第1話 恩人は、少しおかしい
『人間が来るぞ。今度は化けないのか?』
鉄の罠が言った。
鳴神こまは、小石に化けようとした。何も起こらない。茶色い毛も、丸い耳も、傷ついた足も、そのままだった。
茶碗にも、地蔵にもなれる。生き物の姿は怖くて真似できないが、物に化けるのは得意だった。
なのに今は、体が弱りきって、姿を変える力が残っていなかった。
昨日の夕方、罠に右の後ろ足を挟まれた。変化して足を抜いたものの、傷は消えず、二歩先の木の根元まで這うのが精いっぱいだった。
それから、一晩。
腹に触れる土が冷たい。足の血は固まり、喉は息をするたびに痛んだ。
こまは、物に化ける力と、物の声を聞く力を持つ化け狸だ。
けれど、罠に返事をする力も、もう残っていなかった。
「若旦那。その狸、もう……」
「待って。息をしている」
人間の声に、体がこわばる。
木々の隙間から、二人の男が現れた。薄い藍色の着物を着た青年と、荷物を背負った男だ。
青年がこまのそばへ膝をつき、顔をのぞき込んだ。
牙を見せなければ。
噛むから近づくなと、知らせなければ。
口がわずかに開いた。声は出なかった。
青年の表情が変わった。
「手拭いを。それと、羽織を広げてくれ」
青年は手拭いを受け取り、こまの足の傷へ押し当てた。
痛い。
前足が土をかく。青年は傷ついた足を支えたまま、連れの男へ顔を向けた。
「大和屋へ先に知らせてくれ。手当てのできる者を呼んでおいてほしい」
「連れてお帰りになるんですか」
「このままにはしておけない」
青年は広げた羽織へこまを横たえ、布の端を寄せた。
人間の家へ、連れていかれる。
こまは逃げようと前足を動かした。けれど首を持ち上げることもできず、羽織ごと抱き上げられた。
昔、尾を踏んだ子供たちの笑い声が耳によみがえる。
この人は、何をする人なのだろう。
「揺れるよ。少しだけ、我慢しておくれ」
頬に触れた布は温かかった。
その温かさに体が緩むことさえ怖いのに、こまの意識は、そこで途切れた。
*
目を開けると、木の天井があった。
古い綿入れの上に寝かされ、足には白い布が巻かれている。そばで行灯の明かりが揺れ、薬の匂いがした。
戸の向こうで声がする。
「若旦那、狸の分のお粥をお持ちしました」
「ありがとう。そこへ置いておくれ」
人間の家だ。
こまは起き上がろうとして、足の痛みに倒れた。前足が皿に当たり、水が畳へ広がる。
叱られる。
前足だけで後ずさった。壁に背が当たる。爪で畳をかいても、もう下がれない。
「驚かせたね。すまない」
山で見た青年が、入口に立っていた。
こまが歯を見せると、青年は足を止めた。
「水を替えるよ。それだけだ」
ゆっくりしゃがみ、皿を取り上げる。濡れた畳を拭いても、こまへ手を伸ばしてはこなかった。
山で一緒にいた男も顔を出した。
「お目覚めですか」
「うん。歯を見せてくれた」
「威嚇されておりますね」
「山では、その力もなかったから」
青年がほっと笑う。
こまは口を閉じ損ねた。
追い払うために見せた牙を、喜ばれてしまった。
男は店の手代らしい。水差しを置くと、部屋の隅にある膳へ目を向けた。
「若旦那のお食事も、ずっと手つかずではありませんか」
「この子が飲んだら食べるよ」
手代が声を落とし、膳を青年のそばへ押した。
「あなたまで倒れては困ります。食べる。着替える。しっかりなさい。次に倒れるのが若旦那でも、私はもう知りませんよ」
青年の背筋が、ぴんと伸びた。
叱られたばかりなのに、頬がほんのり赤い。
「……今の、もう一度」
「何をです」
「もう知りません、のところを。できれば、もっと冷たく」
手代は無言で膳を指した。
「黙って、召し上がれ」
「はい」
青年は満面の笑みで箸を取り、ようやく一口食べた。
こまは、二人の顔を見比べた。
怖い人間ばかり見てきた。こんな人間は、知らない。
青年が新しい水を皿へ注いだ。
『また替えるのかい』
こまの耳が動く。
『お前さんが寝てる間にも、何度も替えたんだよ。俺の水は冷たいままで、あっちの膳ばかり冷めていく』
青年には、皿の声が聞こえていない。何も答えず、水をこまの届くところへ置いた。
「飲めそうかな」
喉がひりひりした。
水へ近づきたい。けれど、青年の手がそばにある。
こまの視線を追って、青年は膝へ手を戻した。それでも動けずにいると、さらに後ろへ下がる。
「ここで待っているね」
入口のそばに座り、両手を膝に置いた。
私が何も言えない間も、水を替えてくれた。
自分の食事を、後回しにしてまで。
こまは足に巻かれた白い包帯を見た。
「私は、大和屋の茂右衛門というんだ」
青年が静かに名乗った。
「ここは、うちの店の空き部屋だよ。傷が治るまで休んでおいで。元気になったら、山へ帰ろう」
帰して、くれる。
こまは、青年と水の皿を交互に見た。
人間は怖い。今も、足音がするたびに耳が伏せてしまう。
それでも、この水を飲んでみたいと思った。
前足を伸ばし、傷ついた足をかばって腹をずらす。青年は動かなかった。
皿へ鼻先を寄せ、舌を出す。
冷たい水が喉を通った。
一口。もう一口。
飲み込むうちに、詰めていた息が、ようやく長く吐けた。
「……よかった」
顔を上げると、青年が目元に手を当てていた。
「若旦那。泣いておいでで?」
「だって、水を飲んでくれた」
青年は笑って、目をこすった。
狸が水を飲んだだけで泣く人。
冷たく叱られて、もっと冷たくと頼む人。
こまは青年を見つめた。まだ分からないことばかりなのに、この人の名前は、忘れたくないと思った。
茂右衛門。
心の中で、そっと呼んでみる。
私にも、名前があります。こま、といいます。
助けてくれて、ありがとうございます。
口を開きかけて、止まった。
人の言葉を話せば、ただの狸ではないと知られてしまう。化け狸だと分かっても、この人は同じように笑ってくれるだろうか。
この人の笑顔が消えるのを、見たくなかった。
喉から出かけた言葉を、こまは飲み込んだ。
青年が静かに近づき、皿を取った。
「粥も冷ましておくね」
そのまま、立ち上がろうとする。
待って。
まだ、何も伝えられていない。
こまは前足を伸ばし、目の前を通った袖を押さえた。
爪が引っかからないよう、そっと。
青年は少し驚き、こまの顔を見た。
こまは目を伏せた。袖に載せた前足だけは、引っ込めなかった。
青年は何も言わず、もう一度、隣に座った。
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泣き虫狸・こまの初恋がどこへ向かうのか、これからもお付き合いください!




