第7話 狸のままで、ここに
「店は、ほとんど焼けてしまいました」
手代の声に、こまは目を開けた。
知らない天井だった。
取引先の商人が貸してくれた、離れの一室。火事のあと、ここへ運ばれたことを、少しずつ思い出す。
狸の体には、あちこちに薬が塗られていた。下に敷かれた綿入れから身を起こすと、背中がひりついた。
「帳面も、品物も。持ち出せた物は、わずかです」
開いた戸の向こうで、若旦那がうなずいている。手当てを受けた手には、白い布が巻かれていた。
「皆の寝る場所と、今夜の食事は?」
「こちらの蔵も貸してくださるそうです。炊き出しの握り飯も、人数分あります」
「ありがとう。火元の家の人たちは?」
「皆、逃げられたそうです」
若旦那は、そこでようやく長く息を吐いた。
こまも、前足に入れていた力を緩めた。
誰も、あの火の中に残らずに済んだ。
けれど。
明日から結ぶはずだった前掛けも、休むための小部屋も、なくなってしまったのだ。
手代が、抱えていた板を壁へ立て掛けた。
大和屋の看板だった。片側が黒く焦げ、字の一部が欠けている。
『……もう、掛けてもらう店もないか』
低い声が聞こえた。
こまは前足をそろえた。何と返せばいいのか、分からなかった。
「残っていたのか」
若旦那が看板へ手を伸ばした。
焦げた縁をなぞりかけ、手を止める。
「よく、持ってきてくれたね」
「表へ倒れていたので。……若旦那も、少し休んでください」
「うん。こまさんの様子を見たらね」
手代が下がり、若旦那が部屋へ入ってきた。
こまは綿入れの上で、懸命に背を伸ばした。
人間の娘に、化け直さなくては。
寝床も足りないのに、自分だけ横になっている。片づけでも、食事を運ぶのでも、何かできるはずだ。
小さな手と、二本の足を思い描く。
けれど、体に力を込めた途端、背中へ痛みが走った。
「っ……」
「動かないで」
若旦那がそばへ膝をついた。
こまの前に、毛のある足が二つ並んでいる。
指には、ならなかった。
「手当てをしてくれた人が、しばらく安静にと言っていたよ。今は、化けなくていい」
「でも……お店の、お手伝いを」
若旦那の目が、白い布を巻いた自分の手へ落ちた。
「私も、この手ではね。皆に頼むことが増えてしまった」
困ったように笑い、こまへ向き直る。
「まずは、一緒に治そう」
こまは、鼻先を伏せた。
その優しさに、甘えたかった。
でも、若旦那には、店の人たちがいる。なくした物が、たくさんある。今度こそ、自分のことを後回しにしてはいけない人なのだ。
「……山へ、迎えを頼んでください」
口にすると、喉の奥が苦しくなった。
「お母さんたちに来てもらう?」
「はい。これ以上、ご迷惑をかけないように」
若旦那が、黙った。
こまは尾を体へ寄せかけ、痛くて途中で止めた。鼻先だけでも隠したかった。
また、一緒に芋を食べる日は来るだろうか。
治ったあと、訪ねてもいいだろうか。
聞きたいことが増えるほど、何も言えなくなる。
「家で休みたいなら、送っていくよ」
若旦那の声は、静かだった。
「でも、迷惑だから帰らなければと思っているなら、ここにいてほしい」
こまは顔を上げた。
「何も、できなくてもですか」
「うん」
すぐに返事が来た。
若旦那は、壁の看板へ目を向けた。
「明日は、取引先へ無事を知らせて回る。残った品物を確かめて、商いを続ける場所も探す。やることは、あるんだ」
膝の上で、手が重なる。
「でも、目を閉じると、あの窓から下りられなかったことを考えてしまってね」
包帯の端が、小さく震えていた。
「店も、あんなに……。皆には大丈夫と言ったけれど、今夜、一人になるのは心細い」
こまは、その手を見つめた。
助けられたのは若旦那だ。
なのに、自分ばかりが、怖くて、痛くて、不安なのだと思っていた。
若旦那も、あの火の中にいた。
前足を、少しずつ伸ばした。
袖をつかむ代わりに、包帯のない指先へ、そっと重ねる。
「私も、怖かったです」
「うん」
「若旦那様が、下りてこられなかったらと思うと、今も……」
言葉が途切れた。
若旦那が手を返し、こまの前足を下から支えた。
温かかった。
その温かさを確かめているうちに、震えていた息が、ゆっくり整ってきた。
「ここに、いてもいいですか」
「いておくれ」
こまは、今度はうなずけた。
「朝になったら、お母さんたちにも居場所を知らせよう。家までの道を教えてね」
「はい」
*
握り飯をほぐしたものと水を、二人とも少しずつ口にした。
食べ終わると、若旦那はまた立ち上がろうとした。
「皆の様子だけ、見てくるよ」
こまの前足が、畳へ出た。
痛くてついていけない。
また、一人で無理をしてしまう。
「あの」
若旦那が振り返った。
「手代さんに、お願いしてください。今夜は、もう休んでください」
「でも――」
「お願いします。私、また若旦那様が倒れるのは、嫌です」
最後だけ、声が大きくなった。
こまは耳を伏せた。言いすぎただろうか。
若旦那は目を丸くしてから、なぜか少し頬を染めた。
「……はい」
返事が、妙に嬉しそうだった。
戸口へ食器を取りに来た手代が、若旦那の顔を見た。
「叱られるために、もう一度立たないでくださいね」
若旦那は、おとなしく座り直した。
こまは二人を交互に見た。
やっぱり、この人には、まだ分からないところがある。
けれど、座っていてくれるなら、それでよかった。
『店は、また開くのかい』
壁際から声がした。
こまは看板へ顔を向けた。
『字も欠けちまった。おれは、もう使えんかね』
焦げた縁から、黒い欠片が一つ落ちた。
こまは、自分の前足を見た。薬の匂いがする、今は立つのも難しい足だった。
「……まだ、捨てないでください」
若旦那がこちらを見た。
「あの看板が、また使ってほしいと、言っています」
「看板が?」
「私、物の声が聞こえるんです。直せるかどうかは、ちゃんと見ていただかないと、分かりませんけれど」
手代が看板の前へしゃがみ、焦げていない裏側を確かめた。
「明日、大工に見てもらいましょう」
こまは、看板へ小さくうなずいた。
できない約束は、しない。
でも、声を聞いて、誰かへ伝えることなら、今の自分にもできる。
「焼け跡から持ち出した物も、捨てる前に、ここへ持ってきていただけませんか」
「こまさんに、声を聞いてもらうんだね」
「はい。全部を直せるとは、言えません。でも、まだ使える物が、あるかもしれません」
若旦那は手代と顔を見合わせた。
「では、運ぶのは私どもが。こまさんは、寝たままでお願いします」
手代に言われ、こまは綿入れへ前足を戻した。
「はい」
今度は、若旦那が笑った。
「それじゃあ、明日はここで、大和屋の仕事をしよう」
こまは耳をぴんと立てた。
人間に化け直さなくても、明日の仕事がある。
若旦那は、壁際の看板を見やった。
「この子にも、また店先へ戻ってもらわないとね」
『……頼むよ』
「はい」
こまは、前足をそろえた。
「一緒に、お店へ帰りましょう」




