第5話 その狸が、うらやましい
「いちばん、大きいお芋をください」
声がかすれた。
人の姿で、初めての買い物だった。狸として生まれてから、銭を渡して何かを買ったことは、一度もない。
「何だって?」
芋売りの女に問い返され、こまは一歩下がった。
うなじで一つに結んだ黒髪が揺れる。黒目がちな大きな目を見開き、丸みのある頬をこわばらせた。小柄な体をさらに縮め、銭の包みを胸へ引き寄せる。
怒られたのではない。声が届かなかっただけだ。
そう思っても、喉が縮こまる。銭の包みを握る手に、汗がにじんだ。
逃げたい。
けれど、この手で選んだ芋を、若旦那に渡したかった。
「お、お芋を。一つ、ください。二人で、食べるので」
二人。
言ってから、胸の内で繰り返した。
若旦那と、自分。
「ふかしたてだよ。大きいのは、これだね」
女は湯気の上がる芋を選んだ。
教えられた代金を、こまは三度数えた。震える指で差し出すと、女はそれを受け取り、芋を厚い紙で包んだ。
「そいじゃ、仲良く分けな」
「はい」
今度の返事は、少し大きく出た。
受け取った包みは温かかった。落とさないよう両手で抱え、こまは何度も頭を下げた。
人間と話して、銭を渡して、芋を買えた。
通りを歩きながら、口元が緩む。そのたびに包みへ顔を寄せて、隠した。
*
大和屋へ着くと、こまは先に小部屋で休ませてもらった。
買い物で緊張し、人間の姿を保つのに疲れていた。芋を横に置いて狸の姿へ戻り、丸くなって目を閉じる。
鼻先を、甘い匂いがくすぐった。
一口だけ。
そう思って鼻を伸ばし、慌てて尾へ引っ込めた。
一緒に食べると、約束したのだ。
体が楽になるまで休み、もう一度、人間の娘に化けた。
戸を開けると、若旦那がちょうど廊下を通りかかった。
「お茶を入れようと思っていたところだよ」
「お芋も、あります」
こまは包みを両手で差し出し、少し胸を張った。
店の奥の座敷で、二人は小さな膳を挟んで座った。
若旦那が茶を注ぐ間、こまは芋を割った。
右の方が、大きい。
念のため両手に載せて比べ、右を若旦那の皿へ置いた。
「こちらを、どうぞ」
「いいの? ずいぶん大きいけれど」
「お約束、しましたから」
膝の上で指をそろえ、若旦那を見つめた。
若旦那が芋を口へ運ぶ。
こまの背筋まで、ぴんと伸びた。
「うん。おいしいね」
ほっと息が漏れた。
「……よかったです」
「こまさんも、どうぞ」
うなずいて、自分の芋を持ち上げた。
少し冷めた皮の下は、まだ温かかった。甘みが口へ広がると、頬が勝手に緩んだ。
「どう? おいしい?」
こまは急いで口元へ手を添えた。頬張りすぎて、小さくうなずくのが精いっぱいだった。
「前に世話をした狸にも、芋をあげたんだ」
こまの手が止まった。
若旦那は、表通りに面した窓へ目を向けていた。
「山へ帰る話をしたら、食べかけのを落としてしまってね。言葉が分かったみたいで、驚いたよ」
分かっていました。
だから、落としたんです。
こまは芋をのみ込み、膝へ目を落とした。
「……その狸は、元気に帰れたんですか」
「うん。足もよくなって、自分で歩いて帰った」
若旦那の声が、柔らかくなった。
「また、会えるといいなあ」
嬉しかった。
いなくなったあとも、思い出してくれていた。
けれど、若旦那はまだ、窓の外を見ている。
こまは、芋の皮を指先で少し剥いた。
同じ芋を食べていたのも、同じ手に撫でてもらったのも、自分なのに。
今、目の前にいる娘のことも、少しは気にしてほしかった。
こまは唇をきゅっと結んだ。
狸の自分が、うらやましい。
そんなことを思ってしまう自分に、ますます困った。
「こまさん?」
呼ばれて顔を上げると、若旦那がこちらを見ていた。
「どうかした?」
何でもありません。
言いかけて、やめた。
膝の上で手を重ねる。腹はまだ、静かなままだ。
嘘で隠す代わりに、言えることを探した。
「……私と食べたことも、覚えていてください」
最後の方は、小さな声になった。
急に恥ずかしくなって、皿を見つめる。人間に化けたばかりの娘が、何を言っているのだろう。
若旦那が茶碗を置いた。
「もちろん。こまさんが、初めてのお給金で買ってきてくれた芋でしょう。忘れないよ」
皿の端を見ていた目が、若旦那の顔まで上がった。
口元を隠そうとした手も、その途中で止まった。
「……はい」
頬が熱い。
若旦那も、食べかけの芋を置いて、にこにこしている。
こまは両手で茶碗を持ち上げた。飲もうとして、口をつける前に、また笑ってしまった。
『おい。傾けるのは、飲むときにしてくれ』
茶碗に注意され、慌てて膳へ戻す。
「こぼさなくて、よかった」
若旦那が差し出した布を、こまは真っ赤になって受け取った。
「もう少し、しっかりします……」
「ゆっくりでいいよ。ここでは」
こまは布を膝に置き、小さくうなずいた。
芋を半分ずつ食べて、茶を飲む。
それだけのことを、もう一度したかった。
*
「そうだ。こまさんに使ってもらう前掛けを、探しておいたんだ」
茶を飲み終えると、若旦那が立ち上がった。
「二階にあるから、持ってくるね」
自分の前掛け。
こまは膝の上を見下ろした。明日からそれを結び、この店で働くのだ。
「ありがとうございます」
若旦那は座敷を出て、廊下の突き当たりにある階段を上がっていった。
こまは芋の包み紙を折った。汚れた所を内側に折り込み、端を丁寧にそろえる。
持って帰ろう。
初めて、一緒に食べた日のものだから。
かん、かん、かん。
半鐘が鳴った。
紙を折る指が止まる。外で、人の叫ぶ声が重なった。
「裏隣が火事です! 皆、表へ!」
手代が駆け込んできた。
「こまさん、若旦那は?」
「に、二階に」
「荷は置いて出なさい! 二階の者も、すぐ下へ!」
階段の上から、若旦那が叫んだ。
二人の奉公人が下りてきて、店先へ走る。
「ほかに誰かいないか、確かめてくる。先に出て!」
若旦那の足音だけが、二階の奥へ遠ざかった。
「こまさんも、こちらへ」
手代に促され、こまは座敷を出た。
『熱い、熱い! 外から焼けてくる!』
廊下の奥で、裏の雨戸が叫んだ。
「うちの軒にも火が移ったぞ!」
裏口から、別の奉公人が駆けてきた。
熱い風が煙を吹き込み、こまは咳き込んだ。裏の窓枠が燃えている。火は壁沿いの荷へ移り、その先の階段にも舌を伸ばした。
二階から、戻ってくる足音がした。
「若旦那、階段はだめです!」
手代が叫ぶ。その目の前で、荷の包み紙が燃え上がり、階段の上り口を炎で塞いだ。
「皆、外へ! 私は窓へ回る!」
若旦那の声を背に、手代がこまの腕を引いた。二人は店先へ走った。
外へ出たこまは、すぐに振り返った。
二階の窓が開いた。
若旦那が、黒い煙の中から顔を出す。
握りしめた紙が、手の中で潰れた。
若旦那は、まだ、燃えている店の中にいた。




