第2話 お礼が言いたい
「明日は、山へ帰ろうか」
若旦那がそう言ったとき、こまは食べかけの芋を落とした。
大和屋へ運ばれて、半月。
右の後ろ足の傷はふさがり、もう包帯も取れていた。部屋の端まで歩いても、足を引きずらずに済む。
元気になったら帰す。
初めの夜、そう約束してくれたのだ。
なのに、こまは芋を拾うことも忘れ、若旦那を見上げていた。
「山の家族も、心配しているだろうね」
若旦那は、こまの前へ芋を戻した。
帰りたかったはずだ。
戸が閉まるたび、閉じ込められたと思っていた。人の足音がすれば、寝床の隅で小さくなった。
今は、その足音を待っている。
戸の前で一度止まり、静かに開ける、この人の足音を。
「寂しくなるなあ」
若旦那が笑った。こまの頭へ伸びた手が、少し手前で止まる。
こまは自分から、その手へ額を寄せた。
温かい手のひらが、毛をゆっくり撫でた。
もう、撫でてもらうために、怖さを我慢する必要はなくなっていた。
*
翌朝、こまは若旦那の後について、大和屋の戸を出た。
初めて見る朝の店先では、手代が腰に手を当てていた。
「狸を送ったら、そのまま帰っていらしてください。河原の猫も、巣から落ちた鳥も、拾ってきてはいけませんよ」
「鳥は、巣へ戻してやるくらいなら」
「寄り道禁止。分かりましたね?」
「はい」
若旦那の返事は、やけに弾んでいた。
叱られたのに、なぜ嬉しそうなのだろう。
こまには、半月たっても分からないことがある。
若旦那はこまを連れて山道を登りながら、何度も振り返った。
「疲れていない? 抱いていこうか」
こまは首を振り、四本の足で土を踏んだ。
抱いてほしくないわけではない。
けれど、これ以上甘えたら、山へ帰りたくなくなってしまう。
やがて、道の脇に見覚えのある大きな杉が現れた。この木の先で道を外れ、藪を抜ければ、こまの家へ続く獣道に出る。
こまが足を止めると、若旦那も立ち止まった。
「ここからなら、帰れる?」
こまは一歩、藪へ向かった。
若旦那がうなずき、しゃがむ。
「それじゃあ、元気でね」
それだけだった。
名前も知らない。言葉も通じない狸を助けて、毎日世話をして、家へ帰す。
何か返してほしいと、一度も言わなかった。
こまは動けなくなった。
助けてくれて、ありがとうございます。
この半月、何度も練習した言葉だ。誰もいない部屋で、皿を相手に繰り返した。
言えばいい。
今、ここで。
口を開く。けれど、若旦那の顔を見た途端、声が喉につかえた。
人の言葉を話す狸を、この人はどう思うだろう。
優しく撫でてくれた手を、気味悪がって引っ込められたら。
「……くぅ」
獣の声で、ごまかしてしまった。
「うん。私も、会えてよかった」
違う。
今の声には、ありがとうも、もっと一緒にいたいも、何一つ入っていない。
若旦那が手を引く。
こまは思わず前足を伸ばしかけ、それを土の上へ戻した。
また袖を押さえても、伝わらない。
あの部屋へ戻してもらっても、同じことの繰り返しだ。
自分で、何とかしなければ。
こまは深く頭を下げた。
顔を上げると涙が落ちそうで、そのまま藪へ歩いた。
「またおいで。いつでも」
背中へ届いた声に、足が止まりかけた。
振り返ったら戻ってしまう。
こまは唇を噛み、木々の間へ入った。
*
家へ帰ると、母に抱きしめられ、父にも母にもこっぴどく叱られた。
叱られて嬉しいという若旦那の気持ちは、やはり分からなかった。
けれど、無事を喜んでもらえて、ようやく山へ帰ってきたのだと思えた。
その翌朝、こまは母に持たせてもらった飯の包みをくわえ、山の社へ向かった。
物にしか化けられない自分が、人間の姿に化けるには。
思い当たるのは、神仏に願を掛け、神通力を授かったという狸たちの話だった。
ただし、願いと引き換えに、何かを背負うことになるという。
その代償を、業と呼ぶ。
石段を登り、こまは社の前へ座った。
「人間に化けられるようになりたいです」
声が震えた。
「人間に化けて、あの人にお礼を言いに行きたいんです」
返事はなかった。
こまは、前足をそろえて頭を下げた。
一日目は、戸を開ける前の足音を思い出していた。
二日目は、自分の毛を撫でた手の温かさを思い出していた。
飯を食べ、水を飲み、眠っては、また願った。
三日目の朝。
『人間が怖いのではなかったか』
社の奥から声がした。
こまは顔を上げた。
閉じた扉の向こうに、姿は見えない。こまは前足をそろえ直した。
願いが、届いたのだ。
「……怖いです」
『それでも、人間に化けたいと?』
こまは扉のすぐ前へ進み、見上げた。
「怖くても、会いたいんです」
口にして、頬が熱くなった。
お礼だけなら、山の木の実を届けてもよかった。物陰から役に立って、帰ってくることもできた。
でも、それでは足りない。
顔を見て話したい。自分の名前を呼んでほしい。
『よかろう。人間の姿に化ける力を授ける。術が解ければ、元の狸の姿に戻る』
社の奥で、何かが鳴った。
『ただし、その姿で嘘をつけば、腹を叩きながら、本当のことを言い直すことになる』
「……腹を?」
問い返したとき、前足の感触が変わった。
指がある。
石段に触れているのは、毛のない、小さな手だった。
こまは立ち上がろうとして膝をつき、慌てて両手で体を支えた。目線が高い。尾がない。着物の袖が、腕から滑り落ちる。
人間の娘の姿に、化けている。
袖を持ち上げ、細い指を開いたり閉じたりした。
この手なら、皿を運べる。芋を拾える。
若旦那に手を振ることも、できる。
「ありがとうございます……!」
涙が頬を伝った。
こまは頭を下げ、何度もお礼を言った。
やがて息を整えると、自分の腹へ目を落とした。
嘘をつけば、これを叩く。
人間の娘のふりをするのに、それはどれほど困ることなのだろう。
人前へ出る前に、確かめなければ。
こまは着物の腹を両手で押さえ、そっと言った。
「私は、人間の娘です」
腹が、むくりと膨らんだ。着物がぱんと張り、押さえていた手が持ち上がる。
ぽん。
手のひらが、勝手に腹を叩いた。
「えっ」
ぽぽん、ぽん。
止めようとしても、両手が小気味よく腹を打つ。
口まで、勝手に開いた。
「狸です! 人間に化けた狸です!」
言い終えた途端、手が止まった。
鳥が、社の屋根から飛び立った。
こまは、自分の両手を呆然と見下ろした。
「こ、こんなお腹で、どうやって恩返しに行けばいいんですか……?」




