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第3話 お礼だけのはずでした

『お辞儀は分かった。そろそろ中へ入ったらどうだ』

 大和屋の戸にまで叱られて、こまは顔を上げた。

 人間の娘に化けて、初めて訪ねた店の前。練習した挨拶は、まだ戸にしか聞かせていない。

 山で何度か試して、分かったことがある。

 人間の姿は、長く続かない。

 町までは狸の姿で来て、人のいない路地で化けた。お礼を言ったら、すぐに帰る。もたもたしている暇はない。

 こまが手を伸ばした途端、内側から戸が開いた。

「おや。何か、ご用でしょうか」

 若旦那だった。

 同じ声。同じ、少し首を傾げる仕草。

 こまは口を開き、閉じ、両手を握った。

 若旦那は待ってくれた。狸だったとき、水を飲むのを待ってくれたように。

「な、鳴神こまと、申します」

 名前を言うだけで、息が切れた。

「助けてくださって、ありがとうございました。おかげで、家へ帰れました」

 頭を下げた。

 言えた。

 獣の声でごまかさず、この人へ向けて、言えた。

「私が、あなたを?」

 若旦那の声に、戸惑いが混じった。

 当然だ。助けたのは狸で、目の前にいるのは人間の娘なのだから。

 分かっていても、顔を覚えてもらっていないことが、少しだけ寂しかった。

「……今は、詳しく、お話しできないんです。でも、お礼だけは、どうしても」

 嘘をつけば、腹を叩きながら本当のことを言い直してしまう。神様に授かった力には、そんな代償がついている。

 けれど、今の言葉は嘘ではない。腹も静かなままだ。

 若旦那は少し考え、それから笑った。

「そうか。無事に帰れたなら、よかった」

 それ以上、聞かなかった。

 こまは顔を上げた。目の奥が熱かった。

「こまさん、立ったままでは疲れるでしょう。少し、座っていかない?」

 名前を、呼ばれた。

 その一言で、帰るためにそろえていた足が、店の中へ向いてしまった。

     *

『ああっ、引っ張るな! 破れる、破れる!』

 店の奥で、悲鳴が上がった。

 こまが腰を下ろそうとしたときだった。帳場で手代が、開かない引き出しを引いている。

 声は、その中から聞こえた。

『わしの表紙が上につっかえておるんだ!』

 帳面だ。

 こまには物の声が聞こえる。けれど、手代には聞こえない。

 若旦那が引き出しの取っ手へ手を添えた。

「こちらも持とう。二人で引けば――」

「引かないでください!」

 二人の手が止まった。

 こまは自分の声の大きさに驚き、肩をすくめた。

「あ、あの。中の帳面が、引っ掛かっているようで……」

 若旦那が、取っ手を握ったままこちらを見た。

「そこから手を離してください。動かさないで」

「……はい」

 頬を染めて、若旦那が両手を膝にそろえた。

 なぜ、そんなに嬉しそうなのだろう。

 手代は若旦那を一度見て、こまへ向き直った。

「竹べらならあります。使えますか」

「はい。少しだけ、押し戻していただけますか」

 こまは渡されたへらを、引き出しの上の隙間へ差し入れた。

『もう少し右。そう、そのまま下げてくれ』

 声に従い、浮き上がった表紙を押さえる。手代がそっと引くと、今度はするりと開いた。

 中には、角の折れた分厚い帳面があった。

「仕入れの帳面でしたから。破かずに済んで助かりました」

 手代の言葉に、こまの肩から力が抜けた。

「詰めすぎると、奥で帳面が立ってしまうんです。ここに板を一枚入れて、倒れないようにすると、もっと――」

 顔を上げると、二人ともこまを見ていた。

 口を閉じた。

「す、すみません。勝手なことを」

「いや。続けてほしい」

 若旦那は開いた引き出しをのぞき込み、こまの指したところへ手を当てた。

「この幅なら、端材が使えるね。あとで直しておこう」

 ちゃんと、聞いてくれた。

 こまはへらを両手で持ち、そっと笑った。

 指先が、じんと痺れた。

 笑みが止まった。

 山で練習したときも、こうだった。このあと急に力が抜けて、人間の姿を保てなくなる。

 もう、帰らなければ。

「あの、私は、これで」

「お茶もまだなのに。今日は、ほかに用事があるのかな」

 本当は、もう少し話していたい。

 そう言えば、引き止めてくれるかもしれない。けれど、長居をすれば正体を知られる。

「い、いえ。お礼を言いに来ただけですから」

 言ってから、息をのんだ。

 お礼だけではないと、分かっていたのに。

 腹が、むくりと膨らんだ。

 ぽん。

 こまの手が、竹べらを取り落とした。

 ぽぽん、ぽん。

「お礼だけじゃ、ありません!」

 両手が腹を叩く。止めたいのに、口まで勝手に動く。

「また、あなたに会いたくて、来ました!」

 ぴたりと、手が止まった。

 若旦那が目を丸くしていた。

 手代も、落ちた竹べらを拾う途中で固まっていた。

 こまは熱くなった顔を両手で覆った。

 神様は、狸の気持ちというものを、少しは考えてくださらないのだろうか。

「……お腹は、痛くない?」

 若旦那が、恐る恐る尋ねた。

「痛くは、ありません……」

 声が、袖の中へ消えた。

「そう。それなら、よかった」

 一拍置いて、若旦那が続けた。

「会いに来てくれて、ありがとう」

 こまは指の隙間から顔を上げた。

 若旦那まで、少し赤くなっていた。

 嬉しい。

 もう少し、ここにいたい。

 なのに膝が震え始めた。今ここで術が解ければ、狸だと知られてしまう。

「きょ、今日は、帰ります!」

 こまは戸口へ駆けた。

「送っていこうか」

「どうか、追いかけないでください!」

 若旦那の足が、ぴたっと止まった。

 こまも戸の前で振り返った。

 追わないでほしい。でも、これきりにはしたくない。

「……また、来てもいいですか」

 今度は、自分で言った。

「もちろん。よかったら、うちの道具を見てもらえないかな。都合のいい時間だけでいい。仕事として、手間賃も払うよ」

「は、はい。明日、また来ます!」

 こまは頭を下げ、店の脇の路地へ駆け込んだ。

 角を曲がり、空き樽の陰へ身を隠した途端、体が縮んだ。土に着いたのは、人間の手ではなく、毛のある前足だった。

 間に合った。

 こまが荒い息を整えていると、店の窓から声が漏れてきた。

「若旦那。あんなに震えていらしたのに、仕事まで頼むのですか」

「でも、さっきの手際は見事だったろう」

「確かに。手伝っていただければ助かりますね」

 こまは、思わず尾を揺らした。

「それに……『動かさないで』という言い方が、とても」

「手間賃は、あの方の仕事に払うんですよ」

 こまの尾が止まった。

 明日から自分は、何を期待されて働くのだろう。

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