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第8話 帰りたくない理由

『文字まで削らないでおくれよ』


 大和屋の看板が、情けない声を出した。


 翌朝、こまは綿入れに寝そべったまま、耳を立てた。昨日と同じ、借りた離れの一室だ。


 看板を調べている大工の手が止まる。こまが声を伝えると、日に焼けた顔が、看板とこまを見比べた。


「……そう言ってるのか」


「はい。あの、できれば、字を残してほしいそうです」


「焼けた所は削らにゃならん。残せる所は残すがね」


 大工は鑿を置き、黒くなった縁を指した。


「ここは欠けたままにゃできん。別の板を継ぐ。字も、なくなった所は書き直す。それでもいいかい」


 こまは看板へ目を向けた。


『また、店先へ掛けてもらえるかね』


「……直したら、また店先へ掛けてもらえますか、と」


「それは、私からもお願いします」


 若旦那が答えた。


「今朝、こちらの商人に相談して、店先の一角を借りられることになりました。まずは、そこで商いを再開します」


 包帯の巻かれた手で、看板の無事な所へ触れる。


「元の店を建て直すまで、もう少し働いてもらいたいんだ」


『なら、頼もうかね』


 返事を伝えると、大工は看板を持ち上げた。


「分かった。預かるよ」


 戸の外へ運ばれていく板を、こまは耳をぴんと立てて見送った。


 戻ってくる場所が、決まった。


 まだ品物も少なく、建て直す銭も工面しなければならない。それでも、大和屋の看板は、また掛かるのだ。


「こまさん。尾が」


「えっ」


 尾の先が、綿入れの端を、ぱた、ぱたと叩いていた。


 こまは慌てて前足で押さえた。


「よ、よかったなと、思って……」


「うん。私も」


 若旦那が笑い、こまも少しだけ口元を緩めた。


 そこで、廊下から足音がした。


「若旦那、こまさん。お母様をお連れしました」


 朝早く、こまに教わった山道へ使いに出た奉公人だった。


 戸が開き、藍色の小袖を着た女が立っていた。黒髪をきちんと結い上げている。


 人間の姿に化けた、母のお福だった。


「こま」


 母の声に、こまの耳が跳ねた。


     *


「まあ、こんなに……」


 母はこまのそばへ来るなり、言葉を失った。


 母はこまの前へ膝をつき、薬を塗った背中と、白い布を巻いた足を見つめた。頬へそっと手のひらを添えられ、こまは喉を詰まらせた。


 叱られると思っていた。


 心配をかけたことを謝ろうとしたのに、母の優しい声を聞いた途端、声が出なくなった。


「痛かったねえ」


「……はい」


 返事と一緒に、涙が落ちた。


 母はしばらく何も聞かず、手拭いでこまの涙を拭った。


 若旦那が少し離れた所へ座り直す。


「お知らせが遅くなりました。大和屋の、茂右衛門と申します」


「こまの母、お福と申します。この前も、娘を助けてくださった方ですね」


「はい。けれど今回は、私が助けてもらいました」


 母が顔を上げた。


 若旦那は、こまが人間の姿で店を手伝っていたことを話した。火事の際には梯子に化け、自分が下りるまで、火のそばで耐えてくれたことも。


 母の指が、手拭いをぎゅっと握りしめた。


「梯子に……」


 こまは前足を引き寄せた。


 母は知っている。


 物に化けているときも、傷つけば痛いことを。


「この傷は、それで」


「……はい」


 母は目を閉じた。やがて、深く頭を下げた若旦那へ向き直る。


「手当てをしていただいて、ありがとうございます」


 それから、こまの顔をのぞき込んだ。


「今日は、母さんと帰ろう」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「山なら、ゆっくり休める。食べる物も、寝床もあるよ。母さんが抱いて帰るから」


 もっともな話だった。


 母が怒鳴らないことが、かえって苦しかった。


 嫌われたからではない。いらなくなったからでもない。心配して、迎えに来てくれたのだ。


「でも、お店の片づけが……」


「それは、怪我が治ってから」


 こまは口を閉じた。


 母の言うとおりだ。


 ここで役に立てることがあるからといって、怪我をした娘を置いて帰ってほしい理由にはならない。


「ご家族のそばなら、私も安心です」


 若旦那が言った。


 こまは、はっと顔を上げた。


「道具を見てもらう仕事は、治ってからでも頼めるから。帰って休むことを、気にしなくていいよ」


 優しい声だった。


 それなのに、泣きそうになった。


 違う。


 仕事だけでは、ない。


 こまは若旦那の顔を見た。目が合うと、言いかけたことが喉へ戻りそうになる。


 ここで黙ったら、母と山へ帰ることになる。


 また来ればいい。治ってから会えばいい。


 分かっていた。


 でも、昨夜、心細いと言ったこの人の声を、まだ覚えている。


「……私が、いたいんです」


 母がこちらを見た。


 こまは綿入れの端を、前足でぎゅっと押した。


「お仕事をしないと、いけないからではなくて」


 一度、息を吸う。


「若旦那様と、一緒にいたいんです」


 言ってしまった。


 顔が熱くなり、耳の先まで伏せたくなった。けれど、母は黙って返事を待っている。


「看板が戻ってくるのも、見たいです。お店を、また始めるところも。……ここで、見ていたいんです」


 母の目が、こまから若旦那へ移った。


 こまも、つられて見てしまった。


 若旦那は口を少し開け、膝の上で指を握っていた。


 困らせたのだろうか。


「あの、ご迷惑でしたら――」


「迷惑ではないよ」


 今度は、若旦那の返事が早かった。


「私も、いてくれたら嬉しい」


 こまは鼻先を伏せた。


 嬉しい。


 それだけで、もう口元が緩みそうになる。母の前なのに、尾までまた動きそうだった。


 母は、長く息を吐いた。


「……まず、お前の手当てをしてくれた方と話をさせておくれ。ここで休ませていて大丈夫か、確かめたいからね」


「はい」


「それから、しばらく母さんも通うよ。いいかい」


 こまは何度もうなずいた。


「物には化けないこと。人間の姿になるのも、傷が治るまでは我慢。仕事をしていても、眠くなったら休むこと」


「はい」


「そちらの若旦那も、お休みになるように」


「はい」


 若旦那の返事まで弾んだ。


 母が、怪訝そうに首をかしげる。


 こまは慌てて口を開いた。


「この方は、言うことを聞いてくださいますから」


「こまさんのお願いなら、もちろん」


 若旦那が、にこにこした。


 母はしばらくその顔を眺め、こまへ小さく言った。


「……ずいぶん、素直な方だねえ」


 こまは、返事に困った。


     *


 昼過ぎ、手当てをした男と話を終えた母は、こまのそばへ戻ってきた。


「ここでも、続けて手当てをしていただけるそうだね。よろしくお願いしてきたよ」


 母は、ようやく少し表情を緩めていた。


「明日は、いつもの飯を持ってくるからね」


「ありがとうございます」


 ほっとして礼を言うと、母はこまの頭へ手を置き、耳の間をゆっくり撫でた。


「それと、傷が治ったら、一度家へおいで」


 こまは顔を上げた。


「父さんが、お前に頼みたい仕事があるそうだよ」


「私に、ですか?」


「父さんの代わりに、よその狸たちへ会いに行ってほしいんだって」


 戸の向こうで、若旦那が手代と、明日の商いを相談していた。


 こまは母を見たまま、耳だけを、その声へ向けた。

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