第6話 嫌われても、助けたい
二階の窓から、若旦那の顔が消えた。
「若旦那!」
こまの声は、半鐘の音にかき消された。
窓枠をつかむ手だけが見える。黒い煙の奥から、咳が聞こえた。
ついさっきまで、隣で茶を飲んでいた人が、息をすることさえできずにいる。
「梯子を!」
手代が叫んだ。
「裏の倉です! もう、入れません!」
答えた奉公人の額に、煤がついていた。別の男が通りの先へ梯子を探しに走る。
店の奥で、何かが崩れた。
戸口から火の粉が噴き出し、人々が後ずさる。こまも足を引いた。頬をなでた熱風に、体が勝手に逃げようとした。
若旦那の手が、窓枠を滑った。
こまは息をのんだ。
梯子なら。
窓まで届く、丈夫な梯子なら、自分が化けられる。
顔を上げかけ、止まった。
あの人の目の前で、人間の娘が物に変わるところを見せるのだ。
化け狸だと、知られる。
人間の娘に化けていたと知っても、あの人はまた笑いかけてくれるだろうか。
あの人の口から、化け物、と言われたら。
差し出した芋を思い出して、顔をしかめられたら。
握っていた包み紙が、音を立てた。
また、一緒に食べたかった。
「こまさん、離れて!」
若旦那の声がした。
窓から身を乗り出し、こちらへ手を振っている。言い終わる前に咳き込み、肩が折れるように沈んだ。
まだ、私を逃がそうとしてくれる。
こまは包み紙を離した。
嫌われたくない。
その気持ちは、消えなかった。
それでも、あの人に生きていてほしかった。
「私が、梯子に化けます」
手代が振り向いた。
「何を――」
「化けたら、あの窓に掛けてください。私では、動けません」
声が震える。こまは手代の袖をつかみ、窓を指した。
「お願いします。支えていてください!」
手代の目が、こまと二階の窓を行き来した。
「……分かりました。皆、手を貸して!」
こまは通りの空いた所へ膝をついた。
人間の娘の形を手放し、慣れ親しんだ物の形を思い描く。
長い二本の支柱。足を掛ける横木。あの窓へ届く長さ。
最後に若旦那を見上げた。
どんな顔をされるか、それが怖かった。
でも、もう目を伏せなかった。
*
体が長く伸び、手足の感触が消えた。
石畳へ、木の端が当たった。
周りで息をのむ音がした。「人が、梯子に……」と、誰かの声が震えた。
聞きたくなかった。けれど、耳を塞ぐ手はもうない。
「先を持って! 窓へ!」
手代の声とともに、こまは持ち上げられた。
体が傾く。上の端が窓の縁へ押し当てられた瞬間、焼けるような痛みが走った。
熱い。
若旦那がつかんでいた窓枠は、もう焦げていた。
身をよじって逃げたい。けれど、どれだけ痛くても、木の体は動かない。
「若旦那、下りてください! 足元は押さえています!」
手代たちの手が、下の端を強く支えた。
「こまさん……!」
すぐ上から、若旦那の声がした。
こまは答えようとした。そのとき、熱を受けた木がみしりと鳴り、痛みが言葉を押し戻した。
若旦那の足が、横木へ掛かった。
重さがかかる。
あの人が、窓の外へ出た。
一段、下りた。
もう一段。
重さが移るたび、焦げた先端から痛みが広がった。
頭上で、何かが激しく爆ぜた。熱風が吹き上げ、火の粉が横木を焼いた。細かな痛みが、いくつも重なる。
自分に火がつけば、あの人まで焼いてしまう。
戻りたい。
狸に戻って、冷たい土の上へ腹をつけたい。
変化が解けかけ、支柱が震えた。
若旦那の足が止まる。
だめ。
今、戻ったら、この人が落ちる。
こまは木の形を、必死に思い描き直した。
泣きたいのに、涙を流す目もなかった。
「もう少しです、そのまま!」
手代の声が聞こえた。下から支える手が増え、震えていた体が押さえられた。
若旦那の重さが、また動いた。
一段。
まだ。
もう一段。
まだ、戻らない。
生きていて。
私を怖がってもいいから。
どうか、下りて。
ふっと、重さが消えた。
「下りた! その梯子を運んで、早く!」
こまは窓枠から離された。持ち上げられ、揺すられながら運ばれる。
熱が遠ざかっても、痛みは消えなかった。
あの人は。
本当に、下りたのだろうか。
確かめたかった。顔を見たかった。
地面に下ろされた途端、全身から力が抜けた。疲れと痛みで、もう梯子の姿を保てなかった。
*
目を開けると、地面のすぐそばに、毛のある前足が見えた。
狸に戻っていた。
体のあちこちがひりつく。起きようとしても、足に力が入らなかった。
通りを二つ隔てた空き地で、手代がこちらへ膝をついている。その向こうに、若旦那がいた。
顔も着物も煤で汚れていた。息をするたび、喉が鳴る。
でも、歩いていた。
こまのそばまで来て、しゃがんだ。
助かった。
胸の奥がほどけた途端、涙がこぼれた。
「こま、さん?」
若旦那の目が大きく開いた。
こまは前足を引き寄せた。隠れたい。人間の娘へ化け直したい。けれど、何度願っても、指は生まれなかった。
この姿のまま、見られている。
こまは耳を伏せ、震える口を開いた。
「あのとき、助けていただいた、狸です」
声は、ひどく小さかった。
「お礼を、言いたくて……人間に、化けていました」
若旦那が動かなかった。
そのわずかな間が、苦しかった。
もう、袖へ触ってはいけないだろうか。
名前を呼んでもらうのも、今日で最後だろうか。
こまは若旦那の顔を見つめた。逃げる力もなく、返事を待った。
「君だったの」
若旦那は膝をつき、目元をぬぐった。
「助けてくれて、ありがとう。こまさん」
名前を呼ぶ声は、さっきまでと同じだった。
こまは、息を吸い損ねた。
近づいた手が、少し手前で止まる。
「抱いても、大丈夫?」
こまはうなずこうとして、涙を落とした。
代わりに前足を伸ばし、その袖を押さえた。
爪が引っかからないよう、そっと。
若旦那はこまの体を両手で支え、ゆっくり抱き上げた。
こまはその胸へ顔を埋め、声を上げて泣いた。




