第9話:ひび割れた鏡
陽の差さない狭い空間だった。隅には最小限の什器だけが置かれ、隙間から忍び込む斜光が、漂う塵をゆるやかに照らしていた。
奥の柱には蜘蛛の巣のようにひび割れた鏡が危うげに吊るされたままだった。
エリアーナは遠目で見た残像とはまるで違っていた。畑を耕し、網を繕う者からしか漂わないような土の匂いがした。哀しみをたたえた瞳はうつろではなかった。深い疲労の向こう、火種が灰の中に潜み、瞬いている。
「なぜだ」
エリアーナは湯気の立つ茶器を見下ろすだけだった。水面に映った顔が揺らいだ。
「テリオンと会ったと、聞きました」
答えなかった。沈黙が説明を求めていた。エリアーナは顔を上げ、アッシュの向こうにある鏡を見た。
「私の弟です。世界にただ一人の」
テリオンの冷ややかな薄笑いが、目の前の寂しげな微笑みと奇妙に入り混じった。
ひどい不協和音。だがこの稼業においてそうした不条理ほど確かな真実はなかった。
エリアーナは返ってこない答えを不信と受け取ったのか、訊かれてもいない記憶を語りはじめた。
「相変わらずでしたか? 世界中の重荷を背負ったような顔」
翳った笑みが茶器の上ににじんだ。
「司祭服より訓練着のほうが好きな子でした。私とは違って聡明で強くて……私の分まで罰を受けながら、泣いている私をなだめてくれる、そんな弟だったんです」
手が無意識に胸元へ向かった。革紐に吊るされた、不吉な温もりを宿す石をもてあそんだ。
「あの子はいつも言っていました。教団の教えは偉大だけれど、それを担う者は往々にして道を見失うのだと」
「ああ先日……私が咳をしていると聞きつけたのか貴重な薬草を送ってきてくれたんですよ。『北部でよく採れる花』と書かれた一筆を添えて」
エリアーナは、疑念という幕越しに見てもなお飾らない顔だった。忘れていた祭壇の影がちらついた。
「あんたの信徒は?」
「見返りは何だ? 精製してやると約束した石ころか?」
エリアーナの表情がこわばった。赤い石を握る手に力がこもった。
「……巡礼団があまりに困窮しているのを見て……ガレスが下した決断だったんです」
「子供は飢え、薬草は底をつきかけていました。教団は補給を絶ちましたし……。ガレスは……ただ皆を生かしたかっただけなんです。間違っているとは分かっていても……他に道が見えなくて」
アッシュは低く言い放った。
「だから奇跡を売って犯罪に目をつむったのか」
エリアーナが唇を噛んだ。アッシュはその顔を見据え、さらに一歩踏み込んだ。
「その便利な力」
視線が手の中の石に突き刺さった。
「必要なときに病を治し、裏仕事ももみ消せる。一体どこで拾った?」
「あんたの涙が癒やしたものと、奪ったもの。天秤は本当に釣り合っていたのか?」
エリアーナの眼差しが激しく揺れた。手を震わせながら、かろうじて口を開いた。
「この力は……私が望んで得たものではありません」
遂に口をついて出た告白は、砂粒が混じったようにざらついていた。
「……市場でのことでした。ある子供が死にかけていて。母親は泣き叫んでいて……何もできませんでした。ただその苦しみがわが事のように悲しくて、涙を流しただけなんです」
瞳が虚空の一点に留まった。
「そのとき、そばにいた老人が懐に抱えていたものが……反応したんです。赤い光がはじけ、子供の熱は嘘のように引いていった。……奇跡でした」
その掌の中で石ころが心臓を真似ては拍子を外していた。
「老人は悲鳴をあげて逃げていきました。これだけを残したまま……。そうして気がつけば、私は聖女になっていた。……それがすべてです」
説明が長くなるほど、声は乾いていった。アッシュがその流れを断ち切った。
「代償なき奇跡はない」
エリアーナはまた唇を噛んだ。アッシュと向き合えず両手だけを見下ろしていた。
「最初は……気づかなかったんです。私が通り過ぎた場所ごとに人々の眼差しが少しずつ……変わっていくことに。穏やかになるのではなく、空っぽになっていくことに……後になってから気づいたんです」
「やめようとしました。でも……どうして目を背けられるでしょう」
声はあのときへ引き戻されるように悲痛に沈んでいった。
「少し前、村が赤狼団に襲われました。女や子供が……なすすべもなく倒れていくのを見ました。私は……膝をついて祈ることしかできなかった。どうか救ってくださいと……」
「そのときでした。私の涙に、絶望に……この石が応えたのです。意志とは関係なく……いえ、まるで願いを勝手にかなえてくれたかのように……巨大な光があふれ出して村を包みました」
アッシュはその現象の本当の名を知っていた。ただ事実を告げるだけだ。
「数多の魂を担保に力を引き出す魔法は、わずかな歪みでも連鎖的に暴走する。あんたが化け物にならなかったのは……運が良かっただけだ」
「化け物……ですって? それは……何ですか」
エリアーナの顔から血の気が引いた。アッシュは目を逸らさなかった。
「悲嘆の聖痕」
天幕をたたく風の音も、エリアーナの呼吸も、ぴたりと途絶えた。
「資格なき者が手に余る力を握ったときに訪れる、約束された破滅。教団ではそう呼んでいる」
「テリオンは教えてくれなかったか?」
エリアーナは否定しなかった。死刑宣告の日取りを確かめる囚人のように、うなだれた。
その沈黙の中、最後の欠片がはまった。たちの悪い冗談だった。奇跡を起こしたのではなく、模しただけだった。
失笑を噛み殺した。
鏡に歩み寄り、映り込んだ自分とエリアーナを見つめた。亀裂が、二人の顔を横切っていた。自分でも驚くほど枯れた声が出た。
「祭壇の上に捧げた生贄、他の誰でもない、あんた自身だったな」
* * *
行き場を失った言葉がゆっくりと降り積もる。
天幕の向こうから、朝を告げる巡礼者たちの聖歌が執拗に染み込んできた。自分たちの聖女がどんな真実と向き合っているのかも知らず、ただ光を歌っていた。
アッシュはうなだれるエリアーナから目を離し、入り口のほうへ足を向けた。外はまだ、蒼白い薄明の底にあった。足元の水盤には、一晩分の塵が薄く浮いていた。
歌声のせいだったのか。エリアーナがゆっくりと顔を上げた。眼差しがアッシュではなく向かいの柱へ流れた。
すべてが砕けて映る、ひび割れた鏡。
鏡の中の顔と、傍らに立つ男のうつろな目と向き合った。一粒の涙が頬に道を刻み、こぼれ落ちる。終わってしまった者の、枯れた樹液だった。
声は最後に残った一握りの灰を払い落とすように消え入る。
「なら私は……どうすればいい?」
アッシュはその問いを知っていた。五年前、硝子の聖所で自らに投げかけた問いだった。




