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第4話 はじめての手間賃

『わしはまだ、重い荷だって持てる!』


 木箱に掛けた古い綱が、威勢よく言った。

 若旦那と手代が、綱を持って箱を持ち上げる。


 ぶつり。


 綱が切れた。

 木箱の片側が、土間へ落ちた。中で、がしゃんと嫌な音がした。

 こまは、息を止めた。

 大和屋で働く、初日だった。

 頼まれたのは、倉の道具の点検だった。

 物の声が聞こえるこまは、綱にも重い荷を運べるか確かめた。まだ働けるという返事と、大きな傷のない表面を信じ、使える道具の方へ置いたのだ。


「手を出さないで。破片があるかもしれない」


 駆け寄りかけたこまを、若旦那が止めた。

 手代が蓋を開ける。

 詰めてあった皿のうち、二枚が割れていた。


「……私が、使えると、言いました」


 こまの声は震えていた。

 お礼を返すはずだった。

 役に立って、また来てほしいと思ってもらうはずだった。

 なのに、最初の朝から、売り物を壊した。


「申し訳、ありません」


 頭を下げた。顔を上げるのが怖かった。

 若旦那は、切れた綱を土間へ置いた。


「私も、使う前にもっと確かめるべきだった。怪我がなくて、よかったよ」


 手代が残りの皿を一枚ずつ取り出す。その丁寧な手つきを見て、こまは唇を噛んだ。

 何か、しなければ。

 破片を片づけて、別の綱を探して、二度と間違えないように。

 しゃがもうとした膝が、がくりと折れた。

 若旦那の手が、こまの腕を支えた。


「こまさん?」


 指先が痺れていた。

 人間の姿を保てなくなる前触れだ。昨日より早い。失敗に気を取られ、限界が近いことに気づかなかった。

 今、休めば、働きたくないと思われる。

 まだ何一つ、取り返せていないのに。


「だいじょ――」


 言いかけて、口を押さえた。

 大丈夫ではない。

 嘘をつけば、腹鼓を打ちながら本当のことを言い直す羽目になる。昨日、若旦那の前で思い知ったばかりだ。

 腹を叩かされる前に、自分で言わなければ。


「……少し、休ませてください」


 喉の奥が痛かった。


「人のいない所で。お願いします」


 若旦那はすぐにうなずいた。


「裏に、空いている小部屋があるよ。歩ける?」

「はい。あの、一人で、休みたいんです」


 腕に添えられた手が離れた。


「分かった。片づけはこちらでするから、ゆっくり休んで」


 こまは何度も頭を下げ、小部屋へ入った。

 戸を閉めた途端、体が縮んだ。

 四本の足が、畳に着く。

 こまは戸から離れ、隅で丸くなった。尾を引き寄せ、鼻先まで埋める。

 若旦那に、がっかりされたくない。

 呼ばれたらすぐ気づけるよう、片耳だけは戸へ向けたまま、こまはぎゅっと目を閉じた。

 外では、皿を片づける音が続いていた。


     *


 店で昼の支度が始まるころ、ようやく体が楽になった。

 こまはもう一度、人間の娘に化けた。

 戸を細く開ける。倉の前には、若旦那も手代もいなかった。運び直したらしく、皿の箱も消えている。

 壁際に、切れた綱が置かれていた。

 こまはその前へしゃがんだ。


「……重い物も持てるって、言いましたよね」

『昔は持てた』

「今も持てるか、聞いたんです」


 返事はなかった。

 切り口を開くと、綱の内側が黒く傷んでいた。表から撫でただけでは、分からなかったところだ。


『前の旦那の頃から、ここの荷を運んだ』

 綱の声が小さくなった。


『切れそうだと言えば、捨てられる』

 こまは、綱を握る手を緩めた。


 働けないと知られたくなかった。

 さっき、こまもそう思った。けれど、この綱のために皿が割れたことまで、なくなりはしない。


「困るんです。できないことを、できると言われたら」


 自分にも言い聞かせるように、ゆっくり言った。


「……こまさん?」


 背後の声に、こまは跳ねた。

 若旦那が、竹箒を持って立っていた。


「体は、どう?」

「もう動けます。でも……途中で、また休ませていただきたいです」

「うん。それで、どこまでならできそうかな」


 こまは綱へ目を落とした。

 傷んでいるのは、切れた辺りだけではなかった。折り曲げると、別の所からも繊維がぽろぽろ落ちた。


「これは、荷を吊るすのには使えません。短く切って、端をほどいてもいいですか」

「何に使うの?」

「油や汚れを拭くのに。使ったあとは、捨てることになりますけれど」


 綱は、しばらく黙っていた。


『……一度でも、まだ働けるんだな』


 こまは小さくうなずき、若旦那を見上げた。


「ほかの道具も、傷んでいる所を、もっとよく見ます。使っていいか迷ったら、聞きます」

「じゃあ、まず私に、その切り方を教えてくれる?」


 若旦那が隣へ座った。

 こまは綱の端をほどき、短い繊維をまとめた。若旦那がそれを使い、台車の車軸にたまった油汚れを拭う。


『おお。まだ、こびりついておるぞ』


 綱は、少し張りのある声を出した。


「拭きやすいね。ありがとう」


 若旦那に笑いかけられ、こまの頬が緩んだ。


「も、もう一つ、作れます。……休んだあとで」

「うん。待っているよ」


 こまは袖で口元を隠した。頬の熱さは、なかなか引かなかった。


     *


 その日は、仕事を小さく区切ることにした。

 一つ調べたら、手代に見てもらう。疲れる前に、小部屋へ戻る。休んでいる間に、若旦那たちが修理や仕分けを進める。

 小部屋の戸には、「休憩中」と書かれた木札が掛けられた。休むときは、その面を表へ向ければいい。


「この札が出ている間は、入らないでください」

「はい」


 若旦那が、嬉しそうに返事をした。


「絶対に、ですよ」

「……はい」


 頬まで染まった。

 手代が、こまへ低い声で言った。


「念を押すのは一度で結構です。若旦那が待ち構えますから」


 何を待つのかは、聞けなかった。

 夕方になる前に、こまの仕事は終わった。

 若旦那が、小さな銭の包みを差し出した。


「今日の分です。ありがとう」


 こまは受け取れなかった。


「でも、お皿を……」

「皿の損は、店で引き受けます。次からの調べ方も決めたでしょう。これは、そのあと働いてくれた分だよ」


 開いた手のひらへ、包みが載った。

 ずしりと、重かった。

 もらった芋とも、かけてもらった着物とも違う。

 自分で働いて、受け取ったものだった。

 こまは包みを両手で握った。


「……明日も、よろしくお願いします」


 今度は、顔を上げたまま言えた。

 店を出かけて、こまは足を止めた。

 この銭で、何を買おう。

 思い浮かんだものがあって、包みを握る指に力が入った。


「若旦那は、お芋、お好きですか」

「好きだよ」

「で、では、明日買ってきます。半分ずつ……一緒に、食べませんか」


 返事を待つ間、包みの角を折っては、そっと戻した。


「ぜひ。お茶を用意して待っているよ」


 こまはぱっと顔を上げた。笑みがこぼれ、今度は隠すのを忘れた。


「……大きい方は、若旦那に差し上げます」

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