が、舟から延ばした綱を工房の柱へ結ぼうとしている。
「庄助さん。柵の外で待っておくれ」
源蔵の声がした。
こまは、取っ手へ掛かる鈴太の手の力が、少し強くなったのを感じた。
昨日の人間が、見に来ている。
今は、この姿のまま、静かにしていよう。
「こっちの楔は、俺が抜けばよいのだな!」
渦吉が、舟の下へしゃがんだ。
舟は、川へ傾いた丸太の上に載っている。滑り出さないよう、太い木の楔で止めてあった。
「舟の重みがかかってる。簡単には抜けないよ。まず、綱で――」
「俺なら抜ける!」
『まだだ!』
楔の声が、鋭く響いた。
「待っ――」
渦吉の腕が、持ち上がった。
太い楔が、抜けた。
舟が動いた。
*
丸太が、立て続けに鳴った。
大きな舟が斜面を滑り、水面へ突っ込む。
白い水が跳ね上がった。
「綱を離せ! 手を巻かれる!」
源蔵の叫びに、職人が握っていた綱を放した。
結び終えていなかった綱が、土の上を走っていく。
「俺が止める!」
渦吉が、その綱をつかんだ。
だが、舟はもう船場を離れ、下流の橋へ流されていた。
舟の上の職人が、腹ばいになって縁をつかむ。
鈴太が箱を抱え直し、岸に沿って走った。
「橋の下だ!」
誰かが叫んだ。
鈍い衝突音がした。
舟からはみ出した梁の、岸側の端が、橋脚の柱と斜めの支え木の間へ突っ込んだ。
梁は止まった。
舟だけが流れに押され、向きを変えようとする。
片側が持ち上がり、反対の縁へ水がかかった。
職人の足が滑った。
「動くな! 低くなってろ!」
源蔵が川岸を駆け下りた。
こまの体も、鈴太の腕の中で大きく揺れた。
橋が。
舟が。
どちらも前へ進むはずだった。
あの人が落ちたら、流されてしまう。
渦吉が、綱を両腕へ抱え込んだ。
「引き戻すぞ!」
綱が、ぴんと張った。
橋の下で、木が軋んだ。
『引くな……!』
低く、苦しい声がした。
『挟まった梁が、柱を押してる! これ以上引いたら、柱が折れて、橋が崩れる……!』
橋脚の声だった。
こまは、声のした方へ意識を向けた。
梁の端が、柱の間から抜けていない。
舟を岸へ引けば、梁が梃子になって、橋を支える木を押し壊してしまう。
橋が壊れる。あの人も、川へ落ちてしまう。
言わなければ。
源蔵も、風斎も、その声は聞こえない。
でも、人間にも、聞かれる。
箱が喋ったら、何をされるだろう。
また、橋の下で、木が鳴った。
「引かないでください!」
声が、川へ飛び出した。
「橋が倒れます! 梁が、橋脚に挟まっています!」
渦吉の足が止まった。
「引かずに、そのまま持っていてください!」
「……分かった!」
渦吉は腰を落とした。
舟を引き寄せず、それ以上も流さないように、綱を支える。
源蔵が、橋脚の方へ身を乗り出した。
「本当だ。梁の端が、支え木の内側に入ってる」
こまは、止められた。
けれど、舟はまだ傾いたままだった。
*
「先に、梁の端を上げよう」
風斎が、岸に立つ木組みを指した。
「吊り綱を、そこへ下ろせるかね。端を外してから、舟を戻すのだ」
源蔵が、木組みの作業足場へ、職人を二人向かわせた。
風斎も後へ続きかけ、足を止めた。
足場の先の下に、川が見える。
風斎は唇を引き結び、岸へ戻った。
「私は、ここで綱を取る。上の君、輪を作って下げてくれたまえ!」
職人が、滑車から綱を繰り出した。
その先が、舟の上へ下りていく。
「梁を留めた縄は、緩められるか!」
源蔵の声に、舟の職人がうなずいた。
縁から片手を離し、梁を留めていた縄をほどく。
舟が揺れた。
岸で、庄助が息を呑んだ。
「落ちるぞ!」
こまは、箱のまま、何もできなかった。
自分で岸へ下りることも、あの人の手を取ることもできない。
鈴太が、こまを岸の平らな石の上へ置いた。
「ここにいてくれ。綱を手伝う」
「はい……!」
鈴太が風斎の所へ走った。
舟の職人は、梁へ胸を押しつけるようにして、下りてきた綱をつかんだ。
輪を梁の端へ通し、締める。
引っ掛かった所より外側に、綱が掛かった。
「よいぞ! 上げてくれ!」
風斎と鈴太が、岸へ下ろされた綱の反対側を引いた。
滑車が回った。
梁の端が、少し持ち上がる。
まだ、橋脚から外れない。
『もう少し……。下の角が、残ってる』
こまは、すぐに声を出した。
「あと少しです! 梁の、下の角が、まだ引っ掛かっています!」
「渦吉殿、まだ動くな!」
「動かん!」
太い綱の向こうで、渦吉の足が砂へ沈んだ。
風斎の額から、汗が落ちる。
鈴太が歯を食いしばった。
「上げるぞ。もう一度!」
二人が綱を引いた。
梁が、さらに上がった。
『外れた!』
橋脚の声が変わった。
「外れました!」
源蔵も、橋の下を確かめて手を上げた。
「まず、舟を少しだけ引け! 梁を橋脚から離すんだ!」
渦吉が、岸に沿って斜め上流へ、一歩下がった。
舟も、少し動いた。吊り綱に支えられた梁の端と、橋脚の間に隙間ができる。
「そこで止めろ。梁を、舟へ戻す!」
風斎と鈴太が、ゆっくり綱を緩めた。持ち上がっていた梁が、舟の縁へ戻る。
傾いていた舟が、起き上がった。
職人が梁を縄で留め直し、手を上げた。
「よし。今度こそ、岸へ寄せるぞ!」
渦吉が一歩ずつ下がり、源蔵たちが舟へ手を伸ばした。
舟が、岸へ止まった。
職人が陸へ引き上げられた。
両足が地面へつく。
それを見て、こまはようやく、言葉を出せた。
「……よかった」
*
川岸に、誰も喋らない時間があった。
渦吉が、抜いた楔を見下ろしていた。
「俺が、早く抜いたからだ」
大きな声ではなかった。
「すまん。役に立てると、思った」
源蔵が、その前へ立った。
「綱を持っていてくれたのは、助かった。だが、抜く順番は、聞いてほしかったよ」
「……おう」
「舟も橋も、まず傷を調べる。梁を運ぶのは、それからだ」
渦吉は楔を両手で持ち、うなずいた。
こまは、石の上に置かれたままだった。
鈴太がそばへ戻り、濡れた手を着物で拭った。
こまを持ち上げる前に、別の足音が近づいた。
「棟梁」
庄助の声だった。
「さっき、そこから声がしたな」
指先が、こまへ向いた。
何も、言えなくなった。
「木の箱が、橋の下を見ていたのか。あの声、昨日の娘さんじゃないのか」
鈴太の手が、箱の取っ手へ伸びかけた。
こまは、小さく声を出した。
「源蔵様」
「聞いてるよ」
「私のことを、お話しても、よいですか」
源蔵は、庄助を見た。
それから、川向こうの人影と、工房へ戻っていく職人たちを確かめた。
「あんた自身のことなら。場所を変えて話そう」
こまは、待っていた。
鈴太が取っ手を持ち、静かに持ち上げてくれる。
庄助の足音が、後ろからついてきた。
怖かった。
けれど、もう源蔵に、返事を全部預けたくはなかった。
「……私から、話します」




