↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/17

第1話 恩人は、少しおかしい

『人間が来るぞ。今度は化けないのか?』

 鉄の罠が言った。

 鳴神こまは、小石に化けようとした。何も起こらない。茶色い毛も、丸い耳も、傷ついた足も、そのままだった。

 茶碗にも、地蔵にもなれる。生き物の姿は怖くて真似できないが、物に化けるのは得意だった。

 なのに今は、体が弱りきって、姿を変える力が残っていなかった。

 昨日の夕方、罠に右の後ろ足を挟まれた。変化して足を抜いたものの、傷は消えず、二歩先の木の根元まで這うのが精いっぱいだった。

 それから、一晩。

 腹に触れる土が冷たい。足の血は固まり、喉は息をするたびに痛んだ。

 こまは、物に化ける力と、物の声を聞く力を持つ化け狸だ。

 けれど、罠に返事をする力も、もう残っていなかった。

「若旦那。その狸、もう……」

「待って。息をしている」

 人間の声に、体がこわばる。

 木々の隙間から、二人の男が現れた。薄い藍色の着物を着た青年と、荷物を背負った男だ。

 青年がこまのそばへ膝をつき、顔をのぞき込んだ。

 牙を見せなければ。

 噛むから近づくなと、知らせなければ。

 口がわずかに開いた。声は出なかった。

 青年の表情が変わった。

「手拭いを。それと、羽織を広げてくれ」

 青年は手拭いを受け取り、こまの足の傷へ押し当てた。

 痛い。

 前足が土をかく。青年は傷ついた足を支えたまま、連れの男へ顔を向けた。

「大和屋へ先に知らせてくれ。手当てのできる者を呼んでおいてほしい」

「連れてお帰りになるんですか」

「このままにはしておけない」

 青年は広げた羽織へこまを横たえ、布の端を寄せた。

 人間の家へ、連れていかれる。

 こまは逃げようと前足を動かした。けれど首を持ち上げることもできず、羽織ごと抱き上げられた。

 昔、尾を踏んだ子供たちの笑い声が耳によみがえる。

 この人は、何をする人なのだろう。

「揺れるよ。少しだけ、我慢しておくれ」

 頬に触れた布は温かかった。

 その温かさに体が緩むことさえ怖いのに、こまの意識は、そこで途切れた。

     *

 目を開けると、木の天井があった。

 古い綿入れの上に寝かされ、足には白い布が巻かれている。そばで行灯の明かりが揺れ、薬の匂いがした。

 戸の向こうで声がする。

「若旦那、狸の分のお粥をお持ちしました」

「ありがとう。そこへ置いておくれ」

 人間の家だ。

 こまは起き上がろうとして、足の痛みに倒れた。前足が皿に当たり、水が畳へ広がる。

 叱られる。

 前足だけで後ずさった。壁に背が当たる。爪で畳をかいても、もう下がれない。

「驚かせたね。すまない」

 山で見た青年が、入口に立っていた。

 こまが歯を見せると、青年は足を止めた。

「水を替えるよ。それだけだ」

 ゆっくりしゃがみ、皿を取り上げる。濡れた畳を拭いても、こまへ手を伸ばしてはこなかった。

 山で一緒にいた男も顔を出した。

「お目覚めですか」

「うん。歯を見せてくれた」

「威嚇されておりますね」

「山では、その力もなかったから」

 青年がほっと笑う。

 こまは口を閉じ損ねた。

 追い払うために見せた牙を、喜ばれてしまった。

 男は店の手代らしい。水差しを置くと、部屋の隅にある膳へ目を向けた。

「若旦那のお食事も、ずっと手つかずではありませんか」

「この子が飲んだら食べるよ」

 手代が声を落とし、膳を青年のそばへ押した。

「あなたまで倒れては困ります。食べる。着替える。しっかりなさい。次に倒れるのが若旦那でも、私はもう知りませんよ」

 青年の背筋が、ぴんと伸びた。

 叱られたばかりなのに、頬がほんのり赤い。

「……今の、もう一度」

「何をです」

「もう知りません、のところを。できれば、もっと冷たく」

 手代は無言で膳を指した。

「黙って、召し上がれ」

「はい」

 青年は満面の笑みで箸を取り、ようやく一口食べた。

 こまは、二人の顔を見比べた。

 怖い人間ばかり見てきた。こんな人間は、知らない。

 青年が新しい水を皿へ注いだ。

『また替えるのかい』

 こまの耳が動く。

『お前さんが寝てる間にも、何度も替えたんだよ。俺の水は冷たいままで、あっちの膳ばかり冷めていく』

 青年には、皿の声が聞こえていない。何も答えず、水をこまの届くところへ置いた。

「飲めそうかな」

 喉がひりひりした。

 水へ近づきたい。けれど、青年の手がそばにある。

 こまの視線を追って、青年は膝へ手を戻した。それでも動けずにいると、さらに後ろへ下がる。

「ここで待っているね」

 入口のそばに座り、両手を膝に置いた。

 私が何も言えない間も、水を替えてくれた。

 自分の食事を、後回しにしてまで。

 こまは足に巻かれた白い包帯を見た。

「私は、大和屋の茂右衛門(もえもん)というんだ」

 青年が静かに名乗った。

「ここは、うちの店の空き部屋だよ。傷が治るまで休んでおいで。元気になったら、山へ帰ろう」

 帰して、くれる。

 こまは、青年と水の皿を交互に見た。

 人間は怖い。今も、足音がするたびに耳が伏せてしまう。

 それでも、この水を飲んでみたいと思った。

 前足を伸ばし、傷ついた足をかばって腹をずらす。青年は動かなかった。

 皿へ鼻先を寄せ、舌を出す。

 冷たい水が喉を通った。

 一口。もう一口。

 飲み込むうちに、詰めていた息が、ようやく長く吐けた。

「……よかった」

 顔を上げると、青年が目元に手を当てていた。

「若旦那。泣いておいでで?」

「だって、水を飲んでくれた」

 青年は笑って、目をこすった。

 狸が水を飲んだだけで泣く人。

 冷たく叱られて、もっと冷たくと頼む人。

 こまは青年を見つめた。まだ分からないことばかりなのに、この人の名前は、忘れたくないと思った。

 茂右衛門。

 心の中で、そっと呼んでみる。

 私にも、名前があります。こま、といいます。

 助けてくれて、ありがとうございます。

 口を開きかけて、止まった。

 人の言葉を話せば、ただの狸ではないと知られてしまう。化け狸だと分かっても、この人は同じように笑ってくれるだろうか。

 この人の笑顔が消えるのを、見たくなかった。

 喉から出かけた言葉を、こまは飲み込んだ。

 青年が静かに近づき、皿を取った。

「粥も冷ましておくね」

 そのまま、立ち上がろうとする。

 待って。

 まだ、何も伝えられていない。

 こまは前足を伸ばし、目の前を通った袖を押さえた。

 爪が引っかからないよう、そっと。

 青年は少し驚き、こまの顔を見た。

 こまは目を伏せた。袖に載せた前足だけは、引っ込めなかった。

 青年は何も言わず、もう一度、隣に座った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


「面白かった」「続きも読んでみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。ご感想もお待ちしています。


泣き虫狸・こまの初恋がどこへ向かうのか、これからもお付き合いください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。